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東夷の巻
与えられた首級
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姫氏王は難斗米が差し出した太刀を、兕馬觚が取り次ごうとするのを待たずに、直に受け取った。女王はその鞘から太刀を抜く。傾いた太陽は、女王を正面から照らす。刀身には血の蹟が確かめられる。
「斗米よ、予も待ち疲れたぞ」
という王の言葉に、難斗米は項垂れる様に跪拝の姿勢を保ったまま、
「はっ……」
という声を絞り出して答えた。
「その手で斬ったであろうな」
「はっ、確かに……」
難斗米は震えを含ませた声で答える。姫氏王は伊声耆に命じる。
「首を検める」
「はっ」
と言いながら伊声耆は躊躇った。王の後方では庁舎の軒の下で、臺与は何か恐ろしい気を感じ取って、侍女の脚にしがみついている。
「構わぬ。出せ」
女王は顧みない。その身は夕陽に照らされて赤く燃えている。
「はっ、ただちに」
伊声耆は、手桶を封じた縄を解き、蓋を取って、汚れた塩の中から、奴王の首級を持ち上げる。兕馬觚の指図で、下男が小さい筵を敷いた上に、老人の首が影を落とす。乱れた切り口は、一息に斬り落とされなかった事を示している。そこで伊声耆が何か言い掛けたのを、姫氏王は遮った。
「金印は、身に付けておらなかったのであろう」
「はっ、申し訳ございません」
「どうせ海にでも投げ棄てたのであろうよ」
斯迦ノ島までは持って行ったらしく思われます、と伊声耆は言う。
「手を分けて探しておりますが、まだ見付かりません」
「見付かるまい、死んでも予の手には渡さぬつもりよ」
姫氏王は、夕陽を背に影を伸ばす奴王の顔を睨め付ける。
「まあそれだけは与えておいてやろう――、印だけを持って、黄泉路を迷うがいい」
首の影が伸びる程、姫氏王の姿は真っ赤に染まる。
「斗米よ」
難斗米はその脇で、言葉らしい言葉を一つも言わないまま、まだ踞っている。
「斗米よ。大儀であった。今日は家に帰って休むが良い」
はっ、とだけ難斗米は答えて、うつむきがちに去って行くその背中を、張政は見送った。姫氏王は兕馬觚に命じて、鏡割りを再開させる。人夫たちは立ち上がって鉄槌を手に取る。奴王の首も再び塩漬けにされて、奥に運ばれる。張政は、この異様な空気に気を呑まれていたが、金属の響きにハッとして、自分がしなければならない事を思い直した。張政は難斗米の後を追った。
奴の邑には難斗米の実家が有る。だから邑の中へ向かうはずだが、しかし外へ出て行こうとするその背中を張政は見た。奴の邑の郊外を、難水が南から北へ流れている。流れは遅くとも豊かな量の水が海に注ぐ。しかし北風は冷たく吹き、川面に波を遡上させる。空は暗くなりかけている。
「赤い、赤い」
難斗米の声を張政は聞いた。
「血だ」
難斗米は川に向かっている。
「斗米さん」
「血の色だ……」
宵闇が迫って、川は黒く染まりつつある。難斗米は粗い砂に落ちる様に座り込んだ。
「斗米さん、家に帰るはずではないか」
後ろから声を掛ける張政に、難斗米は振り向かない。
「家には帰れない。老いた母もおれを叱るだろう」
「どうして。あなたは立派に君命を果たしたのではないか」
「いいや、だめだ。おれは金印を失ったことで侍臣としては不忠、その上に氏の長を殺めたことで人の子としては不孝だ」
張政は難斗米の隣に座って、その肩に手を掛ける。
「斗米さん、聞かせてくれないか。奴王の最期はどうであったか」
そこで難斗米は初めて張政の顔を見た。
「ああ、おれの心はまだあの場所にあるようだ……」
難斗米は、奴王の舟を追って、斯迦島に上陸した。斯迦島はそう広くはないとはいえ、奴王がしばし姿をくらませるには十分な起伏や叢林を有している。難斗米は奴王の姿を見失った。難斗米は手配りをして奴王を探させた。傍らには塩を詰めた手桶を下げた伊声耆が控えている。次に難斗米が奴王の姿を見たのは、島の南の海に臨む丘の上であった。取り押さえられた奴王は、後ろ手に縄を受け、両膝を突いて、やつれた顔の中に眼を光らせていた。難斗米は兵士を退がらせて、その場には奴王と伊声耆との三人だけになった。難斗米は最期の懇願をした。
――大叔父さま、どうか後生ですから、金印を渡して下さい。
――あの印はもう亡い、海に棄ててしまった。
――嘘でしょう。
――嘘ではない。この通りだ。
そう言って奴王は、腰を折って首を差し伸ばした。
――印の代わりに、この首をおまえの君主に捧げるが良い。
伊声耆の手前、難斗米は太刀を抜いて上段に構えた。しかし骨に震えが走って、振り下ろす事は出来ない。躊躇うのでなければ、何でこれ程の時間を費やし、君主を長く待たせようか。
――サァ早く斬れ。どうせ印を渡してもひめおうはわしを生かしてはおくまい。ならばおまえに生きる道を与えてわしは死にたいのだ。
波が磯を叩く音が胸に迫って、難斗米はとうとう奴王の首を打った。首は落ちず、二度打った。
「帰るしかない。奴王が与えてくれた道を歩くのだ」
