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第三章
第十話 ステラの長手袋
しおりを挟むぎしぎしと小さな軋みと共に荷車は進む。
踏み鳴らされて平坦だった道はやがて自然のままの風景に近づき、荷台に乗るリリエリにも振動が感じられるようになっていった。
周囲の風景にはぽつりぽつりと木が増えていき、じきに三人は森へと入っていくだろう。
「そろそろ安全圏を出ます。ここからはしばらく森の中を通る形になります」
「お詳しいですね。リリエリ様にお願いして正解でした。荷車が通れそうな道に心当たりはありませんか?」
「川沿いであれば、いけるかと。ナビゲートします」
かつてリリエリ達は一度都市エルナトとシジエノ廃村間を結ぶルートの調査を行っている。完璧に把握したわけではないが、荷車が通れる道を指示できる程度には記憶に残っていた。
壁外に出る理由付けのためだけに受けた依頼だったのだが、それがこんなにも役立つことになるとは。人生はなにがあるかわからないものである。
完全に森に踏み入る前に、リリエリは荷台の上で炭に火をつけた。
この炭は暖を取るためのものではない。花や虫から抽出されたオイルを垂らし燃すことで、周囲に長く香りを立てる香木であった。
「あら、不思議な匂いがしますね。木の葉を蒸したみたいな……」
「この辺りで一番強い魔物の出す臭い、に近い匂いを出す香木です。弱い魔物であれば離れていってくれます。この辺でしか効果はないですが」
「便利ですね。なるほど、リリエリ様はこういった知識に長けているのですね」
「こういうことしか取り柄がなくって」
ストレートに褒められて、リリエリはとても気恥ずかしくなった。謙遜してはみせたが、内心嬉しく思っていることはステラにはバレているだろう。声があまりに浮かれてしまったから。
リリエリは香木にきちんと火が入ったことを確認し、鍋の中に放り入れた。香箱なんて上等なものはリリエリの持ち物には存在しない。
「ところで、この辺りで一番強い魔物ってどんな魔物なんですか?」
「熊ですね。レッドバックと呼ばれています。巨体で、腕の数が四本あって、恐ろしくしつこいです。群れて行動しないことだけが救いですね」
「例えば、あのような」
「はい、あんな感じの」
ステラが荷車を止めたと同時、リリエリもまた即座に杖の明かりを消した。
奥の奥、進行方向で生物の気配を感じる。まだ距離がある、気づかれてはいないだろうが、このまま進めば確実に鉢合わせるだろう。
この辺りで最も強い魔物の匂いを纏えば、弱い魔物は寄り付かない。が、最も強い魔物自身にとっては、それはただの自分の匂いだ。
「当たり前なんですけど、レッドバック自身にはこの香、意味をなさないんですよねぇ」
「でもリリエリ様、この匂いのおかげでまだ気づかれていませんよ」
「今のうちに引き返して迂回しましょう。縄張りを離れれば襲われることはないはずです」
「あの熊は、群れでは行動しないんですよね? 引き返すのも面倒ですし、一匹くらいなら」
やっちゃいましょうか。
暗闇の先で、カチャリと金属の擦れる音が聞こえた。
明かりを落としたためステラの表情は見えない。だが、そんな中でも明らかに感じ取れる程に、ステラの声は明るかった。楽し気な色さえ乗っていた。
「あの、私、戦えなくって、」
「存じております。私一人で構いませんよ。でも、荷車から離れたくもないですね。あの熊をこちらに寄せられませんか?」
「……できます」
リリエリはトンと軽く杖の先端を荷車につき、明かりをつけた。煌々とした明かりが、森の内部を照らし上げる。レッドバックの姿は見えないが、動く気配が心なしか激しくなったように感じられた。
リリエリは愛用のミスルミン製ナイフを取り出し、柄を鍋の側面に向けて狙いをつけた。
「寄せますよ。いいですか?」
「お願いします」
明かりの下で見たステラの顔は、やはりニコニコと機嫌の良いものであった。
これまでの道中で感じたステラの印象は、柔らかく温和で信心深い一人の女性だ。たった一人でレッドバックを相手取らせることに、リリエリは大いに気が引けていた。
だがステラもまたS級の冒険者。彼女の言葉を、信じてみたい。
リリエリは強かに鍋をナイフの柄で叩いた。
高い金属音が森の中に響く。その音で、前方の気配はいよいよこちらの存在に気がついたようだった。そこからはあっという間だ。
がさがさと強烈な風が吹き荒れるような音と共に、目の前に巨体の熊が現れる。ただ突進されただけでも身体が千切れ飛んでしまいそうな、圧倒的な質量。
リリエリとヨシュアを積んだ荷車はそう簡単には動かせない。ステラがレッドバックの突進を止めることが出来なければ、ヨシュアはともかくリリエリなんて一撃でばらばらになってしまう。
祈るような気持ちでリリエリはステラの背中を眺めた。その時、ステラの右手にきらりと光るものを見た。
真っすぐにこちらに向かい来る暴力に正面から対峙したステラは、舞うようにふわりとレッドバックの前に飛び出し。
迫る大熊の鼻先に向けて、渾身の右ストレートを叩き込んだ。
こちらに向かい来た時同様、いやそれ以上の速度でレッドバックが森の奥へと吹き飛んでいく。
三本ほど木の幹をぶち折ったところまでは見えた。その先はわからない。ばきばきと乾いた木の砕ける音がずっと聞こえていて、それは森のずっと奥で止まった。後には静寂が残るのみである。
「やりましたよっ」
ステラは振り向いて、リリエリに向けて嬉しそうにガッツポーズをとった。きらきらと光を返す彼女の右手。まるで淑女の長手袋のように身に纏った白銀。
ガントレットである。
「……やりましたねっ!」
とりあえずリリエリはステラに同調した。率直に言って、引いていた。尊敬や憧憬を超えたその向こう側の感情であった。
リリエリはレダの言葉を思い起こした。"俺もステラも前線に出る戦い方は向いてないから"。
は? それがレッドバックを一撃でぶちのめす女性の話か?
「これでしばらくは安全でしょうね。先に進みましょうか、リリエリ様」
何事もなかったかのように荷車が再び動き出す。
真っ二つに折れた樹木を横目に見ながら、やっぱりS級冒険者はとんでもない人間の称号なんだなと、そんなことをリリエリは考えていた。
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