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東夷の巻
伝世の太刀
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「王がお望みなら、臣は何年かここに留まって、臺与ぎみのお体を診て差し上げましょう」
という禿骨鋭の申し出は、姫氏王を喜ばせた。しかし鋭は使節団附きの医師という身分なので、それには梯儁の決裁が必要であり、この日はお預けという事にして、張政と共に与えられた宿に退がった。
奴王の金印について、張政が姫氏王に切り出したのは、その次の日の事である。こうした件は、正使である梯儁から交渉すべきではないかとも思ったが、先に打診しておくに越した事はないという所に考えは落ち着いた。新旧倭王の金印を引き換えにしたいという要求に対して、姫氏王の返辞は、速いと言うよりも急激であった。
「解っている。言われるまでもないことだ」
西向きに建つ宮殿の上に、姫氏王は昇る朝日を背に受けて、胡坐で軒に臨んでいる。張政は庭で立礼の姿勢を執って、宮殿の影を受けている。
「出よ」
と王が命じると、脇から伊声耆が現れ、軒の下に跪拝をする。
「これを持て」
と立ち上がった王は、腰に提げた重そうな太刀を抜いて庭に投げる。太刀はどすんと逆さまに突き立つ。刀身には朝日に照らされて、中平六年という文字が浮かぶ。漢の霊帝の世、今より五十年程前の元号である。
「これはかつて我が祖父公が、前の奴王を討った太刀だ」
「ははっ」
と伊声耆はかしこまっている。
「汝はこれを持って難斗米に伝えよ。天朝の命を以て、奴王の金印を徴れと」
姫氏王は侍女の手を介して、その鞘をも伊声耆に渡す。
「ははっ、直ちに」
と立とうとする伊声耆に、王はもう一つの命令を与える。
「汝は手桶に塩を詰め、それを持って斗米に附け」
伊声耆は眉に険しい色を見せ、
「はっ、ははっ、承りました」
と太刀を鞘に収めて、恭しく額に押し頂き退出する。
「予も追って発つであろう」
そう言って伊声耆を送り出した王は、
「張政よ」
と張政を呼ぶ。
「手間をかけるが、成り行きを見届けてもらいたい」
「は、それは……」
と言いかけて張政は、返す言葉を接げなかった。姫氏王は張政の返辞など待たずに、船の準備を侍女に命じ、出発の支度を始める。張政が、日の昇る前には全く予期しなかった速さで、それも思いの外の大きさで、事態は動き始めている。どうやら女王は要求を見越して予め用意をしていたらしいのだ。
翌る朝早く、一団の舟が川を下り始める。張政は小雷に騎って舟を追う。川沿いの道は曲がりくねって、岸に寄ったり離れたり、時に木々の間に水を行く舟々を垣間見る。中でも最も大きい舟には、王座の周りに幕が張られて、主人の姿は影を窺わせるばかりである。その影の中にも、張政はあの切れ長の眼が光っている様な気がする。
張政は、この要求を持ち込んだ身として、また彼の友人としても、難斗米の事が気懸かりになる。伊声耆が持たされた塩詰めの桶は、首を入れる桶だ。あの命令は、奴王が金印を渡さなければ、この太刀で首を獲れという意味に違いない。君主として姫氏王を慕い、氏の長者として奴王を敬っている難斗米は、忠義と孝心に挟まれて苦しまずにはいないはずだ。
舟は投馬国を素通りする。張政は投馬の邑の近くで、顔を知った倭人を見付けて、小雷を預け、梯儁への書簡を託した。現況の報告と、今は迂闊に動かない様にとの忠告を認めてある。岸に着けて休息している一行に手筈通り合流すると、張政は王の舟に陪席を許された。舟は再び川を下り始める。幕を巡らした中には、臺与と高位の侍女だけが従っている。張政はその中に招き入れられた。
