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第三章
第八話 束の間に語らいを
しおりを挟む東門を出てしばらくステラは無言で荷車を引いていた。空は分厚い雲に覆われていて、今夜は一段と暗い夜に感じられた。
大壁周辺に設置されている街灯の明かりが完全に見えなくなったころ、ステラが口を開いた。
「なんとかエルナトを出られましたね」
思ったよりも明るい声であった。ひやひやしましたねぇなどと口にする割には、ステラの口調はおっとりとしていて緊張感がない。
「ヨシュアを検められていたら、二人とも捕まっていたかもしれません」
「人間を袋に詰めて運んでいるのがバレたら、そりゃあ大事になりますよね」
「リリエリ様を前科持ちにしないで済んで、良かったです」
罪状は拉致だろうか。いずれにせよ、捕まらずに済んで本当に良かったとリリエリは胸を撫でおろした。
当のヨシュアはまだ意識が戻っていないようで、麻袋は微動だにしない。もう顔くらいは袋から出してもいいだろうと、リリエリはきっちり閉められた麻袋の紐を解いた。
暗闇の中、表情や顔色はよくわからないが、少なくとも呼吸はしている。そのことがリリエリに大きな安心感をもたらした。
「明かりをつけてもいいですか?」
「どうぞ」
リリエリは持ち込んだ自分の杖を掲げ、紋章魔術を起動した。リデルに発注していた、新品の杖であった。
ヨシュアと共にこなした依頼の報酬の、生活費以外のほとんどを注ぎ込んで作った杖である。嘘だ。少し生活費も削った。その代わりに優れた硬度、魔力効率、高性能な歩行補助魔術に冒険に役立つ様々な紋章魔術を搭載した、リリエリ史上最も優れた杖である。
昔のリリエリであれば、仕込み刀なり攻撃用の紋章魔術なりといった護身用の仕掛けも加えていただろう。だがこの杖にはそういった戦いを想定したギミックは一切存在していない。
リリエリの隣にはヨシュアがいる。だからリリエリは、自分からすべての力を削ぎ落とす選択ができるのだ。
攻撃手段を捨てた代わりに、壁外での活動をより便利にする紋章魔術は種々組み入れられている。現在周囲を照らしている明かりだって、今まで持っていたものよりも数段強い光を放っていた。
「まぁ、明るい。今夜は月もないですからね、大変助かります」
「いえ、私なんて運んでもらっている立場ですし、これくらいは……」
運んでもらっているし、と発言した際にリリエリは思い出した。目の前で大きな荷車を引くこの女性に、尋ねたいことがいくつもあったことを。
「あの、ステラさん。いくつか聞いてもいいですか……?」
「壁外を出たらお喋りしましょうって約束しましたものね。なんでもどうぞ」
ステラの歩みはそこそこ早いが、駆けるヨシュアの比ではない。平坦で危険の少ない東の草原を抜けるまでにはまだ時間がかかることだろう。
つまり、話しながら移動するには、今はうってつけのタイミングであった。
「えと、聖祭司って、テレジア教のとても偉い方ですよね」
「偉いと言うと語弊があると言いますか。テレジア様の名をお借りして広く人々を導いてもいいよと、そんなお許しをいただいている立場ではありますね」
ステラはふわっとした大雑把な返事をした。その感じが余計に聖祭司の立場を際立たせているように思えた。
基本的に壁外以外の様々に疎いリリエリではあるが、流石に聖祭司という職位は知っている。テレジア教のトップである祭司長の直下、極一握りの人間しか就けない非常に高位の立場のはずだ。
「ステラさんは、その、聖祭司ということですか」
「肩書はそうなりますね。私という存在はそう大したものではございません」
ひやりと背中に氷を滑り込ませたかのような剣呑さの滲む声であった。
急激な声色の変化に、リリエリはつい肩を跳ねさせた。気を悪くさせるような会話はしていなかった、はずなのだが。
思わず揺れた杖の明かりに、ステラは自身の失態を察したらしい。ごほんごほんと数度わざとらしく咳払いをして、
「すみません。ええと、つまり、存在に貴賤はないのですよ。私も、リリエリ様も、もちろんヨシュアも。この世にある命は、いずれも貴ばれるべきということです」
柔らかで穏やかな声であった。聞こえの良い着地点を作り出した、そんな印象をリリエリは受けたが、大人しく丸め込まれることにした。先ほどの鋭い声が怖かったというわけではない。と言うと嘘になるが。
ステラの本当の気持ちは伏せられたようだが、代わりに語られた話だってまるっきり嘘の気持ちというわけではないだろう。
人類平等。テレジア教の掲げる最上位の理念である。
この話をこれ以上続けられるほどリリエリの肝は太くない。話題を変えるべく、リリエリは次の疑問を口にした。
「この荷車、かなり重いものと思うのですが、大丈夫なんですか」
「ええ、もちろん。私これでも回復魔法には覚えがありまして」
ステラは肩越しに振り返り、リリエリに向かってぐっと片手でガッツポーズをして見せた。その間彼女は片手で荷車を押していたことになるが、荷車の速度は変わらない。もちろんと胸を張る彼女の言葉は虚勢ではないだろう。
ステラの回復魔法が天才的だという話はレダより聞いている。だが回復魔法が得意なことと、荷車を軽々運べることがリリエリにはうまく結びつかなかった。
素直にその旨をステラに尋ねると、ステラは少し笑ってリリエリの疑問に応えてくれた。
「回復魔法というのは身体の亢進に等しいのです。ざっくり言うと、回復だけじゃなくって身体能力の強化が可能なわけですね」
あっさりと語るが、その口ぶりほど簡単なことでは絶対にないだろう。そもそも回復魔法自体使える者が非常に少ないというのに。
「ヨシュアも並外れた身体能力を持っているでしょう。あれも原理は一緒です。ヨシュアの場合は、邪龍の呪いによる再生能力の副作用のようなものですが」
リリエリは今まで目にしてきたヨシュアの数々の行動を思い起こした。極直近では襲い掛かってきた狼の上顎と下顎を直接掴んで引き裂くなどの蛮行をしている。
こういったエピソードには事欠かない。彼の常識を超えた身体能力に、リリエリはいつだって助けられてきた。
「ヨシュアも元々回復魔法は使えたのですよ。彼は独学ですから、自分の身体能力強化のみに偏ってはいましたが」
「……知りませんでした」
魔法を扱うヨシュアを、リリエリは想像することができなかった。リリエリはヨシュアの過去を、何一つとして知らないのだ。
「……あの、ステラさん。良かったら、なんですけど」
「はい? なんでしょうか」
「ヨシュアさんの昔の事、教えてくださいませんか」
静かな夜空に車輪の回る音がする。都市の周辺は冒険者の往来が多く、この道もまた頻繁に利用される安全な道だ。
揺れる明かりがステラの背中を照らしている。規則正しく動くなだらかな背中だ。ざわざわと揺れる草原の草木は、やがてリリエリに殊更に優し気な声を届けた。
「いいですよ。ヨシュアのことを、お話しましょうか」
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