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グレイストーン伯爵(1)

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「こんばんは。良い夜ですね、アイラ王女」

 石の壁が横にずれると同時にグレイストーン伯爵が目の前に現れると、アイラは「ぴゃっ!」というおかしな悲鳴を上げてルルにくっついた。

「ヘ、ヘクター……」

 後ろに撫で付けて整えられた灰色の髪、紳士らしく上品だが嫌味のない衣装、そして優しくも冷たくも見える瞳――。
 元々怖いと思っていたのに、薄暗い地下で見ると、この洗練された中年の伯爵はなお恐ろしかった。
 
「あなたは昔から私の事を怖がりますね」

 グレイストーン伯爵は落ち着いた低い声で言って、少し笑う。

「しかし随分外見が変わりましたね。髪も短くなって……。けれど相変わらず、精巧に作られた人形のようだ。今ひと目見て、すぐにアイラ王女だと分かりましたよ。元々アイリーデに現れたという噂は訊いていましたし、この街でも見かけた……ような気がしていましたしね」

 アイラは完全にひるんでいて、獅子と相対した子猫のように固まっている。

「その後もそこにいるあなたの奴隷らしき人物を見かけたりして、どこに潜伏しているのかと探していたのです。けれどまさかイディナが、あなたが王女だとは気づかぬまま連れて来るとは」
「あ、あいつはどこ行ったんだ?」

 イディナに対する腹立たしさが伯爵への恐怖に勝ち、アイラはやっと口を開いた。
 伯爵はアイラの声を聞くと、嬉しそうに目を細める。

「彼女は上にいますよ。全身濡れていましたが何かしたんですか?」
「何かしたのはあいつの方だ。お前、使用人にどういう教育をしてるんだ。大体、私を拉致して牢に入れるなんて!」

 腹立たしさが完全に勝利して、アイラは声を荒げる。伯爵は苦笑して弁解した。

「申し訳ない。彼女が勝手にやった事で……。さぁ、いつまでもそこにいないで、こちらに」

 伯爵が横にずれて、アイラたちを貯蔵庫の方に招いた。貯蔵庫の奥には地上に続いているらしい階段も見えるし、拷問部屋からは遠ざかった方がいいだろうと、アイラは前に進んだ。ルルも警戒しながらすぐ後に続く。
 そして二人が真っ暗な通路から出ると、石の壁が移動して元に戻った。

「これ、魔法なのか?」

 アイラは壁を押して言う。目の前の壁は、この地下貯蔵庫の他の壁と全く変わりなく、その奥に通路があって牢や拷問部屋に続いているとは想像ができない。

「ええ、この板を当てると開きます」

 伯爵は手に持っていたカードのような金属の板を見せてきた。色は銀色で、小さな魔法陣のような不思議な文様と文字が描かれている。

「私は魔力持ちですが、魔法の才能はあまりありません。まともに使える術はこれだけ」

 伯爵はそこで、先ほど動いた壁に手を触れた。

「けれどこの魔法は何年もかけて自分で開発したのです。似たような魔法はいくつかありましたから、それを参考にしました。鍵代わりのこの板は、何人かの使用人にも持たせています」
「この魔法は拷問部屋を隠すためにかけたんだな? 誰かがここを探っても、奥に何があるか気付かれないように」
「やはりあの部屋を見たのですね」

 穏やかに言うグレイストーン伯爵を、アイラは睨んだ。

「お前がそんなやつだとは思わなかったぞ」
「……言い訳はしませんが、とにかく上で話しましょう」

 伯爵にうながされて階上に上がると、明るい廊下に出たところで黒髪の青年が立っているのに気づいた。

「あ、お前イディナと一緒にいたやつだな」

 アイラは自分が彼の手刀で気絶させられたとは気づいていないので、彼の事はそれほど警戒していない。
 けれどルルは不信感たっぷりに青年を見つめつつ、その前を通り過ぎる。青年は街にいた時と違って、今は男性使用人の制服を着ている。

「彼はロン。優秀な使用人ですよ」
「ふぅん。まぁ私の世話をさせたらルルの方が優秀だと思うけど」

 変なところで張り合いながら、アイラは伯爵の後に続いて廊下を歩いた。ロンは一番後ろからついてくる。
 そして階段を登って城の三階に着くと、いくつもある部屋の中で、伯爵は特に立派な木の扉のついた部屋にアイラたちを案内した。どうやらここは迎賓室のようだ。