姫氏王の支配するこの国で、舟の上は尚更この王に近い面々で固められている。ここで何か申し立てをすれば、冷たい川に放り込まれる事になるかも知れない。しかし張政は、李陵の弁護をした司馬遷の心を知っている。何故その役目を難斗米に命じたのか、他にも人物は有るではないか、それを問わなくてはならない……。
「張政よ」
先に口を開いたのは姫氏王の方であった。
「何か言いたいことがあろう」
王は旅装でいつもの頭巾に笠を被っている。今はその眼光が、確かに張政の顔を射抜いている。そこで張政が舌を動かそうとする短い間に、王はまた先に問いを掛ける。
「洛陽で、斗米の評判はどうであったか」
張政は舌を置き直して答える。
「洛陽では、富貴な身分の方々に幾度も招かれましたが、みな東の涯てからこんな挙措の正しい人物が出るのかと驚いておりました。王の名を高からしめたのは、難斗米の功績です」
「そうであろう。あれは幼い頃から賢い。将来はもっと大きい働きができる男だ」
王は、わずかに目を細めて、難斗米が先に行ったはずの川下を眺め、それから東へ顔を向けた。
「見よ、張政。この東の山々の向こうにも海があり、その中にも倭人の別種が国を作っている。それもいずれは残らず我が手の内に収めたいものだ」
そしてまた北へ向き直す。
「その為にも、この竹斯の島の上に在るちっぽけな国々など呑み込んでしまわねばならぬ。小さい国々が奴王のもとに連なるという古き習いは、どんな形ででももう残してはおけぬ。奴王さえ消えれば、北の国々は全く我がものとなる。斗米にはその押さえになってもらいたいのだ」
そこで張政は再び姫氏王の視線に捉えられた。
「しかしそれには、斗米が人々から奴王の跡目と見られていたのでは、駄目だ。それでは古きものに足を取られて、新しい仕事はできまい。足枷を断つのにどうすべきかは、斗米がよく判っておろう」
姫氏王は結局、張政に何も言わせなかった。
「あの頑迷なじじいは、金印を渡すまいからな」
川を下るのは上るよりもずっと速い。舟は不弥国の領域に入った。
という禿骨鋭の申し出は、姫氏王を喜ばせた。しかし鋭は使節団附きの医師という身分なので、それには梯儁の決裁が必要であり、この日はお預けという事にして、張政と共に与えられた宿に退がった。
奴王の金印について、張政が姫氏王に切り出したのは、その次の日の事である。こうした件は、正使である梯儁から交渉すべきではないかとも思ったが、先に打診しておくに越した事はないという所に考えは落ち着いた。新旧倭王の金印を引き換えにしたいという要求に対して、姫氏王の返辞は、速いと言うよりも急激であった。
「解っている。言われるまでもないことだ」
西向きに建つ宮殿の上に、姫氏王は昇る朝日を背に受けて、胡坐で軒に臨んでいる。張政は庭で立礼の姿勢を執って、宮殿の影を受けている。
「出よ」
と王が命じると、脇から伊声耆が現れ、軒の下に跪拝をする。
「これを持て」
と立ち上がった王は、腰に提げた重そうな太刀を抜いて庭に投げる。太刀はどすんと逆さまに突き立つ。刀身には朝日に照らされて、中平六年という文字が浮かぶ。漢の霊帝の世、今より五十年程前の元号である。
「これはかつて我が祖父公が、前の奴王を討った太刀だ」
「ははっ」
と伊声耆はかしこまっている。
「汝はこれを持って難斗米に伝えよ。天朝の命を以て、奴王の金印を徴れと」
姫氏王は侍女の手を介して、その鞘をも伊声耆に渡す。
「ははっ、直ちに」
と立とうとする伊声耆に、王はもう一つの命令を与える。
「汝は手桶に塩を詰め、それを持って斗米に附け」
伊声耆は眉に険しい色を見せ、
「はっ、ははっ、承りました」
と太刀を鞘に収めて、恭しく額に押し頂き退出する。
「予も追って発つであろう」
