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第五話
しおりを挟む私は意識の半分を記憶の底に沈めながら、前を往く大きな背を追った。明かりのほとんどない道のりであったが、彼の歩みにも私の歩みにも迷いは無かった。この道を知っている。あの日通った道だから。
セライの指が前を指す。私は黙ってそれに続く。
セライを思い出すことに頭の半分を割いたため、私の口はすっかり重くなっていた。彼も何も言わないものだから、これではまるで葬列だ。たった二人の葬列。セライのための、そして私のための葬列。
いつのまにか私たちの歩みは丘を抜け、山の裾野に差し掛かった。あの日通った獣道は、時間の流れによって歩きやすく開拓されている。
置いていかれまいと私は前を歩く男の背をしっかりと見据えた。彼の背は、街を出た時と比べて随分と大きくなった。心なしか急いているように感じられるが、これは私が焦れているだけなのかもしれない。
もうじき、もうじきだ。私たちはセライの死んだあの場所に着く。
「あぁ懐かしい。スキュラと共に真っ直ぐに崖下に落ちていったセライの顔を、私は今でも夢に見る。なぁ、あの時どうして笑っていたんだ?」
ぞろりとローブの影が波打つように揺れた。答えはなかった。そんなもの端から望んじゃいない。
「私がもっとずっと強い人間だったなら、セライと二人で今も生きていられたのだろうね。私がもっとずっと弱い人間だったなら、セライ二人で死ぬことが出来たのだろうね」
目の前の影が揺れるたび、べしゃりと濡れたものを叩きつけるような音がする。頭上に広がる星空に押し潰されてしまいそうだ。
「私が中途半端だったから、セライ、君の右足しか残せなかった。それだって私は手放した。私のような者が持つより、ずっと適した持ち主がいたから」
周囲の木々が風で騒ぐ。その度死体を煮詰めたような臭いを感じる。セライは崖下に落ちていったから、そんなものですら私に与えてはくれなかった。
「折角落ちていくセライを掴むことができたというのに、セライが自分から落ちていくものだから、参ってしまうよ。自らの足を切ってまでスキュラと共に落ちていくことを、スキュラを確実に殺すことを選ぶなんて」
前を往く人間は、いつの間にかとても人間とは言えないほどの巨体に変わり果てている。飛び出した数本の触手が、戯れとばかりに辺りの木や岩塊を薙ぎ倒していく。
「セライ、セライ。私には何も残らなかったよ。だからせめて、私の願いを聞いてくれないか。そうすればきっと決心がつく。きっと終わらせることができる」
セライの姿だったものが、ピタリとその歩みを止めた。いつの間にか私たちは目的の地に着いていて、あの日見た草花が、雲海が、星空が目の前に広がっている。夢のように穏やかな場所だった。
叶うならば、この平穏が永劫続くことを願う。
「私の名前を呼んでくれ」
セライを形取る怪物は、ゆっくりとその巨体をこちらに向けた。顔のような部位がごぽりと泡立ち、口に似た器官を作り出す。人ならざる醜悪な姿。纏わりつく死の臭い。
「シアトラ」
セライとは似ても似つかない、耳障りな声。
「……ありがとう。久しぶりに、とても素敵な夢を見ることができた」
私は懐から短剣を取り出した。もう心残りはなかった。
目の前の怪物は私に触手を伸ばしては苦しそうに揺らめいている。犬の頭に似たシルエットが一つ、二つ。大きく様変わりしてはいるが、間違えようもない。
「久しぶりだな、スキュラ。セライの死体を取り込んで再生したか。だが、よっぽど切羽詰まっていたようだな。しっかり消化してからくれば、セライに行動を干渉されることも無かったろうに」
一歩前に出る。気圧されたかのように、スキュラの体が後ろに下がった。そのくせ触手は私を捉えようと暴れている。背叛する意思がその身の内にあるのだ。
「街で暴れられたら良かったな。私を喰えれば良かったな。もし君が怪物のままで私の前に顔を出したのなら、一緒に死んでやってもいいとすら思っていたのに」
突くように伸ばされた触手は空を切った。恐れはない。私はスキュラに向かって歩き続けた。近づくたび、スキュラは私から離れるように蠢いた。
そうして幾ばくも立たず、私たちは地の淵に辿り着いた。ほんの少しでもその身体を押してやれば、スキュラは再び崖の下へと落ちていく。二度目はこんなにもあっさりと終わる。
「半端にセライの真似事をするものだから、思い出してしまったよ。セライは人々を、世界を、そして私を愛していたんだ」
迷うことなど、もうありはしない。私は酷く穏やかな心地で、その泡立つ身体に短剣を突き入れた。
■ □ ■
風が吹いている。
着の身着のままここに来たものだから、身体が芯から冷えていた。それでも、しばらくの間この場所を離れる気にはなれなかった。
崖下を覗き込んでも、私の目には何も映らない。落ちていったスキュラはもう、影も形も見当たらない。そこにはただただ霞が広がるばかりだ。
「なぁセライ。君がわざわざこんなところまで私を連れてきたのは、贖罪でもしろということだとばかり思っていたんだが。……違うな。思い出したよ。君は贖罪なんて言葉、知りもしない男だったってことを」
私は自分の懐を探った。残念なことに、碌なものは何一つとして持ち合わせていない。
仕方がないので、私は先ほどスキュラを突き刺したナイフの汚れを服で拭い去り、崖下へ放り投げた。昔からずっと使っている愛用品だ。だからまぁ、文句はないだろう。
「これからはもう少し頻繁に来ることにするよ。さようなら、セライ」
次に来る時はイルガンダのワインでも持ってくることにしよう。その次は花を、その次は私の書いた物語を。その次も、その次だって考えよう。こういうのはあまり得意でないのだが、それでも努力はしたいと思う。
もう二度と、セライが寂しくないように。
完
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