龍の呪いの殺し方

中島とととき

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第一章

第二十三話 人間の境界

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 死というのは不可逆的なものである。リリエリにとってそれは常識であったし、他の人間にだってそうだろう。
 神は世界に魔法と呼ばれる奇跡を与えた。その奇跡をもってなお覆せないもの、それが死のはずだ。

 男は、治ったばかりの首を後方に向けて、あらぬ方向を――恐らくリリエリが投げた小鍋を叩き潰している食人カズラを眺めた。その左腕は鮮血に塗れてはいるものの、昼時に見たヨシュアの腕と寸分違わぬものに見えた。先ほど酷い音を立てていた足も、いつの間にやら元の調子を取り戻している。

「この場所から離れよう」

 男は固まったままのリリエリを右手で抱え、口の開いたままのバックパックを左手で拾い上げた。そうして月光の差す方へ、森の終わりへとゆっくり足を進めた。
 後方から打撲音が聞こえている。新しい血の臭いが溢れている。けして安全とは言えない状況なのに、リリエリの頭も体もまるで凍り付いたかのように動けないのだ。

 一度損なわれた生命は戻らない。人間であれば、生き物であればそれが常識であり、当然のルールだ。

 ――であれば、この男はなんだ?


□ ■ □


 男の歩みは先ほどよりもずっと遅いものだったが、幾ばくもなく二人は森を抜けることができた。
 いつの間にか雲は晴れ、月と星が植生のまばらな荒野を静かに照らしている。ほとんど闇同然の森に慣れた目からは、まるで昼間と錯覚するほどに明瞭な世界であった。

 木々はすっかり姿を消し、大きいものでは腰の高さほどあった草本類も今では地を這うものばかりになっている。
 男は森を抜けてからもしばし歩き続けていたが、やがて大きな岩塊を見つけ、その影にリリエリとバックパックを下ろした。普段陽の光が入らない場所なのだろう、地面はふかふかとしたコケに覆われており、見た目よりもずっと柔らかだった。

 そのままへたり込んだリリエリは、ようやく緊張から解放されたのか、無意識に広い握りしめていたミスルミンの愛刀をその場に取り落とした。彼女の安堵が森から離れられたことに起因するのか、あるいは男の腕から離れたことに起因するのかは自分自身でもわからなかった。

「なんとか逃げられたな。アンタがアレの気を引いてくれたおかげだ」
「い、え。私は何も――」

 声を出すことはできたが、それは誰の耳にも明らかなほどに震えていた。
 たぶん、このまま何もなかったことにするのは容易なのだ。何も聞かなければいい。そうしたら、この男はきっと何も言わないまま、S級冒険者のヨシュアとして引き続きリリエリと冒険を続けていくだろう。

 だが、リリエリはそうでいられるほどよくできた人間ではなかった。緊張あるいは恐怖、不安、不信、そういったものでひりつく喉を無理やり動かして、リリエリは声を振り絞った。

「……あなたは、なんなんですか」

 漠然とした質問だ。しかし目の前の男には正確に意図、そしてリリエリが抱いている感情が伝わったようであった。そのうえで、男はぽつりと溢すような調子で言葉を紡いだ。ただ、わからない、とだけ。

「私の目には、あなたが死んだように見えました。思えば、初めて会った時だって、死んでてもおかしくない――いいえ、死んでいなきゃおかしいくらいの血が流れていたはずです。なのに、なんで」
「死ねないんだ」

 男は言った。その声はどうしようもなくヨシュアの声に似ていた。

「俺は邪龍の首を落とした。その日から、ずっと死ねない」



 邪龍ヒュドラ。
 五大厄災と呼ばれる魔物の一体。西方で災禍の限りを撒き散らしていたとされる、猛毒の龍。

 あの日工房街で聞いた話がリリエリの頭に蘇る。
 
 "邪龍憑き"。ヒュドラの呪いによって変質した存在。人間に近い見た目を持つ、人間ではないもの。

 工房街の彫刻師リデルは確かそういった話をしていたはずだ。あくまで噂、荒唐無稽な話だとリリエリは受け取って、そうして今まで記憶の片隅に転がしていた。だってそうだろう、やがて邪龍ヒュドラに変貌するだとか、存在だけで周囲を腐敗させるだとか、現実とするにはあまりに希望がなさすぎる。

 であれば、この男はなんだ?

 比較的平和なはずのエルナトに唐突に現れた、素性の知れない人間。邪龍が現れたとされる西方より遠路はるばるやってきた冒険者。目覚ましい功績により、S級に相当すると認定された男。桁外れの戦闘力、それから目の前でまざまざと見せつけられた異常なまでの回復力。

 リリエリの頭の中で今までの出来事が繋がっていく。まるで答え合わせかのように一つの結論が浮かび上がっていく。

 "邪龍憑き"ヨシュア。この男こそが、邪龍ヒュドラを屠りその身を呪われた存在。
 
 月に逆光、リリエリを見下ろすように立つ男は、表情こそ見えないものの人間にしか見えない姿形をしている。それなのに、どうしてか、リリエリの頭からは疑念がぬぐえないのだ。
 この男はただ人の形を模しただけの化物なのではないか、という疑念が。

「…………」

 男は何も言わずに立っていた。リリエリの言葉を、選択を待っているような雰囲気であった。だがリリエリは言うべき言葉なんて持っていない。
 しばらく沈黙の時間が流れた。自身の呼吸が嫌に耳につく。リリエリの手が微かに震えているのは、気温の低さによるものだけではないだろう。
 やがて、リリエリが何も言えないことを察したのか、男がゆっくりと口を開いた。

「……約束は、守る。無事にエルナトまで戻れたら、それからの選択は、すべてアンタに従う」

 ヨシュアという男は、意思や感情に乏しい人間だという印象を持っていた。この言葉だって、流れる水みたいに淡々と紡がれた抑揚の少ないものだった。だから、そこに悄然とした色を感じ取ったのは単なるリリエリの思い込み、だろうか。それとも。

 その時、不意に男が勢いよく後方に振り向いた。岩塊に阻まれていて、ここからでは先の様子は窺えない。しかしよくよく耳を澄ますと聞こえてくる。重い生物の足音と、ずるずるとものを引き摺るような音。

 ただでさえ失せていた血の気が、さらに引いていく心地であった。視界の外に何がいるのか、知識ばかりを詰め込んだリリエリの頭は嫌になるくらいに明確に一つの答えを提示していた。
 徒手空拳ではあるが、臨戦態勢に入った男もまた岩塊の向こう側を見つめている。言う必要はなかったかもしれない。それでも、恐怖を紛らわせるためだろうか、リリエリの喉は勝手に音を発していた。

「亜竜種が、こちらに気づいています」

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