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高2

事件(8)

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 この人は、いきなり何を言いだしたのか。
 さっぱりわけが分からない。
 
 きっと、それが顔にも出ていたのだろう。それを見た和泉が再び楽しげに笑う。
「俺が、上からつけなおしてもいい? そしたら、俺がつけたのだけが残るじゃん。
 亜姫がマーク嫌いなのは知ってるけど……今日だけは、特別につけさせてくれない?」
 
 亜姫の目を覗き込みながらゆっくり紡がれる言葉が、少しずつ体に染み込んでくる。同時に、なんだか体が熱くなっていく。
 
 石橋のを消して、代わりに和泉の跡を刻み込む?
 人からも自分からも見える、キスマークを?
 嫌いなのに。恥ずかしいのに。あれだけずっと嫌がってきて、石橋につけられたなんて到底受け入れられない。なのに、更に和泉がつける? 嫌なのに?
 なぜ熱くなるのかわからないまま、言われた言葉や思考がグルグルと頭の中を駆け回る。
 混乱して考えがまとまらない。
 
 そこへ、和泉がまた言葉をかぶせてきた。
「ね……しばらくの間、恥ずかしい思いをさせちゃうけど。これ見るたびに……俺のこと、何度でも思いだして」 
 抱きしめられながら耳元で甘く甘く囁かれたそのことばに、今度こそ、間違いなく全身の細胞が沸騰した。

 あんなに拒否してきたキスマーク。だが、石橋の痕跡を消した上で和泉から愛の証を刻まれるのだと理解して、全身が歓喜の声をあげる。

 ここで、ようやく亜姫は気づいた。
 なぜ和泉が「今」この話をすることにこだわったのか。
 
 亜姫が鏡のある場所へ行く前に──石橋につけられてしまった跡を目にすることがないように──今、上書きを済ませたかったのだと。
 襲われてつけられた跡を見る度に、今日の事を思い出したり傷ついたりしないように考えてくれたのだと。
 この行動に、和泉の深い優しさが見えた。
 
 亜姫は普段から強がりで、弱い部分や素直な気持ちをなかなか表現出来ない。隠したい気持ちが大きければ大きいほど、逆に強がって意地を張り続けてしまう。
 そんな亜姫の本音は、二人きりの時にだけ……和泉にだけ見せる。というか、和泉にはいつも気づかれ暴かれてしまう。
 
 望まない跡をつけられたショックや恐怖。
 それを人に見られることへの羞恥。
 更に、それを上書きする行為に対して出るであろう抵抗感。
 
 これらの心情を慮るだけではなく、全ての感情を亜姫が素直に認めて、心底嫌がってきた首へのマークをつけること──上書きすることを──自ら望むようにする。
 それには、二人きりになる必要があった。

 それでもきっとすぐには頷かないであろう亜姫の意地っ張り具合を知ってる和泉は、さも「自分がつけたいんだ」と思わせるように伝えることも忘れなかった。
 
 和泉の行動や言動には優しさが溢れていて、彼は自分を知り尽くしてくれていると思い知る。
 和泉の全てに愛を感じ、今度は嬉しさと幸福感で涙が溢れた。
 
 零れ落ちる涙を見て、またちょっと困ったように笑う和泉に向かい、
「つけて。……和泉のに変えてほしい」
 そう、素直に甘えた。
 
 上書きされると体中に熱がこもり、こんな場所にも関わらず、抱かれる前のようにふわふわした気持ちになってしまう。
 その上、和泉が顔を覗きこんで
「できた。……ごめんな、恥ずかしい?」
 と甘く囁いたりするから。
 一瞬、何故そこにいるかを忘れてこのまま抱いて欲しいと亜姫は思う。
 
 そしてそれに気づいたであろう和泉が、笑いながら「物足りなくなっちゃった?」とまた甘く囁くから。
「和泉。口も、気持ち悪い……」
 と、つい、滅多に使わない甘えた声でおねだりしてしまった。
 
 直後、優しいキスが降ってきた。
 皆に聞こえないようにしてるのか、リップ音が出ないように静かに……けれど優しいキスに亜姫は身を任せた。
 今すぐ抱いてもらえない代わりに、強く抱きしめてもらいながら。
 
 その直後、和泉は唇に指をあててシーと口だけ動かすと、皆には聞こえないように……小さな小さな声で「愛してる」と囁いた。
 
 そして
「この上書きは、二人だけの秘密」
 と皆に聞こえる声でいたずらっ子みたいに言い、さすがに恥ずかしいからこれは隠してもらおっか。と綾子を呼ぶ。
 
 カーテンを開けた綾子は優しい顔で二人を見て、「しょうがないわね、隠してあげる」と笑った。

 
 ◇ 
「今のうちに、飲み物を買ってくる」
 和泉がカーテンの外に出ると涙目の三人と目が合い、思わず苦笑した。
 
「鏡、亜姫に渡してやって。マーク見たら怒りそうだから、宥めるのは任せた」
 そう麗華に伝えると、和泉は保健室を出た。
 
 亜姫の姿を見た麗華はマークの濃さに呆れたが、亜姫が鏡を見たあと「恥ずかしい!」と怒ったのを見て、いつもの調子が戻ってきたことに安堵する。
 いつも落ち着いて冷静な麗華が泣き崩れたのを、亜姫はこの日初めて見た。
 
 自販機へ向かう和泉の右肩に、後方から手をかけて寄りかかってきたのはヒロだ。 
「和泉。俺、今日はお前に抱かれたいと思ったわ」 
 すると左肩に手を置きながら、やはり後ろから寄りかかってきた戸塚が言う。
「俺も」
 
 和泉は思わず噴き出した。

「何言ってんだ、気持ち悪りーな。俺は亜姫しか抱かねーよ」 
「「知ってるよ」」
 ヒロと戸塚も声を揃えて噴き出す。
 
「和泉の飲みもん、今日は俺が奢ってやるよ」
 とヒロが言えば
「じゃー、亜姫の分は俺が買う」
 と戸塚が言う。
「じゃあ、頼むわ」 

 そこで二人を見た和泉は、小さく笑った。
「お前ら、顔ヤバい。もっと冷やした方がいいんじゃねーの?」
「ヤバいのは戸塚だろ。俺は石橋に一発しかくらってねーもん」
「加藤、力強すぎ。マジで意識飛びそうだったもん。よく押さえきれたと自分を褒めてやりたい」
「お前、運動してねーのによく防ぎきれたなぁ」
「自分でもそう思うよ、とにかく必死だったからな……。今日ほど、普段から筋トレしといてよかったと思ったことはない」
「今の顔の方が男前なんじゃね?」
「うるさい」
 
 それぞれが、亜姫が落ち着きを取り戻したことを肌で感じとっていて。束の間の安堵感を楽しむ。

 まだ何も解決してない。
 しかし、今の亜姫なら大丈夫。そんな気がした。
 
 綾子は言った。
「もし、これから起こったことを細かく伝える時が来たら。首のマークは、石橋にやられたとちゃんと伝えなさい。消したい事実だろうけど、彼らにされたことは小さなことでも全て言わなければ駄目よ。
 彼らの罪を逃してはいけない」

 現実をしっかり受け止め、これからのことを考えていかなければ。
 大変なのは、これからだ。
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