7 / 41
華夏の巻
黄土を蹠む
しおりを挟む
帯方太守が倭人の使節団を洛陽に送致せしめる、という正式の文書が郡から朝廷宛てに提出されたのは、景初三年六月の事である。ただし劉昕は転任の為に一足早く中央に召還されており、この時には新太守として劉夏という人物が赴任していた。この文書は直接帝都へは送られず、制圧後の遼東に駐留していた司馬子上が預かった。子上は公孫氏から奪還した遼東・玄菟・楽浪・帯方の海東四郡を、本来の管掌である幽州刺史の手に返して、洛陽へ帰還する事になっている。それと同時に、希な来客である倭人たちを伴って行こうというわけである。張政と梯儁も無論同行する。
遼東郡から京師洛陽までは、南西へ三千六百里と云われている。司馬子上と数百人の従者、張政と梯儁、難斗米と都市牛利、囚人たちは、夏の高い陽を置き残す様にして襄平を去り、幽州刺史の治所である薊を指して西へ向かった。昌黎・遼西を過ぎ、右北平郡に入るまでは城が少ない。路傍に農民の姿は莫く、寧ろ遠くから馬に乗った烏丸人がこちらを窺うのに時々遭う。一行は用の無いこの地方を可及的速やかに通り抜ける。右北平郡に入ると、漸く土地が拓けて来る。右北平を過ぎ、広陽郡に入る。薊県は広陽郡に在る。ここは古の燕国である。遼東から薊までは千七百里ほどである。
幽州刺史の毌丘倹が、儀仗兵を率いて、薊城の郊外で司馬子上を迎える。毌丘倹は、字を仲恭といい、河東郡聞喜県の人である。先年司馬仲達の遼東征伐に加わり、その功を以て安邑侯という爵位を授かった。子上は難斗米と都市牛利に命じて、自分の馬の後ろを歩かせる。張政と梯儁もそこに付いた。仲恭は子上と轡を並べて城門に至り、そこで先を譲り合う。それは礼儀の型通りである。門をくぐって邑に入ると、歓迎の音楽が耳を驚かせる。司馬氏の次男が倭人を連れて還るという事は、ちゃんと宣伝しておいたものらしく、大通りには市民たちが見物に出ている。
仲恭は早速歓迎の宴席を張り、幽州の高官たちが顔を揃える。子上はここにも倭人たちを連れ出して、自分の功績として注目を誘う。すると芋蔓式に張政と梯儁も出席する事となる。二人とも、今までこんな高級な宴会に加わった事が無い。料理は割り合い高価な食材が多く、酒も良い物が用意されている。しかし料理の方法は庶民の食事と大した違いは無く、さほど上質に出来てもいない。ただその量だけが馬鹿に多く、出席した人数と比べて明らかに多過ぎる。わざと余らせておいて無駄にするのが、身分の貴さを証明する最高の贅沢なのである。裏では下役たちが棄てられる料理の御相伴に与ろうと待っている。外には匂いを嗅ぎつけた乞食も寄って来ているのだろう、と張政は思う。
十日ほどの休息の後、薊城を去り、范陽・河間・安平・鋸鹿・広平・邯鄲・鄴などといった各地の都市を経る。都市に入る度に、子上は歓待を受け、張政や難斗米たちも陪席を命じられる。子上は各地で必要以上に時間を費やして、一行をゆるゆると進ませた。いつしか足の蹠む所は、黒く締まった土ではなくなり、粉を詰めた様な黄色い地面に代わっている。
「長いこと歩いたが、ちっとも潮の気がしてこない」
と難斗米が言う。倭人たちは島育ちだから、海を背にして歩いてもすぐ反対側の海に着くという感覚を有っている。それは張政たち楽浪人にとっても余り違わない。楽浪地方から東に歩いても海に抵るまではさほど日数を要しない。
「この陸はどのくらい広いのだろうなあ」
「まだ今まで歩いてきたくらいは先がありそうではないか」
難斗米と都市牛利は車の上でそんな語を交わす。張政や梯儁も、書物の知識で知っていた事とはいえ、初めて我が身で覚えるその広さには、亦り不思議な感慨を持った。黄土はどこまでも尽きず、風が吹くと空が遙かに煙る。鄴を後にして河内郡に入る。
「ここまで来れば、中国に還ったという気がする」
