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奴隷解放(1)

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「ライアに何した?」

 よろめくセイジの胸ぐらを掴むと、ルルは冷たい瞳で彼を見下ろした。怒りからか目を見開いていて、三白眼どころか四白眼になっている。

「いや、あの……」

 腕っぷしに自信のないセイジは、とっさに言い訳を考えた。

「その子が急に気分が悪くなったって言うからさ、俺は介抱してたんだよ。これから医者のところに連れて行こうとしてたとこ!」
「嘘をつけ。後ろめたい事がないなら、何故そんなに焦っている」
「あ、焦ってないって、別にっ!」

 ルルはセイジをもう一発殴って地面に沈めると、逃げないように腹を足で踏む。そしてアイラを手招きした。

「ライア」
「ルル……私おかしいんだ。さっきは頭がぐるぐるしてて、今はぼーっとしてる。何かの病気になったみたいだ。もうすぐ死ぬに違いない。お前には世話になったな」

 アイラは半泣きで言って、ルルに力なく抱きついた。ルルはアイラを片手で支え、再び眉を吊り上げると、鬼のような顔をしてセイジを見下ろす。
 そして踏んでいる足に徐々に力を込めながら、端的な言葉で尋問した。

「何した?」
「いや、俺は何も……ぐっ、ちょっ……待って」

 腹を踏まれているせいで口から内臓が出そうになりつつ、セイジはルルを見上げた。半逆光で顔の半分に影が落ちていて恐ろしい。彼に逆らったら死ぬと思った。
 
「た、ただの睡眠薬だよ! そいつは一口しか飲まなかったから中途半端に効いてるだけ! 死にはしないって!」
「睡眠薬? そういえば眠いような気もする」

 体の不調の原因が分かって、アイラは少し元気を取り戻した。死ぬような病気などではないと分かって安心したのだ。
 けれどルルはまだ怒っている。

「睡眠薬を飲ませて何をするつもりだったんだ?」

 ここで正直に自分の目的を言ったら殺されるかもしれない。でも下手に嘘を言っても殺される、とセイジは思った。
 どっちにしても殺される。しかも嘘を言う方がじわじわと苦しめられて殺されそうだ。
 セイジは観念して説明する。

「抵抗しないようにそいつを眠らせて、奴隷商館に運んで売ろうとしたんだよ。綺麗な顔してるし、絶対高く買い取ってもらえると思ったから」
「クズめ」

 ルルは吐き捨てるように言うと、セイジの顔を蹴った。

「奴隷商館?」

 聞き返したのはアイラだ。セイジはよろよろと立ち上がって言う。

「もう少し行ったところに白い大きな建物がある。ちゃんと『奴隷商館』って看板も出てて、堂々と営業してる。奴隷を売り買いするのは悪い事じゃないからな」

 言い訳するように話すと、すぐにルルがこう返した。

「奴隷を売る事も買う事も違法じゃない。だが、奴隷ではない人間を無理やり攫ってきて奴隷にするのは違法だし、お前のした事はれっきとした犯罪だ」
「悪い事したって反省してるよ。でも俺には養わないといけない弟たちがいてさ、金が必要だから仕方なく――」

 と、話している途中でセイジが急に走り出した。慌ててここから去って行く。

「……? 話の途中でどこ行ったんだ、あいつ」
「逃げたんですよ」

 のんびり言うアイラにルルが答えた。そしてこう続ける。

「捕まえてしかるべきところに突き出したいですが、そうすると私たちも騎士に話を聞かれるでしょうからやりたくありません。放っておきましょう。彼はまた同じような事をやりそうですけど、もうアイラには手を出さないでしょうし」

