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死生の巻
朱塗りの顔
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延熹九年 尚方が作りし鏡 明は日光の如く 沢は海表を被う 服つ者は長生し 位は侯王に至り 治むる国は安平たりて 長く子孫に宜し
それは、この鏡を手に入れた者を祝う銘文である。
「汝の佩刀は我が家の太刀じゃな」
狗奴王が難斗米に言った。難斗米の腰の刀は、委ねられる力の象徴として、姫氏王が貸し与えたのである。
「埋葬が済んだら、お返しいたしましょう」
そうすれば、狗奴王が邪馬臺王の座をも継ぐ事を明らかに示して、それを諸国から参列する者たちに知らしめる事になるであろう。
「そうか。何から何まで世話になるな。これからも今のままで働いてくれよ」
狗奴王は、難斗米の態度にすっかり満足している。
夜空には雲が漂い、篝火に浮かぶ墳墓の上、これから埋められる棺と品々の前に、祭壇が組み立てられる。常緑樹の枝、湯気を立てる稲や粟の飯、炊いた大豆や小豆、焼いたり蒸した野猪や鹿、狗、鮫、鯉や鮒、雉や雀、それに酒が供えられる。冢の周囲、要所には、儀仗兵が持つ矛の穂が、チラチラと映える。霊前に、倡伎たちが楽舞を納める。
死せる者が、葬儀が続く間ここに留まってくれる様に。
死せる者が、生ける者の言葉を最後まで聞いて下さる様に。
死せる者が、いつまでも生ける者の別れの言葉を憶えていて下さる様に。
邪馬臺王家に世々仕える故老たちが、前に進んで誄を述べる。
「亡王は、三十と八つの年を経るより前、先王が女、多迦卑弥の、前狗奴王を召して生れませる王女なり。生まれつき厳かなる姿あり、少くして先王を佐け、成りて祭祀と干戈に長けたまえり……」
云々と。続いて、難斗米が士大夫層を代表して誄を述べる。
「亡王は、先王の薨りし日、登りて高き位を践みたまう。王たりて、内は国々の序を整え、混しめて一つとなし、互いに争うことなからしむ。外は遠く宮城へ使いを詣らしめ、名は天子に達り、奴王の徳が衰えてより已来、始めて実に倭王となりたまえり……」
冢の下、西側正面の庭では、対馬卑狗などの人たちが、客としての作法に従って、死者に歌や酒を捧げる儀式を始めている。その声が上にも聞こえる。狗奴王が祭壇の前に進む。
「ああ……ああ」
誄の形式も格調も構わずに、狗奴王は感嘆の声を吐く。
「姉上の政治を佐けていた頃が最も幸せであった。ああ……まだ死ぬには若かったのに」
ただそれだけを言った。
力役の人夫が呼び出されて、棺を墓室に下ろす。石の棺は冷たく重い。ゆっくりと下ろす。棺が安置されると、その周りに鏡が敷き詰められる。死せる者が悪い鬼から護られる様に。それからまた多くの副葬品が配置される。入れる物を余さず納めてしまうと、墓室の上に石の蓋が被せられる。これが鎮めの石として、死せる者の姿を永遠に隠すであろう。蓋の上を土で埋め、人夫たちが粗く踏み固める。入れ替わりに、紗を纏った踊り女たちが上がる。これから夜が明けるまで踊り、踊る足で封土を踏み締め、土と石が死せる者の安寧を守ってくれる様に、念を入れる。
「さあもう下に行こう。穢れ払いの酒を酌み交わそう」
踊り女たちを背にし、狗奴王は難斗米たちを率いて、冬至の日の入りの方角を向く。ふと、西側に付けられた階段を、多少の人が、登って来る気配がする。朱に塗った顔、素の着物。死せる者の装いをした、一団の女たちが現れる。先頭に立つのは、あの弥馬獲支。そして一人また一人と、暗がりに朱塗りの顔が漂う。狗奴王は眼をカッとさせて、毛を逆立てる。