と誰かが言った。確かにこの辺りは昔の殷国の故地であり、中国と云えばこの地域を指したものだ。そう思ってみれば、古い文明が土にまで沁み込んでいるかの感じもし、土地の人々もどことなく温雅に見える。辺境との格差を感じさせられる。河内郡では温県に宿を取る。ここは司馬氏の本貫であり、子上は格別の歓迎を受ける。一行はここでも、十数日という予定で長い休息を命じられる。洛陽までは乃く百里ほどのはずである。子上は庶民にも酒を振る舞い、張政や難斗米も土地の故老たちから慰問を受ける。
温県の宿で過ごす間、張政にはやっておかなければならない仕事が有った。外夷の首長が天子に通好を求める場合、上表文という物を用意しなければならない。これは受付方の役人が代筆するのが普通で、内容は型通りにしつつ詞を選び、申し添える事が有れば書き足す程度だから、別に苦労は無い。張政は襄平に居る間に下書きを作っておいた。しかし一つ埋まらない所が残る。上表をするには本名を称するのが礼儀であり、譬えばもし張政が自分の名に於いて出すならば、その冒頭には、
「臣政が申し上げる」
という風に書いて、字の子文や他の通称などを使ってはいけない。姫氏王ならば、
「倭の君長某が書を上る」
とでも書くはずだが、ここに問題が有った。実は誰も姫氏王の本名を知らないのである。
遼東郡から京師洛陽までは、南西へ三千六百里と云われている。司馬子上と数百人の従者、張政と梯儁、難斗米と都市牛利、囚人たちは、夏の高い陽を置き残す様にして襄平を去り、幽州刺史の治所である薊を指して西へ向かった。昌黎・遼西を過ぎ、右北平郡に入るまでは城が少ない。路傍に農民の姿は莫く、寧ろ遠くから馬に乗った烏丸人がこちらを窺うのに時々遭う。一行は用の無いこの地方を可及的速やかに通り抜ける。右北平郡に入ると、漸く土地が拓けて来る。右北平を過ぎ、広陽郡に入る。薊県は広陽郡に在る。ここは古の燕国である。遼東から薊までは千七百里ほどである。
幽州刺史の毌丘倹が、儀仗兵を率いて、薊城の郊外で司馬子上を迎える。毌丘倹は、字を仲恭といい、河東郡聞喜県の人である。先年司馬仲達の遼東征伐に加わり、その功を以て安邑侯という爵位を授かった。子上は難斗米と都市牛利に命じて、自分の馬の後ろを歩かせる。張政と梯儁もそこに付いた。仲恭は子上と轡を並べて城門に至り、そこで先を譲り合う。それは礼儀の型通りである。門をくぐって邑に入ると、歓迎の音楽が耳を驚かせる。司馬氏の次男が倭人を連れて還るという事は、ちゃんと宣伝しておいたものらしく、大通りには市民たちが見物に出ている。
仲恭は早速歓迎の宴席を張り、幽州の高官たちが顔を揃える。子上はここにも倭人たちを連れ出して、自分の功績として注目を誘う。すると芋蔓式に張政と梯儁も出席する事となる。二人とも、今までこんな高級な宴会に加わった事が無い。料理は割り合い高価な食材が多く、酒も良い物が用意されている。しかし料理の方法は庶民の食事と大した違いは無く、さほど上質に出来てもいない。ただその量だけが馬鹿に多く、出席した人数と比べて明らかに多過ぎる。わざと余らせておいて無駄にするのが、身分の貴さを証明する最高の贅沢なのである。裏では下役たちが棄てられる料理の御相伴に与ろうと待っている。外には匂いを嗅ぎつけた乞食も寄って来ているのだろう、と張政は思う。
十日ほどの休息の後、薊城を去り、范陽・河間・安平・鋸鹿・広平・邯鄲・鄴などといった各地の都市を経る。都市に入る度に、子上は歓待を受け、張政や難斗米たちも陪席を命じられる。子上は各地で必要以上に時間を費やして、一行をゆるゆると進ませた。いつしか足の蹠む所は、黒く締まった土ではなくなり、粉を詰めた様な黄色い地面に代わっている。
「長いこと歩いたが、ちっとも潮の気がしてこない」
と難斗米が言う。倭人たちは島育ちだから、海を背にして歩いてもすぐ反対側の海に着くという感覚を有っている。それは張政たち楽浪人にとっても余り違わない。楽浪地方から東に歩いても海に抵るまではさほど日数を要しない。
「この陸はどのくらい広いのだろうなあ」