 疲れたように髪をかき上げてから、ルルはアイラに言った。

「大丈夫ですか、アイラ?」
「うん。眠くてちょっとふらふらするけど」
「今日は食事を外で食べるのはやめて、もう宿に戻りましょう」

 アイラの目尻に残った涙を指で拭き取ってから、ルルはアイラの手を引いて歩き出す。
 そして大通りへと戻ってきたところで、宿とは反対の方向を見て、十メートルほど先に建っている四角い建物を指差して言った。

「あれがあの男の言っていた奴隷商館のようですね。看板もあります」
「そこそこ大きいな。儲かってるみたいだ」
「けれど何か……様子がおかしいですね。揉めているみたいです」

 騎士たちが入り口に立って、商館の主人らしき中年の男と何やら話しているのだ。
 騎士たちは手に紙を持っていて、それを主人に見せているが、主人の方は怒っている様子で声を荒げていた。

「そんな事、急に言われても困る! 商売はどうしろってんだ!」
「ですが決まった事なので、我々に言われてもどうしようもありません」

 商館の周囲には野次馬たちも集まってきている。

「何があったんだろう。あの騎士たちはヘクターのところの騎士みたいだが……」

 アイラはそう言いながら、グレイストーン伯爵を警戒してきょろきょろと辺りを見回した。
 一方、ルルは商館の方から歩いてきた通行人の男を呼び止めて尋ねる。

「あそこの奴隷商館、何があったんですか?」
「それが、騎士様が言うには奴隷制度が廃止される事になったらしいよ」

 男の言葉に、アイラもルルも驚いて目を丸くした。

「奴隷制度が廃止?」
「なんでも聖女様がそう決めて、それに同意したアーサー陛下がおふれを出したようだよ。騎士様が持っているあの紙がそうさ」
「そうなんですか、ありがとう」

 通行人が去ってから、アイラとルルは顔を見合わせる。
 やがてルルが口を開いた。

「まぁ、サチは最初から奴隷制度なんて野蛮だと訴えていましたし、その意見は多くの者たちから支持されていましたからね。アーサー陛下も聖女としての地位を確立したサチの言葉を無視する事はできなかったのでしょうし、奴隷制度の廃止は悪い事ではないと考えたのでしょう」
「という事は、この国から奴隷がいなくなるのか。何だか不思議な感じだな。今、それぞれの主人の元で働いている奴隷たちはどうなるんだろう?」

 アイラはこの街に来た時に、マフィンを食べるアイラを羨ましそうに見てきた少年の事を思い出しながら言う。

「奴隷という立場に嫌気が差していた者は、主人の元から離れるでしょうね。奴隷制度が廃止されれば、去って行く奴隷を主人が無理に引き止める事はできません。でもひどい扱いを受けていなかった者は、そのまま主人の元に残るかもしれません。いきなり自立しようとしても仕事が見つからない可能性がありますし、少なくとも主人の元にいれば寝る場所と食事は確保できますから」
「今の状態ではまだ、元奴隷を正当な賃金を払って雇ってくれる者がどれくらいいるかも分からないしな」
 
 これから世間がどう変わっていくのかがまだ分からないのだ。
 それに奴隷制度がなくなっても、彼らの首の後ろには簡単には消せない奴隷の印(しるし)が残る。だから「あいつは奴隷だ」という差別はなくなっても、「あいつは奴隷だった」という差別はきっと残るだろう。
 制度がなくなったからと言って、すぐにみんな平等とはならないはずだ。

