三国志外伝 張政と姫氏王

敲達咖哪

文字の大きさ
上 下
2 / 41
華夏の巻

帯方郡の張政

しおりを挟む
 張政チァン・センは、あざな子文ツェィムンといい、ハンの献帝の建安二十年(西紀215)、帯方タイピァン郡帯方県に生まれた。本籍は楽浪ラクラン郡に在るが、父のシァンが帯方郡の設置に伴って転勤し、帯方県に住んでいたのである。張家は代々、楽浪郡に仕える官員を出してきた。漢の武帝の時、楽浪郡が置かれてより已来このかた、高官というものは皇帝に任命されて、中国から遙々はるばるやって来るものであったが、下役は現地で華僑かワイ人を採用するのが常であった。こうして官人層となった濊人は、漢人と婚を通じ、中国流に衣幘いさくを着け、中原風の音を話し、文章を読み書きする技術を身に付けていった。尤も、混血が始まったのは、旧朝鮮テウシェン国時代からのことではあった。長く交わった為に、華僑と濊人の区別は曖昧になっている。強いて言うならば、公的には漢人、私的には濊人というのが、張政の様な楽浪官人の意識になっている。
 帯方郡は、人やガン人との交渉を管轄し、張敞もその任に当たっていた。連絡を取る必要から、東夷の種族にして帯方郡に住む者も多い。それで張政も、幼い頃からそうした人々の間に暮らして、年少にして通訳ができる程になった。若くして郡に登用され、外交に携わる役人となって、帯方と倭・韓の諸国とを往復する生活をしている。
 グィの景初二年(238)秋、司馬仲達シェィマ・ヂゥンダツ公孫淵クンスォン・ウェン襄平シャンビェン城に追い詰めた頃、朝廷は別に水軍を出して楽浪・帯方両郡を衝いた。皇帝が新たに楽浪太守に任命した鮮于嗣シェンフォー・ジェィと、帯方太守に指名された劉昕リウ・ヒンが、この船団を率いた。公孫氏の方では、陸から攻められるものとばかり考えて、戦力を全て遼東レウトゥン郡に集めていたので、楽・帯両郡は直ちに魏王朝の手に落ちた。ただ張政は、帯方城に劉昕の軍隊が入るのを、その目で観はしなかった。というのは、倭人の使節と会見する用が有って、南の大海に面した韓地の港市まで出向いていたからである。
 張政が帯方のまちに還ったのは、已に公孫淵が殺された後、八月も末の事であった。郡が魏王朝の支配に帰したという事は、人伝に聞き知っている。しかし帯方城はいつもと変わりなく見えた。今までは漢王朝の制度に則って赤色の旗を掲げていた所が、魏王朝に従って黄色のものに換えられていたのが、少しは目新しいくらいである。中国で革命があってから十八年、ようやくこの辺境にも時代の風が吹いたというわけだ。後で親しい先輩役人の梯儁テイ・ツュィンに聞くと、ここでは別に戦闘というものは無く、ただ高官数人が逃亡を図って殺されたということであった。
 梯儁は、字を高雄カウユンという。身分や経歴は張政と似ている。張政からは五歳の年上だが、仲が良くて同輩付き合いをしている。張政は父が楽浪郡に帰任したので帯方県に一人暮らし、梯儁も嫁が無くて気楽な身の上、この日も張政が旅から帰るのをすぐに見付けて、梯儁はひょいと張宅に上がり込んだ。
「やあ子文。ああ、君も一緒か」
 と言って梯儁は、もう一人の男に目を送った。張政は一人の倭人を連れていた。年格好は張政と同じくらいで、名を難斗米なとめといい、倭人の名家難王なおう氏の一族である。難斗米も目で答える。難斗米は、少年の頃に何年も帯方郡に滞在していた事もあり、張政とは旧知の間柄で、片言の漢語で会話する事も覚えている。ただ倭人の口には、張政チァン・センという音は言いにくいので、と訛る。子文シェィムン梯儁テイ・ツュィン高雄カウユン帯方タイピァン楽浪ラクランといった具合である。逆に張政や梯儁は、を中国風に難斗米ナン・トウメイとも呼んでいる。
 梯儁は、張政が留守中の出来事、新太守劉昕が入城した次第についてかいつまんで教えてくれる。そして、
「これからおれたちの身分がどうなるかだな」
 と、さして心配でもなさそうに言う。これについては、張政も特に心配はしていない。魏王朝からは高官が派遣されて来るだけのことで、下役になる人材の出所が別に有るわけでは無いから、どうせ自分たちがそのまま働く事になるに違いない。自分の様な下役には、誰が主君になっても大した違いは無い、新太守の顔を視る機会が有るかどうかさえ怪しいものだと思う。梯儁の思う所はまた別であった。
「まあわが郡も中国に通じたからには、洛陽ラクイャンに上る機会がないこともあるまいな」
 と梯儁は言う。洛陽と言えば、上古にシウタンが開いた成周ジェンシウの地であって、近代では光武帝の中興より二百年、漢王朝の京師みやこであった。そして今は魏王朝の帝都である。そのまちは漢末に奸臣董卓トゥン・タクによって焼き払われたとはいえ、その後曹操ザウ・ツァウによって再建の事業が興され、今上の代になってからは更に華美を益したと伝えられている。真新しく、きらびやかな大都会、まさしく文明の中心地、梯儁はそう想像している。
「すると哥々あにきは計吏にでもなるつもり?」
 と張政はからかう。計吏とは会計関係の役人で、上計吏になれば朝廷に報告をするのに公務として上京する機会が得られる。しかしそれには何かと要領が良くなければならず、好哥々いいあにきには難しそうだと張政は思う。
「なに、上計吏の荷物持ちくらいにはなってやるさ」
 と言って梯儁はかかと哄笑した。難斗米は静かに二人の会話を聞いている。
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

