三国志外伝 張政と姫氏王

敲達咖哪

文字の大きさ
26 / 41
東夷の巻

与えられた首級

しおりを挟む
 氏王は難斗米なとめが差し出した太刀を、兕馬觚しまこが取り次ごうとするのを待たずに、直に受け取った。女王はその鞘から太刀を抜く。傾いた太陽は、女王を正面から照らす。刀身には血のあとが確かめられる。
「斗米よ、わしも待ち疲れたぞ」
 という王の言葉に、難斗米は項垂れる様に跪拝の姿勢を保ったまま、
「はっ……」
 という声を絞り出して答えた。
「その手で斬ったであろうな」
「はっ、確かに……」
 難斗米は震えを含ませた声で答える。姫氏王は伊声耆いせきに命じる。
「首をあらためる」
「はっ」
 と言いながら伊声耆は躊躇った。王の後方では庁舎の軒の下で、臺与とよは何か恐ろしい気を感じ取って、侍女の脚にしがみついている。
「構わぬ。出せ」
 女王は顧みない。その身は夕陽に照らされて赤く燃えている。
「はっ、ただちに」
 伊声耆は、手桶を封じた縄を解き、蓋を取って、汚れた塩の中から、王の首級しるしを持ち上げる。兕馬觚の指図で、下男が小さい筵を敷いた上に、老人の首が影を落とす。乱れた切り口は、一息に斬り落とされなかった事を示している。そこで伊声耆が何か言い掛けたのを、姫氏王は遮った。
「金印は、身に付けておらなかったのであろう」
「はっ、申し訳ございません」
「どうせ海にでも投げ棄てたのであろうよ」
 斯迦しかノ島までは持って行ったらしく思われます、と伊声耆は言う。
「手を分けて探しておりますが、まだ見付かりません」
「見付かるまい、死んでも予の手には渡さぬつもりよ」
 姫氏王は、夕陽を背に影を伸ばす奴王の顔を睨め付ける。
「まあそれだけは与えておいてやろう――、印だけを持って、黄泉路よもつじを迷うがいい」
 首の影が伸びる程、姫氏王の姿は真っ赤に染まる。
「斗米よ」
 難斗米はその脇で、言葉らしい言葉を一つも言わないまま、まだうずくまっている。
「斗米よ。大儀であった。今日は家に帰って休むが良い」
 はっ、とだけ難斗米は答えて、うつむきがちに去って行くその背中を、張政チァン・センは見送った。姫氏王は兕馬觚に命じて、鏡割りを再開させる。人夫たちは立ち上がって鉄槌を手に取る。奴王の首も再び塩漬けにされて、奥に運ばれる。張政は、この異様な空気に気を呑まれていたが、金属の響きにハッとして、自分がしなければならない事を思い直した。張政は難斗米の後を追った。
 奴のまちには難斗米の実家が有る。だから邑の中へ向かうはずだが、しかし外へ出て行こうとするその背中を張政は見た。奴の邑の郊外を、難水なのかわが南から北へ流れている。流れは遅くとも豊かな量の水が海に注ぐ。しかし北風は冷たく吹き、川面に波を遡上させる。空は暗くなりかけている。
「赤い、赤い」
 難斗米の声を張政は聞いた。
「血だ」
 難斗米は川に向かっている。
「斗米さん」
「血の色だ……」
 宵闇が迫って、川は黒く染まりつつある。難斗米は粗い砂に落ちる様に座り込んだ。
「斗米さん、家に帰るはずではないか」
 後ろから声を掛ける張政に、難斗米は振り向かない。
「家には帰れない。老いた母もおれを叱るだろう」
「どうして。あなたは立派に君命を果たしたのではないか」
「いいや、だめだ。おれは金印を失ったことで侍臣さむらいとしては不忠、その上に氏の長を殺めたことで人の子としては不孝だ」
 張政は難斗米の隣に座って、その肩に手を掛ける。
「斗米さん、聞かせてくれないか。奴王の最期はどうであったか」
 そこで難斗米は初めて張政の顔を見た。
「ああ、おれの心はまだあの場所にあるようだ……」
 難斗米は、奴王の舟を追って、斯迦島に上陸した。斯迦島はそう広くはないとはいえ、奴王がしばし姿をくらませるには十分な起伏や叢林を有している。難斗米は奴王の姿を見失った。難斗米は手配りをして奴王を探させた。傍らには塩を詰めた手桶を下げた伊声耆が控えている。次に難斗米が奴王の姿を見たのは、島の南の海に臨む丘の上であった。取り押さえられた奴王は、後ろ手に縄を受け、両膝を突いて、やつれた顔の中に眼を光らせていた。難斗米は兵士を退がらせて、その場には奴王と伊声耆との三人だけになった。難斗米は最期の懇願をした。
 ――大叔父さま、どうか後生ですから、金印を渡して下さい。
 ――あの印はもう亡い、海に棄ててしまった。
 ――嘘でしょう。
 ――嘘ではない。この通りだ。
 そう言って奴王は、腰を折って首を差し伸ばした。
 ――印の代わりに、この首をおまえの君主に捧げるが良い。
 伊声耆の手前、難斗米は太刀を抜いて上段に構えた。しかし骨に震えが走って、振り下ろす事は出来ない。躊躇うのでなければ、何でこれ程の時間を費やし、君主を長く待たせようか。
 ――サァ早く斬れ。どうせ印を渡してもはわしを生かしてはおくまい。ならばおまえに生きる道を与えてわしは死にたいのだ。
 波が磯を叩く音が胸に迫って、難斗米はとうとう奴王の首を打った。首は落ちず、二度打った。
「帰るしかない。奴王が与えてくれた道を歩くのだ」
 それは難斗米も判っているに違いないが、言葉にして聞かせてやる事が肝心だと張政は思った。闇に消え入りそうになるその魂を呼び返さなければ、張政にとっても済まない事になる。市場の方では松明が焚かれて、鏡を割る音がまだ響いている。 
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