そう言って伊声耆を送り出した王は、
「張政よ」
と張政を呼ぶ。
「手間をかけるが、成り行きを見届けてもらいたい」
「は、それは……」
と言いかけて張政は、返す言葉を接げなかった。姫氏王は張政の返辞など待たずに、船の準備を侍女に命じ、出発の支度を始める。張政が、日の昇る前には全く予期しなかった速さで、それも思いの外の大きさで、事態は動き始めている。どうやら女王は要求を見越して予め用意をしていたらしいのだ。
翌る朝早く、一団の舟が川を下り始める。張政は小雷に騎って舟を追う。川沿いの道は曲がりくねって、岸に寄ったり離れたり、時に木々の間に水を行く舟々を垣間見る。中でも最も大きい舟には、王座の周りに幕が張られて、主人の姿は影を窺わせるばかりである。その影の中にも、張政はあの切れ長の眼が光っている様な気がする。
張政は、この要求を持ち込んだ身として、また彼の友人としても、難斗米の事が気懸かりになる。伊声耆が持たされた塩詰めの桶は、首を入れる桶だ。あの命令は、奴王が金印を渡さなければ、この太刀で首を獲れという意味に違いない。君主として姫氏王を慕い、氏の長者として奴王を敬っている難斗米は、忠義と孝心に挟まれて苦しまずにはいないはずだ。
舟は投馬国を素通りする。張政は投馬の邑の近くで、顔を知った倭人を見付けて、小雷を預け、梯儁への書簡を託した。現況の報告と、今は迂闊に動かない様にとの忠告を認めてある。岸に着けて休息している一行に手筈通り合流すると、張政は王の舟に陪席を許された。舟は再び川を下り始める。幕を巡らした中には、臺与と高位の侍女だけが従っている。張政はその中に招き入れられた。
姫氏王の支配するこの国で、舟の上は尚更この王に近い面々で固められている。ここで何か申し立てをすれば、冷たい川に放り込まれる事になるかも知れない。しかし張政は、李陵の弁護をした司馬遷の心を知っている。何故その役目を難斗米に命じたのか、他にも人物は有るではないか、それを問わなくてはならない……。
「張政よ」
先に口を開いたのは姫氏王の方であった。
「何か言いたいことがあろう」
王は旅装でいつもの頭巾に笠を被っている。今はその眼光が、確かに張政の顔を射抜いている。そこで張政が舌を動かそうとする短い間に、王はまた先に問いを掛ける。
「洛陽で、斗米の評判はどうであったか」
張政は舌を置き直して答える。
「洛陽では、富貴な身分の方々に幾度も招かれましたが、みな東の涯てからこんな挙措の正しい人物が出るのかと驚いておりました。王の名を高からしめたのは、難斗米の功績です」
「そうであろう。あれは幼い頃から賢い。将来はもっと大きい働きができる男だ」
王は、わずかに目を細めて、難斗米が先に行ったはずの川下を眺め、それから東へ顔を向けた。
「見よ、張政。この東の山々の向こうにも海があり、その中にも倭人の別種が国を作っている。それもいずれは残らず我が手の内に収めたいものだ」
そしてまた北へ向き直す。
「その為にも、この竹斯の島の上に在るちっぽけな国々など呑み込んでしまわねばならぬ。小さい国々が奴王のもとに連なるという古き習いは、どんな形ででももう残してはおけぬ。奴王さえ消えれば、北の国々は全く我がものとなる。斗米にはその押さえになってもらいたいのだ」
そこで張政は再び姫氏王の視線に捉えられた。
「しかしそれには、斗米が人々から奴王の跡目と見られていたのでは、駄目だ。それでは古きものに足を取られて、新しい仕事はできまい。足枷を断つのにどうすべきかは、斗米がよく判っておろう」
姫氏王は結局、張政に何も言わせなかった。
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