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10話 正解のない問題
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病院で海と聖に対面し、全てを話した明里は、あの後の家族の様子を推測しては、深いため息をついていた。
社会人として、大学教授として教鞭を取るようになって30代も折り返しに入ろうとしている中で、「正解のない課題」にぶつかり、失敗することもあれば、これでよかったのかもしれないと思うことは何度もあった。だが、今回ばかりはいくら考えても、晴海にとって、どうサポートすることが最適だったのか、自分のやってきたことは間違っていたのだろうか、と、逡巡するばかり。秤がどちらにも傾かず、ただ明里の胸の内を曇らせていくばかりだった。
あれから、晴海からの連絡は研究室に備えてある固定電話はおろか、明里のスマートフォンにも来なくなった。また、晴海が研究室に直接顔を出すこともなくなった。
(連絡や来訪がないことをいいと思っていいのか、悪い方向へ流れてる表れなのか…、でも、ご両親には近づくなって厳命された以上、もうできることはない、か…)
晴海から研究室に来なくなったり、連絡がなかったとしても、講義では顔を合わせる。その様子を見る限りでは、病院で適切な治療を受けることができたのか、顔色は良く、晴海の周囲を取り巻く友人たちの様子にも変化はなかった。ただ気掛かりだったのは、講義のないはずの土曜や日曜にも、時折晴海の顔を見かけることがあることだ。その様子を見るに、海や聖はまだ、晴海の気持ちに対してすれ違った寄り添い方をしているのではないか、という懸念も未だ消えずに残っていた。
明里は平日の講義を終えると研究室に戻り、自身の研究テーマについて、論文の執筆を始めていた。タイピングの音だけが響く研究室に、ノックの音がした。
「おう、ここにいたか。」
「……佐々木先生。」
邪魔するぞ、と気軽に声をかけ、研究室に入ってくる。暗い面持ちの明里に、佐々木は軽くため息をついた。
「言っただろ?深入りしなさんなって。」
「…何の話ですか?」
「すっとぼけんな、例の学生の件だよ。」
論文だらけの机にもたれかかり、腕を組む佐々木。その顔には、呆れたような、一方で少し心配そうな色も見てとれた。
「何を悩んでるんだ?」
明里の心中を察しているかのような、佐々木からの問いかけ。明里は改めて、物事の成否はともかく、自分は悩んでいるんだろうか、それとも、今までの行動を悔やんでいるのだろうか、と考えた。
「…悩んでる、というのは、少し違う気がします。」
「にしては、浮かない顔してるな。」
「…私としては、晴海さんの力になれるように、行動したつもりです。保護者の方にも、ちゃんと向き合ってほしいということは伝えました。ただ…」
そう、明里自身、今までやったことに関して後悔はしていない。もし、今この時も、晴海が自傷行為の依存から抜け出せて、家族と真っ向から向き合えているのなら、それでいい。ただ、別れ際の海と聖の様子から、今晴海はさらに、2人から追い討ちをかけられているのではないか、という懸念がどうしても頭をよぎるのだ。
「まぁ、何にしてもここらが引き際だ。」
佐々木の言葉が沈黙を破る。
「お前さんがやったことに関して、それが正しかったのかどうかは、これからわかるだろうよ。お前さんがここで判断することじゃない。今確実に言えるのは、お前さんにやれることはやり尽くしたってことだ。これ以上踏み込んでことさら物事が複雑になっちゃ本末転倒、お前さんにもその学生にも良いことはない。幸いここは大学だ、保護者とは言え、自分の子どもにずっと張り付いていられる訳でもない。何かありゃ、学生からお前さんのとこに飛び込んでくるだろ。」
佐々木は、まるで先の展開を見透かしているかのように語った。何の根拠もない佐々木の言葉は、不思議なことに明里の懸念を少し晴らしていた。
(……確かに、今は静観するしかない、か。下手に動いて晴海さんを追い詰めるような結果にしたら、佐々木先生の言うとおり、本末転倒だわ。)
「…そうですね、先生の仰る通りかと。」
「本当は深入りすんなよって言った時には手を引いて欲しかったんだけどな。まぁ、その時点で既に、毒喰らわば皿までって状態だったんだろうが。」
佐々木はあまり見せることのない優しげな口調で明里に語りかける。明里の普段の様子と違うことを感じ取り、佐々木なりに気にかけていたようだった。
「ま、言いたかったのはそんだけだ。あんまり暗い顔して学生の前立つんじゃねぇぞ。一部の学生は、お前の変化に気づいてるみたいだからな。」
明里は普段の様子と変わりないように取り繕っていたつもりだったが、学生は教師側が思う以上にこちらを見ている。これもそれなりに学生と接してきた明里自身知っていたが、気づかれるほどに出ていたか、と改めて反省した。
「……本当、ダメですね私。切り替えて頑張りますよ。」
「おう、そうしてくれ。」