わたしの下着 母の私をBBA~と呼ぶことのある息子がまさか...

MisakiNonagase
青春
39才の母・真知子は息子が私の下着を持ち出していることに気づいた。 ネットで同様の事象がないか調べると、案外多いようだ。 さて、真知子は息子を問い詰める? それとも気づかないふりを続けてあげるか? そのほかに外伝も綴りました。

どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~

さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」 あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。 弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。 弟とは凄く仲が良いの! それはそれはものすごく‥‥‥ 「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」 そんな関係のあたしたち。 でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥ 「うそっ! お腹が出て来てる!?」 お姉ちゃんの秘密の悩みです。

本能寺からの決死の脱出 ~尾張の大うつけ 織田信長 天下を統一す~

bekichi
歴史・時代
戦国時代の日本を背景に、織田信長の若き日の物語を語る。荒れ狂う風が尾張の大地を駆け巡る中、夜空の星々はこれから繰り広げられる壮絶な戦いの予兆のように輝いている。この混沌とした時代において、信長はまだ無名であったが、彼の野望はやがて天下を揺るがすことになる。信長は、父・信秀の治世に疑問を持ちながらも、独自の力を蓄え、異なる理想を追求し、反逆者とみなされることもあれば期待の星と讃えられることもあった。彼の目標は、乱世を統一し平和な時代を創ることにあった。物語は信長の足跡を追い、若き日の友情、父との確執、大名との駆け引きを描く。信長の人生は、斎藤道三、明智光秀、羽柴秀吉、徳川家康、伊達政宗といった時代の英傑たちとの交流とともに、一つの大きな物語を形成する。この物語は、信長の未知なる野望の軌跡を描くものである。

与兵衛長屋つれあい帖 お江戸ふたり暮らし

かずえ
歴史・時代
旧題:ふたり暮らし 長屋シリーズ一作目。 第八回歴史・時代小説大賞で優秀短編賞を頂きました。応援してくださった皆様、ありがとうございます。 十歳のみつは、十日前に一人親の母を亡くしたばかり。幸い、母の蓄えがあり、自分の裁縫の腕の良さもあって、何とか今まで通り長屋で暮らしていけそうだ。 頼まれた繕い物を届けた帰り、くすんだ着物で座り込んでいる男の子を拾う。 一人で寂しかったみつは、拾った男の子と二人で暮らし始めた。

