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第一章
第二十一話 後悔
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時間の限り摘み取ったレッサーレッドはひとまずそのまま草原に置いていくことにした。少し地面が窪んでいたところにまとめて放り込み、上からさっとレッサーレッドで蓋をして完了だ。簡易的なものであるが、大半の冒険者が西方に赴いている今、わざわざナナイ山岳に訪れて、その上で他者の摘み取ったレッサーレッドを盗んでいく者が一体どれほどいるだろう。
そんな些細なリスクを気にするよりも、今は無事に森を抜けるのが先決だ。そのために荷物は少なければ少ないほどいい。
打ち込んだ魔物除けの杭も回収し、リリエリは再びバックパックを背負った。明かり代わりの杖も同様に背中に背負い、リリエリ自身はいつぞやのようにヨシュアの背に負ぶさる。流石に今夜ばかりはヨシュアに両手を空けておいてもらわなければ。
持ち込んでいたロープで互いの体をきっちりと結び、準備完了。これで一蓮托生だ。
「苦しいところとか、動きにくい部分とかありますか」
「ない。行こう」
ざわざわと冷えた風が森の木々を揺らしている。何も見えないくせに、確実に何かがいる気配だけが森の中に満ちている。
先ほどまでギャアギャアと鳴いていた鳥のような声が、いきなりぶつりと途切れる。リリエリは知らず知らず固唾を吞んだ。
やおらにヨシュアが動き出す。目指すは山頂。月明りを振り切るようにして二人は森の中へと踏みこんだ。
■ □ ■
アンタに危険を及ぼさない、とヨシュアは言った。そしてそれをリリエリは信じた。不安がないと言えば嘘になる。
森に踏み入って数十分。ヨシュアは約束を寸分違わず守っていた。
森の中は昼間とは打って変わった様子であった。
五合目からの森では、少数の魔物とは相対したものの、ほとんどのものは姿を見せる前に先手を取ることができていた。だが今は杖の明かりの範囲外は完全な暗闇だ。道中、ヨシュアは虚空に向かって石などを投擲する様子を見せたが、その勝率は五分五分といったところだった。リリエリはそもそもそれらの魔物を感知できていない。五分五分というだけでも驚くべき精度ではあるのだが。
仕留め損ねて横合いから飛び出してくる魔物に対処する必要がある分、進みは確実に遅くなる。
今しがた現れた黒い狼は、端からヨシュアなど眼中になく、真っすぐにリリエリを狙って突っ込んできた。弱者を狙う、極めて合理的な野生のルールだ。
死んだと思った。情けない話、リリエリは一瞬目を瞑ってしまった。
だが予想していた痛みは一向に来ず、代わりに鉄臭い液体の飛沫を感じる。目を閉じてしまったことを知覚し、慌てて状況を確認した先に映ったのは、極至近距離に迫る魔狼の顎と、そこに向かって突き入れられているヨシュアの左腕であった。
苦し気な呻き声を上げたのは魔狼の方だった、と思う。ヨシュアの右手が即座に狼の下顎にかかり、上下に思い切り引き裂いた。鋭い牙の存在なんて見えていないかのような振る舞いだった。バタバタと降る雨音の大半は魔狼のものだろうが、そこにヨシュアがどれほど混ざっているだろうか。
そういったことがもう三回ほど起きている。上へ上へと進み続ける二人の移動経路には、点々と魔物の死骸が転がっていることだろう。
森に踏み入って数十分。ヨシュアは約束を寸分違わず守っていた。
……彼の約束の内容に、自らの身の危険は含まれていなかったらしい。
治せるとはいえ、無茶苦茶だ。
リリエリは酷く後悔していた。こんなことになるのなら月光鉄なんていらなかった、快適な山小屋なんて必要なかった。
ヨシュアの性質を、性格を知ったような気になっていた。甘かった。想像よりずっと酷い。
どうして躊躇いなく自分の体を犠牲にできる? リリエリを守らなくてはいけないため? どんな怪我でもすぐに治せるから? ……自分の身体が大切だという前提が、そもそも存在しない?