ナポレオンの妊活・立会い出産・子育て

せりもも
歴史・時代
帝国の皇子に必要なのは、高貴なる青き血。40歳を過ぎた皇帝ナポレオンは、早急に子宮と結婚する必要があった。だがその前に、彼は、既婚者だった……。ローマ王(ナポレオン2世 ライヒシュタット公)の両親の結婚から、彼がウィーンへ幽閉されるまでを、史実に忠実に描きます。 カクヨムから、一部転載

大江戸美人揃

沢藤南湘
歴史・時代
江戸三大美人の半生です。

西涼女侠伝

水城洋臣
歴史・時代
無敵の剣術を会得した男装の女剣士。立ち塞がるは三国志に名を刻む猛将馬超  舞台は三國志のハイライトとも言える時代、建安年間。曹操に敗れ関中を追われた馬超率いる反乱軍が涼州を襲う。正史に残る涼州動乱を、官位無き在野の侠客たちの視点で描く武侠譚。  役人の娘でありながら剣の道を選んだ男装の麗人・趙英。  家族の仇を追っている騎馬民族の少年・呼狐澹。  ふらりと現れた目的の分からぬ胡散臭い道士・緑風子。  荒野で出会った在野の流れ者たちの視点から描く、錦馬超の実態とは……。  主に正史を参考としていますが、随所で意図的に演義要素も残しており、また武侠小説としてのテイストも強く、一見重そうに見えて雰囲気は割とライトです。  三國志好きな人ならニヤニヤ出来る要素は散らしてますが、世界観説明のノリで注釈も多めなので、知らなくても楽しめるかと思います(多分)  涼州動乱と言えば馬超と王異ですが、ゲームやサブカル系でこの2人が好きな人はご注意。何せ基本正史ベースだもんで、2人とも現代人の感覚としちゃアレでして……。

鎌倉最後の日

もず りょう
歴史・時代
かつて源頼朝や北条政子・義時らが多くの血を流して築き上げた武家政権・鎌倉幕府。承久の乱や元寇など幾多の困難を乗り越えてきた幕府も、悪名高き執権北条高時の治政下で頽廃を極めていた。京では後醍醐天皇による倒幕計画が持ち上がり、世に動乱の兆しが見え始める中にあって、北条一門の武将金澤貞将は危機感を募らせていく。ふとしたきっかけで交流を深めることとなった御家人新田義貞らは、貞将にならば鎌倉の未来を託すことができると彼に「決断」を迫るが――。鎌倉幕府の最後を華々しく彩った若き名将の清冽な生きざまを活写する歴史小説、ここに開幕!

鬼を討つ〜徳川十六将・渡辺守綱記〜

八ケ代大輔
歴史・時代
徳川家康を天下に導いた十六人の家臣「徳川十六将」。そのうちの1人「槍の半蔵」と称され、服部半蔵と共に「両半蔵」と呼ばれた渡辺半蔵守綱の一代記。彼の祖先は酒天童子を倒した源頼光四天王の筆頭で鬼を斬ったとされる渡辺綱。徳川家康と同い歳の彼の人生は徳川家康と共に歩んだものでした。渡辺半蔵守綱の生涯を通して徳川家康が天下を取るまでの道のりを描く。表紙画像・すずき孔先生。

WEAK SELF.

若松だんご
歴史・時代
かつて、一人の年若い皇子がいた。 時の帝の第三子。 容姿に優れ、文武に秀でた才ある人物。 自由闊達で、何事にも縛られない性格。 誰からも慕われ、将来を嘱望されていた。 皇子の母方の祖父は天智天皇。皇子の父は天武天皇。 皇子の名を、「大津」という。 かつて祖父が造った都、淡海大津宮。祖父は孫皇子の資質に期待し、宮号を名として授けた。 壬申の乱後、帝位に就いた父親からは、その能力故に政の扶けとなることを命じられた。 父の皇后で、実の叔母からは、その人望を異母兄の皇位継承を阻む障害として疎んじられた。 皇子は願う。自分と周りの者の平穏を。 争いたくない。普通に暮らしたいだけなんだ。幸せになりたいだけなんだ。 幼い頃に母を亡くし、父と疎遠なまま育った皇子。長じてからは、姉とも引き離され、冷たい父の元で暮らした。 愛してほしかった。愛されたかった。愛したかった。 愛を求めて、周囲から期待される「皇子」を演じた青年。 だが、彼に流れる血は、彼を望まぬ未来へと押しやっていく。 ーー父についていくとはどういうことか、覚えておけ。 壬申の乱で散った叔父、大友皇子の残した言葉。その言葉が二十歳になった大津に重く、深く突き刺さる。 遠い昔、強く弱く生きた一人の青年の物語。 ――――――― weak self=弱い自分。

大陰史記〜出雲国譲りの真相〜

桜小径
歴史・時代
古事記、日本書紀、各国風土記などに遺された神話と魏志倭人伝などの中国史書の記述をもとに邪馬台国、古代出雲、古代倭(ヤマト)の国譲りを描く。予定。序章からお読みくださいませ

どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~

さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」 あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。 弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。 弟とは凄く仲が良いの! それはそれはものすごく‥‥‥ 「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」 そんな関係のあたしたち。 でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥ 「うそっ! お腹が出て来てる!?」 お姉ちゃんの秘密の悩みです。

処理中です...