母の下着 タンスと洗濯籠の秘密

MisakiNonagase
青春
この物語は、思春期という複雑で繊細な時期を生きる少年の内面と、彼を取り巻く家族の静かなる絆を描いた作品です。 颯真(そうま)という一人の高校生の、ある「秘密」を通して、私たちは成長の過程で誰もが抱くかもしれない戸惑い、罪悪感、そしてそれらを包み込む家族の無言の理解に触れます。 物語は、現在の颯真と恋人・彩花との関係から、中学時代にさかのぼる形で展開されます。そこで明らかになるのは、彼がかつて母親の下着に対して抱いた抑えがたい好奇心と、それに伴う一連の行為です。それは彼自身が「歪んだ」と感じる過去の断片であり、深い恥ずかしさと自己嫌悪を伴う記憶です。 しかし、この物語の核心は、単なる過去の告白にはありません。むしろ、その行為に「気づいていたはず」の母親が、なぜ一言も問い詰めず、誰にも告げず、ただ静かに見守り続けたのか——という問いにこそあります。そこには、親子という関係を超えた、深い人間理解と、言葉にされない優しさが横たわっています。 センシティブな題材を、露骨な描写や扇情的な表現に頼ることなく、あくまで颯真の内省的な視点から丁寧に紡ぎ出しています。読者は、主人公の痛みと恥ずかしさを共有しながら、同時に、彼を破綻から救った「沈黙の救済」の重みと温かさを感じ取ることでしょう。 これは、一つの過ちと、その赦しについての物語です。また、成長とは時に恥ずかしい過去を背負いながら、他者の無償の寛容さによって初めて前を向けるようになる過程であること、そして家族の愛が最も深く現れるのは、時に何も言わない瞬間であることを、静かにしかし確かに伝える物語です。 どうか、登場人物たちの静かなる心の襞に寄り添いながら、ページをめくってください。

裏長屋の若殿、限られた自由を満喫する

克全
歴史・時代
貧乏人が肩を寄せ合って暮らす聖天長屋に徳田新之丞と名乗る人品卑しからぬ若侍がいた。月のうち数日しか長屋にいないのだが、いる時には自ら竈で米を炊き七輪で魚を焼く小まめな男だった。

偽夫婦お家騒動始末記

紫紺
歴史・時代
【第10回歴史時代大賞、奨励賞受賞しました!】 故郷を捨て、江戸で寺子屋の先生を生業として暮らす篠宮隼(しのみやはやて)は、ある夜、茶屋から足抜けしてきた陰間と出会う。 紫音(しおん)という若い男との奇妙な共同生活が始まるのだが。 隼には胸に秘めた決意があり、紫音との生活はそれを遂げるための策の一つだ。だが、紫音の方にも実は裏があって……。 江戸を舞台に様々な陰謀が駆け巡る。敢えて裏街道を走る隼に、念願を叶える日はくるのだろうか。 そして、拾った陰間、紫音の正体は。 活劇と謎解き、そして恋心の長編エンタメ時代小説です。

甲斐ノ副将、八幡原ニテ散……ラズ

朽縄咲良
歴史・時代
【第8回歴史時代小説大賞奨励賞受賞作品】  戦国の雄武田信玄の次弟にして、“稀代の副将”として、同時代の戦国武将たちはもちろん、後代の歴史家の間でも評価の高い武将、武田典厩信繁。  永禄四年、武田信玄と強敵上杉輝虎とが雌雄を決する“第四次川中島合戦”に於いて討ち死にするはずだった彼は、家臣の必死の奮闘により、その命を拾う。  信繁の生存によって、甲斐武田家と日本が辿るべき歴史の流れは徐々にずれてゆく――。  この作品は、武田信繁というひとりの武将の生存によって、史実とは異なっていく戦国時代を書いた、大河if戦記である。 *ノベルアッププラス・小説家になろうにも、同内容の作品を掲載しております(一部差異あり)。

処理中です...