左腕にべっとりと纏わりついたどちらのものともつかない血液を、ヨシュアはどこか億劫そうに振るい落とした。
きっともうそこに傷なんてないのだろう。だから傷ついても構わない、だなんてリリエリには思えない。
しかしそのやり方に口を出す権利なんてリリエリには欠片もないのだ。守られている立場で、弱いくせに、なんの役にも立てないのに。
――ただ心配するしかできないなんて、私はなんて無力なんだろう。
「ヨシュアさん、その、左腕、」
「治る。それに、俺は右利きなんだ」
「そういう問題では、うわっ」
「急勾配だ。舌を嚙まないようにしてくれ」
身体の角度が急に変わり、リリエリは慌ててヨシュアの背にしがみついた。
その間にも背後でけたたましい獣の声が上がる。この声には覚えがある、グリユーと呼ばれる猛禽類だ。視力が退化しており、その分だけ血の臭いに敏感。足が速く、その上群れで行動する厄介な魔物。弱点は……強い光。
「ヨシュアさん、眩しくします!」
リリエリは咄嗟に背負った杖を握りしめ、自分の持つありったけの魔力を流し込んだ。
一瞬の間、真夏の陽を思わせるような光量が辺りを照らし上げる。ギャッと人の叫びに似た声を上げ、背後の気配が急速に遠ざかっていく。
退けた、と思う。リリエリは安堵の息を吐いた。一拍の後、強い疲労感が自身の身体を巡っていくのを感じる。魔力の操作がほとんどできないリリエリが、やみくもに自分の魔力を杖に流し込んだ反動だ。
「助かった。振り切れないと覚悟していた」
「礼なんて、いただけない、です。私だって、」
ただ人の背にしがみついているだけなのに息が上がっている自分が情けない。それでも、それでもヨシュアの役に立ちたかった。単なる荷物で終わりたくはなかった。
「突っ切るぞ」
伸びた枝葉に突っ込むようにしてヨシュアはただただ前方へと進む。もはや獣道ですらなく、飛び出した枝によって皮膚は切れ、結わえた髪も既に無残だ。
道なんてわからない。それでも二人は確実に目的地に近づいている。
「光が見える」
ヨシュアの言葉に前を見れば、僅かに明るい切れ目のようなものが見えている。
きっとあの場所が森の終わり。天を覆い尽くしていた樹冠が薄くなり、道を阻害する植物が姿を消していく境目。
ぐっとヨシュアのスピードが増したような気がした。逸る心が、そう感じさせただけなのかもしれない。
太い樹々は徐々に細くなっていき、周辺の植物の様子が変わる。魔物などはその身を隠すことが難しくなり、植物の減少に伴って出現頻度が低下していく。
「この辺りが八合目です。もうすぐ、もうすぐで、」
森を抜ける、と言うつもりだった。言えなかった。
ぐるりと視界が反転する。まるで宙を舞うような、いいやこれは比喩じゃ駄目だ。だってリリエリは、実際に宙に吊られているのだから。
ヨシュアとは共にいる。つまりヨシュアごと、何かによって空中に引っ張り上げられている。
ぽとりと背負っていた杖が落ちた。落ちてなお明かりを放つそれは、ヨシュアたちを吊り上げている巨体を明々と照らしだした。
杖を追いかけるようにして自身の真下を眺めたリリエリは、そこに空いた底なしの闇を見た。
「……食人カズラだ」
四方八方に伸びた触手を携えた化け物が、獲物を一吞みにせんとばかりにぽっかりと口を開けている。
そんな些細なリスクを気にするよりも、今は無事に森を抜けるのが先決だ。そのために荷物は少なければ少ないほどいい。
打ち込んだ魔物除けの杭も回収し、リリエリは再びバックパックを背負った。明かり代わりの杖も同様に背中に背負い、リリエリ自身はいつぞやのようにヨシュアの背に負ぶさる。流石に今夜ばかりはヨシュアに両手を空けておいてもらわなければ。
持ち込んでいたロープで互いの体をきっちりと結び、準備完了。これで一蓮托生だ。
「苦しいところとか、動きにくい部分とかありますか」
「ない。行こう」
ざわざわと冷えた風が森の木々を揺らしている。何も見えないくせに、確実に何かがいる気配だけが森の中に満ちている。
先ほどまでギャアギャアと鳴いていた鳥のような声が、いきなりぶつりと途切れる。リリエリは知らず知らず固唾を吞んだ。
やおらにヨシュアが動き出す。目指すは山頂。月明りを振り切るようにして二人は森の中へと踏みこんだ。
■ □ ■
アンタに危険を及ぼさない、とヨシュアは言った。そしてそれをリリエリは信じた。不安がないと言えば嘘になる。
森に踏み入って数十分。ヨシュアは約束を寸分違わず守っていた。
森の中は昼間とは打って変わった様子であった。
五合目からの森では、少数の魔物とは相対したものの、ほとんどのものは姿を見せる前に先手を取ることができていた。だが今は杖の明かりの範囲外は完全な暗闇だ。道中、ヨシュアは虚空に向かって石などを投擲する様子を見せたが、その勝率は五分五分といったところだった。リリエリはそもそもそれらの魔物を感知できていない。五分五分というだけでも驚くべき精度ではあるのだが。
仕留め損ねて横合いから飛び出してくる魔物に対処する必要がある分、進みは確実に遅くなる。
今しがた現れた黒い狼は、端からヨシュアなど眼中になく、真っすぐにリリエリを狙って突っ込んできた。弱者を狙う、極めて合理的な野生のルールだ。
死んだと思った。情けない話、リリエリは一瞬目を瞑ってしまった。
だが予想していた痛みは一向に来ず、代わりに鉄臭い液体の飛沫を感じる。目を閉じてしまったことを知覚し、慌てて状況を確認した先に映ったのは、極至近距離に迫る魔狼の顎と、そこに向かって突き入れられているヨシュアの左腕であった。
苦し気な呻き声を上げたのは魔狼の方だった、と思う。ヨシュアの右手が即座に狼の下顎にかかり、上下に思い切り引き裂いた。鋭い牙の存在なんて見えていないかのような振る舞いだった。バタバタと降る雨音の大半は魔狼のものだろうが、そこにヨシュアがどれほど混ざっているだろうか。
そういったことがもう三回ほど起きている。上へ上へと進み続ける二人の移動経路には、点々と魔物の死骸が転がっていることだろう。
森に踏み入って数十分。ヨシュアは約束を寸分違わず守っていた。
……彼の約束の内容に、自らの身の危険は含まれていなかったらしい。
治せるとはいえ、無茶苦茶だ。
リリエリは酷く後悔していた。こんなことになるのなら月光鉄なんていらなかった、快適な山小屋なんて必要なかった。
ヨシュアの性質を、性格を知ったような気になっていた。甘かった。想像よりずっと酷い。
どうして躊躇いなく自分の体を犠牲にできる? リリエリを守らなくてはいけないため? どんな怪我でもすぐに治せるから? ……自分の身体が大切だという前提が、そもそも存在しない?