「どうぞ、座ってください」

 伯爵が言うか言わないかのうちに、アイラはもうソファーに座っていた。適度に固くて座り心地がいい。

「相変わらずで何よりです。家族を殺され、城から追い出されて、もしかしたら意気消沈しているかと思っていましたが」
「私の事はいい。それよりお前の事だ、ヘクター」

 アイラは腕と足を組んで言う。

「あの拷問部屋はどういう事だ」
「拷問部屋くらい、王城にもありませんでしたか? 前陛下たちが使っていたでしょう」
「父上たちはそんなもの使っていなかったぞ。鞭や棒はあったが、拷問器具なんてなかった」
「……まぁ、彼らは単純でしたからね。腹が立てば、相手を鞭打つか棒で叩くか、あるいは処刑するしか思いつかなかったのでしょう」
「何だかよく分からないけど馬鹿にしているな?」

 ムッと眉根を寄せるアイラ。伯爵は小さく笑いながら、部屋の隅に置いてあるワゴンを見る。するとロンがその視線に気づいて、ワゴンに置かれていた葡萄酒をグラスに注いだ。
 そしてそれをソファーに座っている伯爵とアイラの前に差し出す。

「どうぞ」
「うん」

 言われるがままグラスを手に取ろうとしたところで、ルルが後ろから注意してくる。

「アイラ、駄目ですよ。飲まないでください。セイジに睡眠薬を盛られた事もあったでしょう」
「そうか、そうだな」

 セイジに差し出されたものと違ってこの葡萄酒は美味しそうに見えたのだが、仕方がない。

「確かにヘクターが毒を盛ってるかもしれないもんな」

 アイラの言葉に伯爵は低く笑う。そんな事ないと否定はしてくれないのかとルルは思った。
 そしてルルは再びアイラに顔を近づけて言う。

「アイラ、伯爵にケビンたちの事を訊いてください」
「あ! そうだった!」

 ハッとすると、アイラは前のめりになって伯爵に詰め寄った。

「ヘクター! お前、ケビンたちを攫ったな。それで拷問して殺したんだろう! 子どもを苦しめるなんて、正直お前は父上たちと同じくらい最低な奴だ」
「ケビン?」
「そうだ、ケビンだ。あとコリーとデイジーだ」
「説明を」

 最後の言葉は、伯爵はルルの方を見て言った。

「ケビン、コリー、デイジーとは、我々が親しくなったこの街の子どもです。しかし昨日から行方不明になり、探していたのです」
「それで何故私を疑うのかね?」
「城の地下にあんな部屋を作ってる奴の事は、真っ先に疑うだろう」

 そう口を挟んだのはアイラだ。ルルも「伯爵様の城を探してみるといい」と言った元庭師の老人の事はわざわざ口にしなかった。言えば、その老人が伯爵から何らかの咎めを受けるかもしれないと危惧したからだ。

「子どもが三人、行方不明……」

 伯爵は何かを考えながら呟くと、ロンに向かって片手を差し出した。するとロンは、伯爵が何を求めているのか分かっているかのように静かにこちらに近づいて来て、伯爵の手に金色の腕輪を乗せる。
 
「何だ? それ」

 アイラは小首を傾げて言う。腕輪は幅広で、少し厚みがある。手を差し入れて腕に通すタイプではなく、接続部分を開いて腕につけるタイプのようだ。

「これに見覚えがありませんか?」
「ないと思うけど……」

 伯爵の言葉に、アイラはさらに深く首を傾げて金色の腕輪を見た。

「子どもが行方不明になった事とその腕輪が関係あるのか?」
「ええ。私の予想が正しければ。……右手をお借りてもよろしいですか?」

 伯爵にそう言われ、アイラは訳が分からないまま右手を差し出す。すると伯爵はアイラの白い手首にその腕輪をカチリとはめた。
 アイラは腕輪がついた自分の手を持ち上げ、よく観察する。やはり見覚えはないし、これとケビンたちがどう関係しているのか分からない。