それは難斗米も判っているに違いないが、言葉にして聞かせてやる事が肝心だと張政は思った。闇に消え入りそうになるその魂を呼び返さなければ、張政にとっても済まない事になる。市場の方では松明が焚かれて、鏡を割る音がまだ響いている。
「斗米よ、予も待ち疲れたぞ」
という王の言葉に、難斗米は項垂れる様に跪拝の姿勢を保ったまま、
「はっ……」
という声を絞り出して答えた。
「その手で斬ったであろうな」
「はっ、確かに……」
難斗米は震えを含ませた声で答える。姫氏王は伊声耆に命じる。
「首を検める」
「はっ」
と言いながら伊声耆は躊躇った。王の後方では庁舎の軒の下で、臺与は何か恐ろしい気を感じ取って、侍女の脚にしがみついている。
「構わぬ。出せ」
女王は顧みない。その身は夕陽に照らされて赤く燃えている。
「はっ、ただちに」
伊声耆は、手桶を封じた縄を解き、蓋を取って、汚れた塩の中から、奴王の首級を持ち上げる。兕馬觚の指図で、下男が小さい筵を敷いた上に、老人の首が影を落とす。乱れた切り口は、一息に斬り落とされなかった事を示している。そこで伊声耆が何か言い掛けたのを、姫氏王は遮った。
「金印は、身に付けておらなかったのであろう」
「はっ、申し訳ございません」
「どうせ海にでも投げ棄てたのであろうよ」
斯迦ノ島までは持って行ったらしく思われます、と伊声耆は言う。
「手を分けて探しておりますが、まだ見付かりません」
「見付かるまい、死んでも予の手には渡さぬつもりよ」
姫氏王は、夕陽を背に影を伸ばす奴王の顔を睨め付ける。
「まあそれだけは与えておいてやろう――、印だけを持って、黄泉路を迷うがいい」
首の影が伸びる程、姫氏王の姿は真っ赤に染まる。
「斗米よ」
難斗米はその脇で、言葉らしい言葉を一つも言わないまま、まだ踞っている。
「斗米よ。大儀であった。今日は家に帰って休むが良い」
はっ、とだけ難斗米は答えて、うつむきがちに去って行くその背中を、張政は見送った。姫氏王は兕馬觚に命じて、鏡割りを再開させる。人夫たちは立ち上がって鉄槌を手に取る。奴王の首も再び塩漬けにされて、奥に運ばれる。張政は、この異様な空気に気を呑まれていたが、金属の響きにハッとして、自分がしなければならない事を思い直した。張政は難斗米の後を追った。
奴の邑には難斗米の実家が有る。だから邑の中へ向かうはずだが、しかし外へ出て行こうとするその背中を張政は見た。奴の邑の郊外を、難水が南から北へ流れている。流れは遅くとも豊かな量の水が海に注ぐ。しかし北風は冷たく吹き、川面に波を遡上させる。空は暗くなりかけている。
「赤い、赤い」
難斗米の声を張政は聞いた。
「血だ」
難斗米は川に向かっている。
「斗米さん」
「血の色だ……」
宵闇が迫って、川は黒く染まりつつある。難斗米は粗い砂に落ちる様に座り込んだ。
「斗米さん、家に帰るはずではないか」
後ろから声を掛ける張政に、難斗米は振り向かない。
「家には帰れない。老いた母もおれを叱るだろう」
「どうして。あなたは立派に君命を果たしたのではないか」
「いいや、だめだ。おれは金印を失ったことで侍臣としては不忠、その上に氏の長を殺めたことで人の子としては不孝だ」
張政は難斗米の隣に座って、その肩に手を掛ける。
「斗米さん、聞かせてくれないか。奴王の最期はどうであったか」
そこで難斗米は初めて張政の顔を見た。
「ああ、おれの心はまだあの場所にあるようだ……」
難斗米は、奴王の舟を追って、斯迦島に上陸した。斯迦島はそう広くはないとはいえ、奴王がしばし姿をくらませるには十分な起伏や叢林を有している。難斗米は奴王の姿を見失った。難斗米は手配りをして奴王を探させた。傍らには塩を詰めた手桶を下げた伊声耆が控えている。次に難斗米が奴王の姿を見たのは、島の南の海に臨む丘の上であった。取り押さえられた奴王は、後ろ手に縄を受け、両膝を突いて、やつれた顔の中に眼を光らせていた。難斗米は兵士を退がらせて、その場には奴王と伊声耆との三人だけになった。難斗米は最期の懇願をした。
――大叔父さま、どうか後生ですから、金印を渡して下さい。
――あの印はもう亡い、海に棄ててしまった。
――嘘でしょう。
――嘘ではない。この通りだ。
そう言って奴王は、腰を折って首を差し伸ばした。
――印の代わりに、この首をおまえの君主に捧げるが良い。
伊声耆の手前、難斗米は太刀を抜いて上段に構えた。しかし骨に震えが走って、振り下ろす事は出来ない。躊躇うのでなければ、何でこれ程の時間を費やし、君主を長く待たせようか。
――サァ早く斬れ。どうせ印を渡してもひめおうはわしを生かしてはおくまい。ならばおまえに生きる道を与えてわしは死にたいのだ。
波が磯を叩く音が胸に迫って、難斗米はとうとう奴王の首を打った。首は落ちず、二度打った。
「帰るしかない。奴王が与えてくれた道を歩くのだ」
それは難斗米も判っているに違いないが、言葉にして聞かせてやる事が肝心だと張政は思った。闇に消え入りそうになるその魂を呼び返さなければ、張政にとっても済まない事になる。市場の方では松明が焚かれて、鏡を割る音がまだ響いている。
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