「まだ今まで歩いてきたくらいは先がありそうではないか」
難斗米と都市牛利は車の上でそんな語を交わす。張政や梯儁も、書物の知識で知っていた事とはいえ、初めて我が身で覚えるその広さには、亦り不思議な感慨を持った。黄土はどこまでも尽きず、風が吹くと空が遙かに煙る。鄴を後にして河内郡に入る。
「ここまで来れば、中国に還ったという気がする」
と誰かが言った。確かにこの辺りは昔の殷国の故地であり、中国と云えばこの地域を指したものだ。そう思ってみれば、古い文明が土にまで沁み込んでいるかの感じもし、土地の人々もどことなく温雅に見える。辺境との格差を感じさせられる。河内郡では温県に宿を取る。ここは司馬氏の本貫であり、子上は格別の歓迎を受ける。一行はここでも、十数日という予定で長い休息を命じられる。洛陽までは乃く百里ほどのはずである。子上は庶民にも酒を振る舞い、張政や難斗米も土地の故老たちから慰問を受ける。
温県の宿で過ごす間、張政にはやっておかなければならない仕事が有った。外夷の首長が天子に通好を求める場合、上表文という物を用意しなければならない。これは受付方の役人が代筆するのが普通で、内容は型通りにしつつ詞を選び、申し添える事が有れば書き足す程度だから、別に苦労は無い。張政は襄平に居る間に下書きを作っておいた。しかし一つ埋まらない所が残る。上表をするには本名を称するのが礼儀であり、譬えばもし張政が自分の名に於いて出すならば、その冒頭には、
「臣政が申し上げる」
という風に書いて、字の子文や他の通称などを使ってはいけない。姫氏王ならば、
「倭の君長某が書を上る」
とでも書くはずだが、ここに問題が有った。実は誰も姫氏王の本名を知らないのである。
0
お気に入りに追加
0
あなたにおすすめの小説
ナポレオンの妊活・立会い出産・子育て
せりもも
歴史・時代
帝国の皇子に必要なのは、高貴なる青き血。40歳を過ぎた皇帝ナポレオンは、早急に子宮と結婚する必要があった。だがその前に、彼は、既婚者だった……。ローマ王(ナポレオン2世 ライヒシュタット公)の両親の結婚から、彼がウィーンへ幽閉されるまでを、史実に忠実に描きます。
カクヨムから、一部転載
西涼女侠伝
水城洋臣
歴史・時代
無敵の剣術を会得した男装の女剣士。立ち塞がるは三国志に名を刻む猛将馬超
舞台は三國志のハイライトとも言える時代、建安年間。曹操に敗れ関中を追われた馬超率いる反乱軍が涼州を襲う。正史に残る涼州動乱を、官位無き在野の侠客たちの視点で描く武侠譚。
役人の娘でありながら剣の道を選んだ男装の麗人・趙英。
家族の仇を追っている騎馬民族の少年・呼狐澹。
ふらりと現れた目的の分からぬ胡散臭い道士・緑風子。
荒野で出会った在野の流れ者たちの視点から描く、錦馬超の実態とは……。
主に正史を参考としていますが、随所で意図的に演義要素も残しており、また武侠小説としてのテイストも強く、一見重そうに見えて雰囲気は割とライトです。
三國志好きな人ならニヤニヤ出来る要素は散らしてますが、世界観説明のノリで注釈も多めなので、知らなくても楽しめるかと思います(多分)
涼州動乱と言えば馬超と王異ですが、ゲームやサブカル系でこの2人が好きな人はご注意。何せ基本正史ベースだもんで、2人とも現代人の感覚としちゃアレでして……。
鎌倉最後の日
もず りょう
歴史・時代
かつて源頼朝や北条政子・義時らが多くの血を流して築き上げた武家政権・鎌倉幕府。承久の乱や元寇など幾多の困難を乗り越えてきた幕府も、悪名高き執権北条高時の治政下で頽廃を極めていた。京では後醍醐天皇による倒幕計画が持ち上がり、世に動乱の兆しが見え始める中にあって、北条一門の武将金澤貞将は危機感を募らせていく。ふとしたきっかけで交流を深めることとなった御家人新田義貞らは、貞将にならば鎌倉の未来を託すことができると彼に「決断」を迫るが――。鎌倉幕府の最後を華々しく彩った若き名将の清冽な生きざまを活写する歴史小説、ここに開幕!