じゃあな、と笑顔で佐々木は研究室を去っていった。明里は両頬を軽く叩き、自身に気合を入れ直す。
(今は、晴海さんのことを、ご両親のことを信じよう。何かあったときに、また手を差し伸べたらいいんだ…。)
明里は目の前の論文を書き上げるため、パソコンに居直ってキーボードを叩き始めた。
キャンパスは、新入生が来て1度目の年末を迎えようとしていた。後期の講義はまだ半分ほどしか進んでいないが、年末を迎えることで、一時大学は閉校することになる。研究室周辺は、年末年始をどう過ごすかで学生たちはどこか浮き足立っていた。
「先生!また晴海と旅行行ってくるんで、お土産期待しててくださいね!」
翠は晴海と研究室に来て、年末の挨拶もそこそこに年末年始をどう過ごすかと楽しげに話す。横にいる晴海も、旅行を楽しみにしているのか、どこか雰囲気が明るかった。
「お土産なんて気にしないで、旅行楽しんでおいで。今度はどこに行くの?」
「横浜ですよ、ツアーのチケットが当たったのがそこしかなくて。でも、旅行も兼ねて行ってくるんで、晴海と行きたいとこ相談しながら決めてるとこなんですー。」
「横浜って言ったら、中華街よね。」
「えー、先生趣味渋っ!」
中華街というだけで、趣味が渋いと言われるのか…とジェネレーションギャップをしみじみと感じる明里。軽く笑いながら、翠はほっと安心したように呟いた。
「何か、良かった。先生、最近元気がないように見えたから。もう大丈夫そうな感じですね!」
翠からしたら何気ない一言であろうが、明里と晴海は一瞬面食らった。明里はすぐに平静さを取り戻し、
「先生は講義してるだけじゃないからね。論文書いてると大変なのよ、色々とね。」
「わー大変そう。年末年始はちゃんと休んでくださいね!」
「ありがとう。翠さんと晴海さんもね。」
翠は休むんじゃなくて遊びまくりますよ!と元気な一言だったが、晴海はそれにクスッと笑っただけで、微かに表情に翳りを見せた。
雑談もそこそこに、2人を見送った明里は、研究室で一人書きかけた論文の執筆作業の準備に入ったが、晴海の微かな表情の変化が、明里の頭で引っかかった。
(……家族との関係って、一番近しいからこそ、一度拗れると難しいのよね…。すぐに良くなるとは思ってないけど、…心配だわ。)
明里は佐々木の言葉を思い出し、考えすぎてはいけない、と思い直すと、論文の執筆作業に入った。
『お前さんがやったことに関して、それが正しかったのかどうかは、これからわかるだろうよ。お前さんがここで判断することじゃない。今確実に言えるのは、お前さんにやれることはやり尽くしたってことだ。』
答えはいつ出るのだろうか、答えが出る前に、晴海のメンタルは持ち堪えるだろうか…、懸念が尽きない中、大学の年末は慌ただしく過ぎていき、新年を迎えようとしていた。
社会人として、大学教授として教鞭を取るようになって30代も折り返しに入ろうとしている中で、「正解のない課題」にぶつかり、失敗することもあれば、これでよかったのかもしれないと思うことは何度もあった。だが、今回ばかりはいくら考えても、晴海にとって、どうサポートすることが最適だったのか、自分のやってきたことは間違っていたのだろうか、と、逡巡するばかり。秤がどちらにも傾かず、ただ明里の胸の内を曇らせていくばかりだった。
あれから、晴海からの連絡は研究室に備えてある固定電話はおろか、明里のスマートフォンにも来なくなった。また、晴海が研究室に直接顔を出すこともなくなった。
(連絡や来訪がないことをいいと思っていいのか、悪い方向へ流れてる表れなのか…、でも、ご両親には近づくなって厳命された以上、もうできることはない、か…)
晴海から研究室に来なくなったり、連絡がなかったとしても、講義では顔を合わせる。その様子を見る限りでは、病院で適切な治療を受けることができたのか、顔色は良く、晴海の周囲を取り巻く友人たちの様子にも変化はなかった。ただ気掛かりだったのは、講義のないはずの土曜や日曜にも、時折晴海の顔を見かけることがあることだ。その様子を見るに、海や聖はまだ、晴海の気持ちに対してすれ違った寄り添い方をしているのではないか、という懸念も未だ消えずに残っていた。
明里は平日の講義を終えると研究室に戻り、自身の研究テーマについて、論文の執筆を始めていた。タイピングの音だけが響く研究室に、ノックの音がした。
「おう、ここにいたか。」
「……佐々木先生。」
邪魔するぞ、と気軽に声をかけ、研究室に入ってくる。暗い面持ちの明里に、佐々木は軽くため息をついた。
「言っただろ?深入りしなさんなって。」
「…何の話ですか?」
「すっとぼけんな、例の学生の件だよ。」
論文だらけの机にもたれかかり、腕を組む佐々木。その顔には、呆れたような、一方で少し心配そうな色も見てとれた。
「何を悩んでるんだ?」
明里の心中を察しているかのような、佐々木からの問いかけ。明里は改めて、物事の成否はともかく、自分は悩んでいるんだろうか、それとも、今までの行動を悔やんでいるのだろうか、と考えた。
「…悩んでる、というのは、少し違う気がします。」
