三国志外伝 張政と姫氏王

敲達咖哪

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東夷の巻

海を越える

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 弁韓ビェンガンは、五月の夏至を過ぎた頃から、梅雨の時期に入る。このじめじめとして執拗に雨が降り続く季節を六月下旬に抜けると、張政チァン・セン梯儁テイ・ツュィンは、舟や荷物を調えて、いつでも出航が出来る様に準備をさせた。七月から八月にかけての時機をのがすと、最も穏やかな季節は過ぎてしまう。張政は毎日倭人の船頭らと話しをして、天気の見通しを尋ねた。好天が続きそうでさえあれば、いつでも帆を挙げるつもりだが、失敗は許されないし、後が無くなるまでにはまだ時間が有る。
 この長い待ち時間を、倭人の水夫たちは苦にする様子を見せなかった。倭人たちは自身の生業を投げ棄ってまでこの仕事に従ってくれている。無論帯方タイピァン郡から幾らかの報酬は出る。しかしそれは倭人たちにとって問題ではなかった。彼らにとっては難斗米なとめという名族の若棟梁を助ける仕事は名誉であり、本国に還ればそれによって幅が利くという事でもあった。それに彼らは性質が素朴なだけに多少の苦は苦にしなかった。
 倭人たちの舟は、比較的小型の舟ばかりである。それは倭地に産する木材を使った独木まるき舟に、舷側板を取り付けた程度の簡単な構造だが、頑丈でよく風波に耐え、小回りが利く。これを十五艘ばかり集めて、五艘ずつ三団に分かれて行く事にした。天子から氏王への賜物は、例えば十張の絳綈縐粟罽こうていすうぞくけいは四と三と三、八両の金は三と三と二、百枚の銅鏡なら三十四と三十三と三十三という風にして、分けられる物は三つに分ける。それで最悪の場合でもどうにかして三分の一は届けようという訳である。尤もこれは念の為であって、張政も梯儁も、本当に難破するという想像は少しもしていない。
 狗邪コウヤ国は海岸からは少し離れているが、入り江がぐっと切り込んでいて、大きくない海舟はそこまで出入りが出来る。この地形は帯方郡と似た条件に在った。張政たちがここから漕ぎ出したのは、七月下旬の事である。勅使の梯儁、医師の禿骨鋭トゥックォツ・ユェイ、倭人の大夫難斗米と都市牛利としぐり、水夫たち、帯方郡からの要員、それに果下馬の小雷シェウルァイも乗っている。小雷が落ち着いていてくれるかどうか心配したが、それはどうやら杞憂であった。倭王の印綬と冊書は、梯儁がその懐にしっかりと包み込んでいる。
 狗邪水コウヤかわの西岸から海に出ると、すぐ西南に一つの島が有るが、これが弁韓の涜盧ドゥクリォ国である。島の岸にって西南へ進み、その南端に至る。そこから東南を望むと、遥かに山脈を切り取って海に投げ込んだ様な島影が見える。これが倭の対馬つしま国である。海峡には西から東への強い流れが有り、うっかりするとずっと東へ漂流してしまう。だから水夫たちはまっすぐ南向きというくらいの意識で舟を走らせる。沖へ、沖へと進んで来ると、海は色をどこまでも濃くして、その果てしない深さを知らせる。海がどこまで深いのかは、その広さが知られないのと同じく、倭人たちでも分からないと云う。
 始めは朦朧としていた対馬の島影が次第に明確になって来ると、水夫たちは安堵の色を見せる。儀仗用の銅矛をきらきらと耀かせながら、対馬からの舟が迎えに出る。銅矛を掲げる意味は、外からの人が悪いものを持ち込まない様に祓う為だと云う。張政は海に出る時、香を用意した。小さい箱に灰を詰め、一条の溝を切って、そこに香粉を詰めて、一端に火を付ける。香が燃え尽きるまでの時間はおよそ決まっている。一本の香が燃える時間を一更と謂い、何更かかったかで大まかな距離に換算できる。ここまでの航路は、船乗りの尺度で約千里余りである。さして精確な数字は必要あるまい。
 対馬島は他の陸地からは離れて海中に在る。対馬に近付くと、張政は親指を立ててその島の長さを目測しておいた。矛の穂の様な形の島であるから、後は幅が分かれば面積の見当が付く。面積はおよそ方四百里――一辺が四百里の正方形に相当する広さ――程度と計算した。地形は険しくて平地が少なく、道路といっても禽鹿之径けものみちの如しである。千戸ほどの人が住んでいるが、良いはたけは無く、海の物を採って食い、穀物などは舟に乗って南北から買い入れている。
 好天が続く内にと、先を急ぐ。また南へ海を渡り、およそ千里余りして一支いき国に至る。広さはおよそ方三百里余りで、三千家ほどが住む。竹木の叢林が多く、いくらか田地は有るものの、耕しても食うに足らず、やはり南北から仕入れている。
 一支国からは東南へ伊都いと国を目指すのであるが、張政と小雷の乗った一艘の舟は途中で船団から離れ、別の航路を執る。倭地について知りうる限りの調査をせよとの使命を果たす為である。梯儁は漢人の衛士を率いて行けと言ってくれたが、張政は断った。この道程は倭人だけの方が良い。難斗米が同行を申し出てくれたのは心強い。
 張政たちの舟は、東南を指す船団からは西南へ離れて、末盧まつら国へ向かう。一支国からは南に当たる。ふと肌に水滴を感じ、ひやりとしたものの、わずかな通り雨で、今度の海越えも無事に過ごす事が出来た。末盧国の人々は、山と海に面した狭い土地に住み、海に潜って魚やあわびを捕るのを生業としている。
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