左腕にべっとりと纏わりついたどちらのものともつかない血液を、ヨシュアはどこか億劫そうに振るい落とした。
きっともうそこに傷なんてないのだろう。だから傷ついても構わない、だなんてリリエリには思えない。
しかしそのやり方に口を出す権利なんてリリエリには欠片もないのだ。守られている立場で、弱いくせに、なんの役にも立てないのに。
――ただ心配するしかできないなんて、私はなんて無力なんだろう。
「ヨシュアさん、その、左腕、」
「治る。それに、俺は右利きなんだ」
「そういう問題では、うわっ」
「急勾配だ。舌を嚙まないようにしてくれ」
身体の角度が急に変わり、リリエリは慌ててヨシュアの背にしがみついた。
その間にも背後でけたたましい獣の声が上がる。この声には覚えがある、グリユーと呼ばれる猛禽類だ。視力が退化しており、その分だけ血の臭いに敏感。足が速く、その上群れで行動する厄介な魔物。弱点は……強い光。
「ヨシュアさん、眩しくします!」
リリエリは咄嗟に背負った杖を握りしめ、自分の持つありったけの魔力を流し込んだ。
一瞬の間、真夏の陽を思わせるような光量が辺りを照らし上げる。ギャッと人の叫びに似た声を上げ、背後の気配が急速に遠ざかっていく。
退けた、と思う。リリエリは安堵の息を吐いた。一拍の後、強い疲労感が自身の身体を巡っていくのを感じる。魔力の操作がほとんどできないリリエリが、やみくもに自分の魔力を杖に流し込んだ反動だ。
「助かった。振り切れないと覚悟していた」
「礼なんて、いただけない、です。私だって、」
ただ人の背にしがみついているだけなのに息が上がっている自分が情けない。それでも、それでもヨシュアの役に立ちたかった。単なる荷物で終わりたくはなかった。
「突っ切るぞ」
伸びた枝葉に突っ込むようにしてヨシュアはただただ前方へと進む。もはや獣道ですらなく、飛び出した枝によって皮膚は切れ、結わえた髪も既に無残だ。
道なんてわからない。それでも二人は確実に目的地に近づいている。
「光が見える」
ヨシュアの言葉に前を見れば、僅かに明るい切れ目のようなものが見えている。
きっとあの場所が森の終わり。天を覆い尽くしていた樹冠が薄くなり、道を阻害する植物が姿を消していく境目。
ぐっとヨシュアのスピードが増したような気がした。逸る心が、そう感じさせただけなのかもしれない。
太い樹々は徐々に細くなっていき、周辺の植物の様子が変わる。魔物などはその身を隠すことが難しくなり、植物の減少に伴って出現頻度が低下していく。
「この辺りが八合目です。もうすぐ、もうすぐで、」
森を抜ける、と言うつもりだった。言えなかった。
ぐるりと視界が反転する。まるで宙を舞うような、いいやこれは比喩じゃ駄目だ。だってリリエリは、実際に宙に吊られているのだから。
ヨシュアとは共にいる。つまりヨシュアごと、何かによって空中に引っ張り上げられている。
ぽとりと背負っていた杖が落ちた。落ちてなお明かりを放つそれは、ヨシュアたちを吊り上げている巨体を明々と照らしだした。
杖を追いかけるようにして自身の真下を眺めたリリエリは、そこに空いた底なしの闇を見た。
「……食人カズラだ」
四方八方に伸びた触手を携えた化け物が、獲物を一吞みにせんとばかりにぽっかりと口を開けている。
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