「おまえたち、何のまねじゃ」
弥馬獲支は両膝を土に突いて、言う。
「妾どもは生きるすべのないところを、亡王に救われて命を得た者。今や死出の山路に殉うべきを、いかでか生きて朝を迎えられましょう」
難斗米は腰の太刀を抜いて、狗奴王に進める。
「さあ、どうぞ」
「あっ、おれに手ずから斬れと申すのか」
「お望みでしょう。お妃さまの仇を」
「おう、そうだ……」
狗奴王は太刀を取った。しかし、手足は措く所を知らず、目は視る所を定めず、躊躇い、逡巡している。確かに殺してやろうとは言ったものの、いざその命が自分の前に投げ出されてみると、手を下す事が恐ろしい様な気がするのだ。弥馬獲支は下から、朱塗りの顔の中の白い眼で、狗奴王を見据えている。弥馬獲支の後ろでは、同じく死出の装いをした何十人かの女たちが、亦り朱に浮かばせた白い眼で、狗奴王を睹ている。
「いかが」
難斗米は酒を一杯、狗奴王に勧める。
「おう」
狗奴王は酒をぐっと呑んで、眼を紅くさせて、弥馬獲支を睨む。胸に息をさせながら、腕を撫して、刀の柄を握り締める。
「さあ、お裁きを」
難斗米が重ねて促せば、狗奴王は弥馬獲支に立てと命じ、ヤッと思い切って、太刀を女の腹に突き立てる。柄越しに、柔らかい人の体の手応えを感じる。所が普段から稽古を怠けた腕では、切っ先が着物に絡め取られて、どうやら傷が十分に深くない。下手をしたかと思って咄嗟に腕を引くと、それでも返り血が狗奴王を汚す。紅の水花が舞い、顔に、手に、熱い血が著く。弥馬獲支は項垂れて膝を突きながら、朱の顔で狗奴王を睨み返す。
「ああ……ああ……!」
狗奴王は狼狽を隠せない。
「違う……、そうじゃない」
何十人かの女たちも、朱の顔で狗奴王を睨む。
「こんなことしたくない……」
その時、後ろから、思わぬ声が響く。
「狗古智、何をしている」
ハッとして酒紅の面も蒼褪める。声が続く。
「王たる者は、殺すと決めれば、一思いに殺せなくてはならぬぞ」
それは、この鏡を手に入れた者を祝う銘文である。
「汝の佩刀は我が家の太刀じゃな」
狗奴王が難斗米に言った。難斗米の腰の刀は、委ねられる力の象徴として、姫氏王が貸し与えたのである。
「埋葬が済んだら、お返しいたしましょう」
そうすれば、狗奴王が邪馬臺王の座をも継ぐ事を明らかに示して、それを諸国から参列する者たちに知らしめる事になるであろう。
「そうか。何から何まで世話になるな。これからも今のままで働いてくれよ」
狗奴王は、難斗米の態度にすっかり満足している。
夜空には雲が漂い、篝火に浮かぶ墳墓の上、これから埋められる棺と品々の前に、祭壇が組み立てられる。常緑樹の枝、湯気を立てる稲や粟の飯、炊いた大豆や小豆、焼いたり蒸した野猪や鹿、狗、鮫、鯉や鮒、雉や雀、それに酒が供えられる。冢の周囲、要所には、儀仗兵が持つ矛の穂が、チラチラと映える。霊前に、倡伎たちが楽舞を納める。
死せる者が、葬儀が続く間ここに留まってくれる様に。
死せる者が、生ける者の言葉を最後まで聞いて下さる様に。
死せる者が、いつまでも生ける者の別れの言葉を憶えていて下さる様に。
邪馬臺王家に世々仕える故老たちが、前に進んで誄を述べる。
「亡王は、三十と八つの年を経るより前、先王が女、多迦卑弥の、前狗奴王を召して生れませる王女なり。生まれつき厳かなる姿あり、少くして先王を佐け、成りて祭祀と干戈に長けたまえり……」
云々と。続いて、難斗米が士大夫層を代表して誄を述べる。