「にしては、浮かない顔してるな。」
「…私としては、晴海さんの力になれるように、行動したつもりです。保護者の方にも、ちゃんと向き合ってほしいということは伝えました。ただ…」
そう、明里自身、今までやったことに関して後悔はしていない。もし、今この時も、晴海が自傷行為の依存から抜け出せて、家族と真っ向から向き合えているのなら、それでいい。ただ、別れ際の海と聖の様子から、今晴海はさらに、2人から追い討ちをかけられているのではないか、という懸念がどうしても頭をよぎるのだ。
「まぁ、何にしてもここらが引き際だ。」
佐々木の言葉が沈黙を破る。
「お前さんがやったことに関して、それが正しかったのかどうかは、これからわかるだろうよ。お前さんがここで判断することじゃない。今確実に言えるのは、お前さんにやれることはやり尽くしたってことだ。これ以上踏み込んでことさら物事が複雑になっちゃ本末転倒、お前さんにもその学生にも良いことはない。幸いここは大学だ、保護者とは言え、自分の子どもにずっと張り付いていられる訳でもない。何かありゃ、学生からお前さんのとこに飛び込んでくるだろ。」
佐々木は、まるで先の展開を見透かしているかのように語った。何の根拠もない佐々木の言葉は、不思議なことに明里の懸念を少し晴らしていた。
(……確かに、今は静観するしかない、か。下手に動いて晴海さんを追い詰めるような結果にしたら、佐々木先生の言うとおり、本末転倒だわ。)
「…そうですね、先生の仰る通りかと。」
「本当は深入りすんなよって言った時には手を引いて欲しかったんだけどな。まぁ、その時点で既に、毒喰らわば皿までって状態だったんだろうが。」
佐々木はあまり見せることのない優しげな口調で明里に語りかける。明里の普段の様子と違うことを感じ取り、佐々木なりに気にかけていたようだった。
「ま、言いたかったのはそんだけだ。あんまり暗い顔して学生の前立つんじゃねぇぞ。一部の学生は、お前の変化に気づいてるみたいだからな。」
明里は普段の様子と変わりないように取り繕っていたつもりだったが、学生は教師側が思う以上にこちらを見ている。これもそれなりに学生と接してきた明里自身知っていたが、気づかれるほどに出ていたか、と改めて反省した。
「……本当、ダメですね私。切り替えて頑張りますよ。」
「おう、そうしてくれ。」
じゃあな、と笑顔で佐々木は研究室を去っていった。明里は両頬を軽く叩き、自身に気合を入れ直す。
(今は、晴海さんのことを、ご両親のことを信じよう。何かあったときに、また手を差し伸べたらいいんだ…。)
明里は目の前の論文を書き上げるため、パソコンに居直ってキーボードを叩き始めた。
キャンパスは、新入生が来て1度目の年末を迎えようとしていた。後期の講義はまだ半分ほどしか進んでいないが、年末を迎えることで、一時大学は閉校することになる。研究室周辺は、年末年始をどう過ごすかで学生たちはどこか浮き足立っていた。
「先生!また晴海と旅行行ってくるんで、お土産期待しててくださいね!」
翠は晴海と研究室に来て、年末の挨拶もそこそこに年末年始をどう過ごすかと楽しげに話す。横にいる晴海も、旅行を楽しみにしているのか、どこか雰囲気が明るかった。
「お土産なんて気にしないで、旅行楽しんでおいで。今度はどこに行くの?」
「横浜ですよ、ツアーのチケットが当たったのがそこしかなくて。でも、旅行も兼ねて行ってくるんで、晴海と行きたいとこ相談しながら決めてるとこなんですー。」
「横浜って言ったら、中華街よね。」
「えー、先生趣味渋っ!」
中華街というだけで、趣味が渋いと言われるのか…とジェネレーションギャップをしみじみと感じる明里。軽く笑いながら、翠はほっと安心したように呟いた。
「何か、良かった。先生、最近元気がないように見えたから。もう大丈夫そうな感じですね!」
翠からしたら何気ない一言であろうが、明里と晴海は一瞬面食らった。明里はすぐに平静さを取り戻し、
「先生は講義してるだけじゃないからね。論文書いてると大変なのよ、色々とね。」
「わー大変そう。年末年始はちゃんと休んでくださいね!」
「ありがとう。翠さんと晴海さんもね。」
翠は休むんじゃなくて遊びまくりますよ!と元気な一言だったが、晴海はそれにクスッと笑っただけで、微かに表情に翳りを見せた。
雑談もそこそこに、2人を見送った明里は、研究室で一人書きかけた論文の執筆作業の準備に入ったが、晴海の微かな表情の変化が、明里の頭で引っかかった。
(……家族との関係って、一番近しいからこそ、一度拗れると難しいのよね…。すぐに良くなるとは思ってないけど、…心配だわ。)
明里は佐々木の言葉を思い出し、考えすぎてはいけない、と思い直すと、論文の執筆作業に入った。
『お前さんがやったことに関して、それが正しかったのかどうかは、これからわかるだろうよ。お前さんがここで判断することじゃない。今確実に言えるのは、お前さんにやれることはやり尽くしたってことだ。』
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