「でも、とりあえず一番大変なのは奴隷商人か」
「そのようですね」

 アイラとルルは、騎士たちに食ってかかっている商館の主を見て言う。

「人の仕事を奪いやがって! お優しい聖女様は奴隷を解放して満足かもしれねぇが、これから俺たちはどうやって生活していけってんだよ」

 しかしその言葉に、野次馬の一部が声を上げる。

「聖女様を悪く言うな! 決まった事にごちゃごちゃと文句を言うんじゃねぇ!」
「元々、奴隷商人なんて最低な仕事だ! さっさと辞めちまえ!」

 正義感の強い人の中には、サチと同じように奴隷制度をよく思っていない者もいたのだろう。今、そういう人たちが往生際の悪い奴隷商人に向かって文句を言い始めた。
 
「奴隷を自由にしろ!」
「彼らを解放しろ!」

 そして行き過ぎた人は、奴隷商館に向かって石を投げ始める。

「おい、やめろ! この野郎!」

 窓が割れて、辺りに商館の主の怒声が響く。
 そしてアイラが「大変だなぁ」と他人事のように呟いたその時――黒塗りの馬車が大通りを進んできて、商館の前でゆっくり停まった。その馬車には伯爵家の紋章が刻まれている。
 アイラは「ヘクターだ!」と小声で叫んで身を縮めた。

「やはり騒ぎになっていたか」

 御者が馬車の扉を開けると、中からは灰色の髪の紳士――この地方を治める領主であるグレイストーン伯爵が降りてきた。
 
「伯爵様!」

 騎士たちも奴隷商館の主人も野次馬たちも、伯爵の登場によって興奮を収め、口を慎んだ。
 伯爵は商館の主人に歩み寄って、名前を確認する。
 
「確かベッグマンだったか?」
「はい、伯爵様。ご無沙汰しております」
「騎士たちが知らせた通り、奴隷制度は廃止される事になった。これは国王の決定だ。猶予期間を経て、それ以降、奴隷は一般市民と同じ身分となり、人身売買も禁止される。この商売も違法になる」
「ですが、伯爵様……。ならば私はどうすれば」
「新しい仕事を探すしかない」
「けれど私はこの仕事しかしてこなかったのです。今さら他の仕事など……」

 不満そうに言うベッグマンに、伯爵は穏やかな口調で説得を続ける。

「それでも新しい道を探さねば。この先、奴隷制度の廃止が撤回される事はないだろうし、この仕事にしがみついていてもどうにもならない。大変だろうが、自分のためにも早く切り替えた方がいい。私もいくつか仕事を紹介できるし、相談にも乗ろう」

 そう言って肩に優しく手を置かれると、ベックマンはうなだれつつも諦めたようだった。

「奴隷は今、何人いる? 中に入って確認してもいいか?」
「……はい、どうぞ」

 ベッグマンの先導によって、伯爵と騎士たちが中に入っていく。その様子を見守った後、アイラたちは再び宿に向かって歩き出した。

「セイジにあの商館に連れて行かれていたら、今頃ヘクターと鉢合わせしていたな。危ない危ない」

 アイラは身震いしたが、ふとある事に気づいて「あ!」と声を上げる。

「どうしました?」
「いや……」

 アイラは横目でそっとルルを見た。
 奴隷制度が廃止されるという事は、ルルももう奴隷ではなくなるという事だ。自由になったら自分の元から去ってしまう可能性もある。
 
「そうなったら困る……。ルルがいなくなったら誰が私の服を用意して、髪を整えて、靴を履かせるんだ。私は外にも出られなくなるのか」
「何をブツブツ言っているんです?」

 ルルはこれからどうするつもりなのだろうと思ったアイラは、聞くのが怖かったが、このまま悶々とし続けるよりはと率直に尋ねた。

「ルルは私の奴隷じゃなくなったら、私の元から去るのか? 自由になったらどうするつもりなんだ?」

 意を決して訊いたのだが、ルルはその質問に対して一瞬きょとんとした後、笑ってこう返す。

「そんな事を気にしていたんですか? 私はずっとアイラの側にいますよ。一人じゃアイラは生活していけないでしょう」
「うん、そうなんだ。一人じゃ無理だ」
「私があなたの奴隷でなくなっても、あなたのルルである事には変わりません。だから奴隷制度が廃止されても、私たちの関係に何も変化はありませんよ」
「そうか、よかった!」

 問題が速攻で解決して、アイラはホッとしながら明るく笑ったのだった。
 
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