「ケビンがこの腕輪をつけていたとか? いや、でもアクセサリーなんてつけていなかったよな」

 独り言のように呟いて、腕輪を外そうとする。

「これ、どうやって外すんだ?」

 この部分がパカッと開くはず……と思いつつ左手で腕輪をいじるが、固くて開かない。

「なぁ、ヘクター……」

 助けを求めて顔を上げると、伯爵は目を細めてアイラの行動を眺めていた。なんだか嫌なほほ笑みだ。

「アイラ」

 ルルが後ろから手を伸ばしてきて腕輪を外そうとするが、やはり外れなかった。
 伯爵は内ポケットから細い鍵を取り出して言う。

「それは鍵がないと外れませんよ。それからその腕輪の内側には、魔力封じの印(いん)が描かれています。つまりどういう事か分かりますか? それをつけている間は、あなたは魔法を使えないただの無力な少女だという事です」
「……何のつもりだ」

 アイラは伯爵を睨みつけながら、魔力を使って鍵を引き寄せようとしたが、鍵はぴくりとも動かなかった。いつもなら自分の魔力が対象物を捉えたような感覚もあるのに、今は何の手応えもない。
 
「この腕輪はケビンたちとは何も関係ないんだな?」
「そうですね」

 伯爵はほほ笑みを浮かべたまま言い、話を戻す。

「ケビン、コリー、デイジーという子どもたちの事は知りません。私は彼らを見た事もなければ、ここに連れて来た事もない」
「なら、あの地下にある牢や拷問部屋は何だ。お前が使っているんだろう」
「ええ、使っています。拷問は私の趣味ですから」

 伯爵はあっさりと認めた。
 自分で問い詰めておきながら、アイラはその答えに息をのむ。あの部屋は先代が残したもので自分は一切使っていないとか、そういう答えをどこかで期待していたのかもしれない。
 伯爵が誰かを痛めつけて喜ぶような人物だとは、アイラは思いたくなかったのだ。

「けれど、今まで幼い子どもを拷問した事はありません」

 伯爵は続ける。

「それは誓って言えます。何故なら、私にも好みの〝獲物〟がいるからです。人によって、美しく若い娘を痛めつけるのが好きな者もいれば、子どもを苦しめる事に興奮するという者も、人より動物をいたぶるのが好きという者もいるでしょう。人によって獲物の好みは違うのです」
「……なら、あまり聞きたくないけど、お前の好みって?」
「――悪人です」

 恐る恐る尋ねるアイラに、伯爵は率直に答えた。

「私は善人には興味がない」

 アイラやルルは、返す言葉もなく一瞬黙る。そして眉根を寄せて訊いた。
 
「悪人って、例えば?」
「そうですね、例えば殺人犯です。けれど人を殺しても、そこに情状酌量の余地があれば私の獲物にはなりません。実はかつて加害者が被害者に何かひどい事をされていたとか、被害者は病気で苦しんでいたから加害者は楽にさせる事を選んだとか……。けれどそういう理由もなく、ただ自分の快楽のために、または金を奪うためだけに何人も殺したり、罪もない者を残虐に殺したりすれば、獲物になり得ます」

 伯爵は淡々と続ける。

「過去には、私はそういう殺人鬼だけでなく、様々な人間を拷問してきました。子どもをひどく虐待していた愛情の欠片も持たない親や、少女を何人も襲った暴漢、詐欺まがいの商売で多くの人間を破滅に追いやり、自殺者を出した商人などです。それらの悪人は、牢屋に入れたり刑を執行した振りをして、密かにこの城に連れて来る事もありますし、犯罪者として捕まる事がなかった者ならば人目につかぬように攫ってくる事もあります」

 歪んでいるが、悪人を成敗してくれる伯爵は誰かにとっては正義になるのだろうか?
 それにロンを始めとする使用人たちが伯爵の趣味の事を知っていてもその秘密を口外しないのは、被害者が同情の余地のない悪人ばかりだからのかもしれない。
 伯爵は言う。

「けれどなかなか手を出せない獲物もいます。それは貴族たちです。もちろん誠実な貴族もいますが、領民を苦しめ、私腹を肥やし、傲慢で無能な貴族も多くいますからね」

 アイラはそこで自分の叔父でもあるアイリーデ公爵一家の事を思い浮かべた。おそらく伯爵の頭にも浮かんでいるだろう。
 領民から反乱を起こされて殺される可能性もあるのに、実は伯爵にまで狙われているなんて大変だなと思う。
 
 しかしアイラも他人事ではなかったようだ。
 グレイストーン伯爵はそこでアイラをじっと見て笑った。

「そして王族は、私の一番の獲物でした」
 
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