「亡王は、先王の薨りし日、登りて高き位を践みたまう。王たりて、内は国々の序を整え、混しめて一つとなし、互いに争うことなからしむ。外は遠く宮城へ使いを詣らしめ、名は天子に達り、奴王の徳が衰えてより已来、始めて実に倭王となりたまえり……」
冢の下、西側正面の庭では、対馬卑狗などの人たちが、客としての作法に従って、死者に歌や酒を捧げる儀式を始めている。その声が上にも聞こえる。狗奴王が祭壇の前に進む。
「ああ……ああ」
誄の形式も格調も構わずに、狗奴王は感嘆の声を吐く。
「姉上の政治を佐けていた頃が最も幸せであった。ああ……まだ死ぬには若かったのに」
ただそれだけを言った。
力役の人夫が呼び出されて、棺を墓室に下ろす。石の棺は冷たく重い。ゆっくりと下ろす。棺が安置されると、その周りに鏡が敷き詰められる。死せる者が悪い鬼から護られる様に。それからまた多くの副葬品が配置される。入れる物を余さず納めてしまうと、墓室の上に石の蓋が被せられる。これが鎮めの石として、死せる者の姿を永遠に隠すであろう。蓋の上を土で埋め、人夫たちが粗く踏み固める。入れ替わりに、紗を纏った踊り女たちが上がる。これから夜が明けるまで踊り、踊る足で封土を踏み締め、土と石が死せる者の安寧を守ってくれる様に、念を入れる。
「さあもう下に行こう。穢れ払いの酒を酌み交わそう」
踊り女たちを背にし、狗奴王は難斗米たちを率いて、冬至の日の入りの方角を向く。ふと、西側に付けられた階段を、多少の人が、登って来る気配がする。朱に塗った顔、素の着物。死せる者の装いをした、一団の女たちが現れる。先頭に立つのは、あの弥馬獲支。そして一人また一人と、暗がりに朱塗りの顔が漂う。狗奴王は眼をカッとさせて、毛を逆立てる。
「おまえたち、何のまねじゃ」
弥馬獲支は両膝を土に突いて、言う。
「妾どもは生きるすべのないところを、亡王に救われて命を得た者。今や死出の山路に殉うべきを、いかでか生きて朝を迎えられましょう」
難斗米は腰の太刀を抜いて、狗奴王に進める。
「さあ、どうぞ」
「あっ、おれに手ずから斬れと申すのか」
「お望みでしょう。お妃さまの仇を」
「おう、そうだ……」
狗奴王は太刀を取った。しかし、手足は措く所を知らず、目は視る所を定めず、躊躇い、逡巡している。確かに殺してやろうとは言ったものの、いざその命が自分の前に投げ出されてみると、手を下す事が恐ろしい様な気がするのだ。弥馬獲支は下から、朱塗りの顔の中の白い眼で、狗奴王を見据えている。弥馬獲支の後ろでは、同じく死出の装いをした何十人かの女たちが、亦り朱に浮かばせた白い眼で、狗奴王を睹ている。
「いかが」
難斗米は酒を一杯、狗奴王に勧める。
「おう」
狗奴王は酒をぐっと呑んで、眼を紅くさせて、弥馬獲支を睨む。胸に息をさせながら、腕を撫して、刀の柄を握り締める。
「さあ、お裁きを」
難斗米が重ねて促せば、狗奴王は弥馬獲支に立てと命じ、ヤッと思い切って、太刀を女の腹に突き立てる。柄越しに、柔らかい人の体の手応えを感じる。所が普段から稽古を怠けた腕では、切っ先が着物に絡め取られて、どうやら傷が十分に深くない。下手をしたかと思って咄嗟に腕を引くと、それでも返り血が狗奴王を汚す。紅の水花が舞い、顔に、手に、熱い血が著く。弥馬獲支は項垂れて膝を突きながら、朱の顔で狗奴王を睨み返す。
「ああ……ああ……!」
狗奴王は狼狽を隠せない。
「違う……、そうじゃない」
何十人かの女たちも、朱の顔で狗奴王を睨む。
「こんなことしたくない……」
その時、後ろから、思わぬ声が響く。
「狗古智、何をしている」
ハッとして酒紅の面も蒼褪める。声が続く。
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