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第二章
第二十二話 変貌
しおりを挟む薄暗い靄に似た何かが、ヨシュアの周囲を覆っていた。それは重たげにゆっくりと揺蕩い、形あるものの境界を融かしていく。
"邪龍憑き"。
触れるもの全てを腐敗させる邪龍ヒュドラに呪われた男。人の姿をした、人ならざるもの。
――いつか邪龍ヒュドラに成り果てると、あの男が言っていた。今日か、明日か。……あるいは、今か。
「ヨシュア、さん。何をしているんですか」
なんだかうまく言うことをくれない喉を無理やり動かして、リリエリはなんとか声を出した。吐息にも似た小さい声だったが、ヨシュアには届いていただろう。
ヨシュアは地に伏せたまま、それでもずっとリリエリを見ている。何事かを言おうと口を開いたが、そこから言葉は出てこなかった。
両腕で上体を起こそうとしたようだが、少し身体が起きたあたりで彼の体は再び地面に落ちた。ヨシュアの身体の境界もまた曖昧になっている。……別の何かを、形取るために?
薄暗い霧は地を這うようにしてその範囲を広げつつあった。一面に転がる蜘蛛の死体を飲み込みながら、緩慢に、しかし着実にリリエリの元へと向かっていた。
触れたらどうなるかなんて、あまりにわかりきった結末だ。けれどリリエリの身体は地面に釘付けにされたように動かなかった。視線はヨシュアに固定されたままだ。――少しずつ、違う何かに変わりつつある男に。
融けゆく同胞の死骸の上を通り、一匹の蜘蛛が命からがらといった風にリリエリに迫った。さっさと逃げておけばいいものを、なんて場違いな考えが頭の隙間に浮かんだ。
リリエリのキャパシティはとっくに限界を迎えていた。身体が動かせなかった。ただただそこで生じていることを目に入れることだけで精一杯だった。
だからリリエリは何もせずに見ていた。自身めがけて大きく顎を開く蜘蛛も、その蜘蛛が目の前で潰れ弾けるところも。
「だから言ったろうに」
ずっと遠くから男の声がした。豪奢な刺繍の入ったローブを纏う男が、身の丈ほどもある杖を構えてこちらを見ている。
宮廷魔術師のレダが立っている。
がつ、と硬い音がした。レダが杖を木の根に叩きつけた音だった。それを認識した瞬間、リリエリの背後で何かが弾けた。……大蜘蛛の生き残りが背後にいたようだ。
「俺様が来たからにはもう安心だとも。あぁ、後は任せてくれていいぞ」
レダは腐敗の中心――ヨシュアのことを観察するような目で眺め、こちらへと歩き出した。まるで自分の家にいるかのような、何ら気負いのない歩みであった。
最高峰の魔法使い。ヨシュアを殺しに来た男。
伏した地表からレダの姿を見つけたヨシュアが、ずるりとその体を持ち上げた。逆手に握られたアダマンチアの切っ先が静かに揺らいでいる。
……その時、どうしてか、リリエリにはヨシュアが笑っているように見えたのだ。
アダマンチアの剣は音もなく突きおろされた。
刃の存在しない不完全な剣が、膂力に任せてヨシュアの胸部を深々と穿つ。
ヨシュアはリリエリを見ていた。いっそ穏やかとも言えるほどに凪いだ表情をしたヨシュアが、不気味なほどに軽い音と共に地面に落下した。
彼を取り巻いていた薄暗い靄がヨシュアに集約し、そのままゆらりと薄らいで消える。あぁ、ヨシュアが死んでしまったと、奇妙なまでに冷静な頭の一部分がリリエリに囁いた。
周辺を蝕んでいた腐食は、いつの間にやら止まっていた。
■ □ ■
「……まぁ、そういうことだな」
気がつくとすぐそこにレダが立っていた。倒れたヨシュアを見下ろす顔は、諦観の色を含んでいる。
辺りはすっかり静寂に包まれていた。先程までの狂騒が、全部全部嘘のようだった。
身体の半分を失った蜘蛛の死骸を邪魔そうに蹴り飛ばしたレダは、しゃがみ込んだまま動けなくなっているリリエリに視線を移した。
「これでわかっただろ。人の形をしているうちに、っつーのは俺の優しさなんだよ」
「……どうして、なんでここにいるんですか。こんな壁外まで、貴方が」
「なんでもなにも、シジエノの依頼を受諾したのはアンタだろうが」
「ギルドには守秘義務があるでしょう。依頼内容を無関係の人間に教えるはずがないのに」
「関係ならあるとも。……エルナトのギルドマスターには一人娘がいるだろ。俺は彼女のことをよく知っていてね」
だからルダンは、俺様のお願いなら多少の無茶でも聞いてくれるのさ。そういってレダは笑った。
リリエリは茫然とその男を眺めた。信じられない。そこまでして、エルナトからずっと離れたシジエノまで追ってくるというのか。
レダは自身の杖を――リリエリの持つ歩行用のそれとは大きく異なる魔法に特化した杖を、リリエリに突きつけた。
「さぁ最後の忠告だ。ヨシュアを明け渡しな、リリエリ。……そいつが人間であるうちに」
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