鬼を討つ〜徳川十六将・渡辺守綱記〜
八ケ代大輔
歴史・時代
徳川家康を天下に導いた十六人の家臣「徳川十六将」。そのうちの1人「槍の半蔵」と称され、服部半蔵と共に「両半蔵」と呼ばれた渡辺半蔵守綱の一代記。彼の祖先は酒天童子を倒した源頼光四天王の筆頭で鬼を斬ったとされる渡辺綱。徳川家康と同い歳の彼の人生は徳川家康と共に歩んだものでした。渡辺半蔵守綱の生涯を通して徳川家康が天下を取るまでの道のりを描く。表紙画像・すずき孔先生。
WEAK SELF.
若松だんご
歴史・時代
かつて、一人の年若い皇子がいた。
時の帝の第三子。
容姿に優れ、文武に秀でた才ある人物。
自由闊達で、何事にも縛られない性格。
誰からも慕われ、将来を嘱望されていた。
皇子の母方の祖父は天智天皇。皇子の父は天武天皇。
皇子の名を、「大津」という。
かつて祖父が造った都、淡海大津宮。祖父は孫皇子の資質に期待し、宮号を名として授けた。
壬申の乱後、帝位に就いた父親からは、その能力故に政の扶けとなることを命じられた。
父の皇后で、実の叔母からは、その人望を異母兄の皇位継承を阻む障害として疎んじられた。
皇子は願う。自分と周りの者の平穏を。
争いたくない。普通に暮らしたいだけなんだ。幸せになりたいだけなんだ。
幼い頃に母を亡くし、父と疎遠なまま育った皇子。長じてからは、姉とも引き離され、冷たい父の元で暮らした。
愛してほしかった。愛されたかった。愛したかった。
愛を求めて、周囲から期待される「皇子」を演じた青年。
だが、彼に流れる血は、彼を望まぬ未来へと押しやっていく。
ーー父についていくとはどういうことか、覚えておけ。
壬申の乱で散った叔父、大友皇子の残した言葉。その言葉が二十歳になった大津に重く、深く突き刺さる。
遠い昔、強く弱く生きた一人の青年の物語。
―――――――
weak self=弱い自分。
大陰史記〜出雲国譲りの真相〜
桜小径
歴史・時代
古事記、日本書紀、各国風土記などに遺された神話と魏志倭人伝などの中国史書の記述をもとに邪馬台国、古代出雲、古代倭(ヤマト)の国譲りを描く。予定。序章からお読みくださいませ
岩倉具視――その幽棲の日々
四谷軒
歴史・時代
【あらすじ】
幕末のある日、調子に乗り過ぎた岩倉具視は(主に公武合体とか和宮降嫁とか)、洛外へと追放される。
切歯扼腕するも、岩倉の家族は着々と岩倉村に住居を手に入れ、それを岩倉の幽居=「ねぐら」とする。
岩倉は宮中から追われたことを根に持ち……否、悶々とする日々を送り、気晴らしに謡曲を吟じる毎日であった。
ある日、岩倉の子どもたちが、岩倉に魚を供するため(岩倉の好物なので)、川へと釣りへ行く。
そこから――ある浪士との邂逅から、岩倉の幽棲――幽居暮らしが変わっていく。
【表紙画像】
「ぐったりにゃんこのホームページ」様より
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる