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「奴らを逃した!?」
黎明の烏を地下牢から解放した後、アイラはルルと一緒に上階に行き、すでに寝巻き姿だったアイリーデ公爵と夫人、そして息子のトロージを集め、事の次第を話した。
「恩赦だからな」
「オンシャが何だか知らないが、お前は一体何を考えているのだ! 勝手な事ことをしてもらっては困る! あいつらは犯罪者だぞ!」
顔を真っ赤にして怒鳴り散らす公爵に、アイラは一冊の本を差し出した。タイトルは『賢王サンダーパトロス』だ。
「これ返す。私はもう全部読んだから、叔父上も読むといい」
「今、こんな本はどうでもいいッ!」
テーブルの上に置いた本を手で跳ねのけると、公爵はアイラをしばらく怒鳴り続けた。
けれどアイラは我慢強くないので、黙っていられた時間は二十秒だった。
「うるさい。そんなに近くで怒鳴られると耳が悪くなるだろ。それにイライラして反撃したくなってくる」
アイラが睨むと、公爵は魔法を恐れてやっと口をつぐむ。
椅子に座って足を組んだままアイラは続ける。
「もう一度言うが、叔父上もこの本をよく読むべきだ。サンダーパトロスは王としてはおかしな行動も取るけれど、私たちにない感覚を持っている。それは私がこれまで教えられてきたこととは正反対のことだったりするから、サンダーパトロスが間違っていると思うこともある。でも彼は民衆から愛されていたらしい。――私たちと違って」
アイラは公爵が落とした本を魔力で浮かせ、テーブルに戻した。
「だからサンダーパトロスの真似をすれば、叔父上たちも領民から好かれるようになるかもしれない」
「なぜ私が領民の機嫌を取らなければなければならん。領民に好かれようが嫌われようがどうでもいいことだ」
「叔父上がどうでもいいと思うならそれでいいけれど、今のまま嫌われ続ければ近い内に殺されると思う。また黎明の烏がやってくるかもしれないし、魔力を持たない普通の領民が集団で反乱を起こすかもしれない。だけどそうなっても、今度は私は叔父上たちを助けない。もう馬は無事に出産したしな」
アイラがそう言うと、公爵はぐっと唇を噛んで黙った。
「叔父上、私はちょっとだけ叔父上たちの味方なんだ。血の繋がった親戚だからな。だからこうして忠告している。サンダーパトロスのような、民から愛される人物になった方がいいと」
パラパラと本をめくりつつ、静かに続ける。
「叔父上たちは正直無能だから、領地経営のことも必死になって学んだ方がいい。自分は無能だという自覚を持って、サンダーパトロスのように識者の意見を聞き入れるんだ。自分の意見に反対されたからと言って、すぐに怒って罰してはいけない。無能なら無能なりに学ばないと」
「人のことを無能無能と偉そうに……! 無能なのはアイラも同じだろう!」
「いや、私には魔力があるから」
公爵が怒るが、アイラはあっさりそう言った。魔法が使える以外は何もできないと言っているも同じなのだが、アイラはそれには気づいていない。
「叔父上、あなたはもう王弟ではないし、もっと危機感を持った方がいい。私は王女でなくなっても魔力があるが、叔父上が身分を失ったら何も残らない。叔父上は進む道を間違えれば、領民に反乱を起こされ、もう強者ではなくなるのだ。今、この土地の民たちはみんな叔父上たちに不満を持っている。状況はエストラーダ革命が起きる前の王都と似ている。黎明の烏は、サチ――異世界からやって来た聖女のようなもので、領民にとっては救世主。みんな黎明の烏の味方だ。叔父上たちの味方は一人もいない」
アイラはそこで立ち上がった。
「殺されたくなければ、必死になって良い領主になるんだな」
そしてルルと一緒に部屋を出ていこうとするアイラに、公爵は青くなって追いすがる。
「待て! 待ってくれ、アイラ! そんな薄情なことを言うな。黎明の烏どもがまた来たら……それに本当に領民たちが反乱軍を組織して襲ってきたら、我々はどうすればいいのだ。この屋敷に滞在して私たちを守ってくれ」
しかしアイラは笑ってこう返し、公爵家から去ったのだった。
「反乱が怖いなら、いっそ公爵や領主という地位を自分から捨てればいい。誰か他の有能な者に領地を任せるんだ。身分をなくしても、それはそれで結構楽しいぞ」
それから一週間して、アイラはルルと共にまた『太った山猫』に来て食事をしていた。
アイリーデ公爵は多少心を入れ替えたのか、それともただ反乱に怯えているだけかは分からないが、最近は領民や使用人に暴力を振るうこともなく大人しいようだ。真面目に領地を治め、発展させようとしている動きもある。
そして以前は我が物顔で街を闊歩していた公爵家の騎士たちも、公爵に釘を差されたのか、態度が随分控えめになった。
「街の雰囲気は少し明るくなったよ。黎明の烏に影響を受けて、自分たちもいざとなれば戦うんだと決意した者も多いからな。覚悟が決まると、道が開けたように思えるんだ。今まではこの街に未来はないんじゃないかと感じていたが」
店の主人がそう言って笑ったところで、厨房の奥から一人の男が顔を出した。
それはこの店で匿われていた黎明の烏のリーダーであるハウルだったが、この一週間で元気になった彼が誰なのか、アイラは最初気づかなかった。
「新しい店員か?」
「全く人の顔を覚えてないんだな」
自分のことを黎明の烏だと苦笑しながら説明し、ハウルは言う。
「一週間匿ってもらって、かなり体力も回復したよ。仲間も元気だ。――改めて感謝します、王女殿下」
そこでかしこまって頭を下げると、隣りにいた店主が「王女殿下?」と首を傾げた。
そしてルルの『弟はちょっと可哀想な子で、自分は王子だと信じ込んでいる』という嘘を信じている様子で、「彼は王子なんだぞ」と突っ込んだ。
「なんだかややこしいことに……」
ルルは料理を食べながら呟いたが、店主に教えた情報を訂正することはしない。
「それで、あなた方はこれからどうされるんです?」
ハウルは丁寧な口調でアイラに尋ね、こう続ける。
「俺たちは公爵の動向も監視しなければなりませんし、彼らのこれからの行動によっては、また戦うことを選びますが、命の恩人でもあるあなたの力にもなりたいと思っています。仲間もみんな同じ気持ちです」
「力になるって? 私はお前たちの力を必要とはしていない」
「けれど城に戻りたいと思われているのでは? 地位を取り戻すために、何か俺たちにできることがあれば協力しますよ」
「城に戻りたいなんて思っていないし、王座に興味もない。今の自由な生活が気に入ってるから」
アイラがそう言うと、ハウルは少し戸惑ったようだった。そしてこう続ける。
「では、王都の騎士たちからお守りします。今も彼らは行方不明の王女を探しているのですから」
「それも必要ない。追っ手に見つかったとしても私一人で追い返せる」
「それに味方の人数が増えると人目につきやすくもなりますから」
アイラの後にルルもそう言葉を挟んだ。
そして店の店主は、「行方不明の王女……?」とそこでやっとアイラの正体に疑問を持ち始める。
「でもそれじゃあ、俺たちはどうやって恩を返せばいいんです?」
「恩なんて返さなくていい。庶民が王族に物を恵むか? 王族が庶民に施しを与えることはあっても逆はないだろ? それと同じだ。私はお前たちから何も受け取らない」
独自の理論を展開するアイラに、ハウルは困った顔をした。
一方、店主の様子を観察していたルルは、アイラの皿に残っていた最後の一口を彼女に急いで食べさせると、食事代を置いて席を立つ。
そして「もう出ましょう」とアイラの腕を引いて店を出た。
「ごちそうさまでした」
「じゃあまたな」
ルルとアイラが順番に言って扉をくぐると、ハウルは「あ、ちょっと……!」と言って二人を追いかけようとした。
しかしそこで店主に肩を掴まれて、驚いた顔でこう叫ばれる。
「あ、あの子が行方不明の王女って、本当かっ……!?」
店の外にまでその声は聞こえていたので、ルルはアイラと一緒に急いで店から離れた。店の客たちも「行方不明の王女」という言葉に反応してざわめいている。
「もうあの店には行けませんね」
「別に行けるだろう。店主はきっと私のことを王都の騎士に売ったりしない」
「それはそうかもしれませんが、アイラが店に行けば話題になって人が集まってきますよ。そして行方不明の王女が『太った山猫』に来るという噂は、いずれ追っ手の耳に入ります」
ルルはアイラの手を掴んだまま早足で歩きつつ、街を出た。そして山道を登りながら続ける。
「この街にはもっと長くいるつもりでしたが、もう移動した方が良さそうですね」
「いいけど、どこへ行くんだ?」
「とりあえず近くの町をいくつか越えて、次の大きな街――グレイストーンでまたしばらく滞在しましょう。田舎だとどうしても人目につきますからね、人口の多い街を目指した方がいいでしょう」
「でもあの山小屋にある荷物を全部持てるのか? ルルはそんなに力持ちじゃないだろ」
「なんで私が全部荷物を持つ前提なんですか。馬もいますし、それにアイラも少しは持ってくださいよ」
ルルはそう突っ込んでから続ける。
「でも荷物は必要最低限の物しか持っていきません。金品と服、そして数日分の食料と毛布を一つ。あとはその時々で必要になったら調達します。馬も出産したばかりですし、あまりたくさん荷物を積んだら可哀想ですしね」
「そうだな。子馬の世話もしなければならないし。……でもグレイストーンか」
「何か気になることが?」
浮かない顔をしているアイラに、ルルが尋ねる。
「いや、グレイストーンには行ったことがないし、よく知らないんだが、領主がちょっとな」
「ヘクター・グレイストーン伯爵ですか」
アイラもルルも、頭の中に灰色の瞳の紳士の姿を思い浮かべた。
歳は五十近くで、中年だが外見も所作も洗練された、大人の魅力溢れる上品な男だ。アイリーデ公爵とは違って領民にも好かれている。
だがアイラは、グレイストーン伯爵と対峙するよりアイリーデ公爵と話す方がずっと気が楽だった。
「私、ヘクターは苦手なんだ」
誰に対しても偉そうにするアイラが、珍しく弱々しい。
ルルも頷く。
「アイラがそう思う気持ちは分かります。私も彼の前では気が抜けない。前に、私は『アイリーデ公爵は色々な意味でアイラの敵にならない』と言いましたが、それは彼が小物だからです。そしてグレイストーン伯爵はアイリーデ公爵とは真逆の人物だ」
「うん。ヘクターは良いやつだし、別に今まで嫌なことをされた経験もないんだが、一緒にいると何だかそわそわするんだよな。逃げ出したくなるって言うか」
アイラは年相応の少女らしい表情をして、不安そうに呟いたのだった。
黎明の烏を地下牢から解放した後、アイラはルルと一緒に上階に行き、すでに寝巻き姿だったアイリーデ公爵と夫人、そして息子のトロージを集め、事の次第を話した。
「恩赦だからな」
「オンシャが何だか知らないが、お前は一体何を考えているのだ! 勝手な事ことをしてもらっては困る! あいつらは犯罪者だぞ!」
顔を真っ赤にして怒鳴り散らす公爵に、アイラは一冊の本を差し出した。タイトルは『賢王サンダーパトロス』だ。
「これ返す。私はもう全部読んだから、叔父上も読むといい」
「今、こんな本はどうでもいいッ!」
テーブルの上に置いた本を手で跳ねのけると、公爵はアイラをしばらく怒鳴り続けた。
けれどアイラは我慢強くないので、黙っていられた時間は二十秒だった。
「うるさい。そんなに近くで怒鳴られると耳が悪くなるだろ。それにイライラして反撃したくなってくる」
アイラが睨むと、公爵は魔法を恐れてやっと口をつぐむ。
椅子に座って足を組んだままアイラは続ける。
「もう一度言うが、叔父上もこの本をよく読むべきだ。サンダーパトロスは王としてはおかしな行動も取るけれど、私たちにない感覚を持っている。それは私がこれまで教えられてきたこととは正反対のことだったりするから、サンダーパトロスが間違っていると思うこともある。でも彼は民衆から愛されていたらしい。――私たちと違って」
アイラは公爵が落とした本を魔力で浮かせ、テーブルに戻した。
「だからサンダーパトロスの真似をすれば、叔父上たちも領民から好かれるようになるかもしれない」
「なぜ私が領民の機嫌を取らなければなければならん。領民に好かれようが嫌われようがどうでもいいことだ」
「叔父上がどうでもいいと思うならそれでいいけれど、今のまま嫌われ続ければ近い内に殺されると思う。また黎明の烏がやってくるかもしれないし、魔力を持たない普通の領民が集団で反乱を起こすかもしれない。だけどそうなっても、今度は私は叔父上たちを助けない。もう馬は無事に出産したしな」
アイラがそう言うと、公爵はぐっと唇を噛んで黙った。
「叔父上、私はちょっとだけ叔父上たちの味方なんだ。血の繋がった親戚だからな。だからこうして忠告している。サンダーパトロスのような、民から愛される人物になった方がいいと」
パラパラと本をめくりつつ、静かに続ける。
「叔父上たちは正直無能だから、領地経営のことも必死になって学んだ方がいい。自分は無能だという自覚を持って、サンダーパトロスのように識者の意見を聞き入れるんだ。自分の意見に反対されたからと言って、すぐに怒って罰してはいけない。無能なら無能なりに学ばないと」
「人のことを無能無能と偉そうに……! 無能なのはアイラも同じだろう!」
「いや、私には魔力があるから」
公爵が怒るが、アイラはあっさりそう言った。魔法が使える以外は何もできないと言っているも同じなのだが、アイラはそれには気づいていない。
「叔父上、あなたはもう王弟ではないし、もっと危機感を持った方がいい。私は王女でなくなっても魔力があるが、叔父上が身分を失ったら何も残らない。叔父上は進む道を間違えれば、領民に反乱を起こされ、もう強者ではなくなるのだ。今、この土地の民たちはみんな叔父上たちに不満を持っている。状況はエストラーダ革命が起きる前の王都と似ている。黎明の烏は、サチ――異世界からやって来た聖女のようなもので、領民にとっては救世主。みんな黎明の烏の味方だ。叔父上たちの味方は一人もいない」
アイラはそこで立ち上がった。
「殺されたくなければ、必死になって良い領主になるんだな」
そしてルルと一緒に部屋を出ていこうとするアイラに、公爵は青くなって追いすがる。
「待て! 待ってくれ、アイラ! そんな薄情なことを言うな。黎明の烏どもがまた来たら……それに本当に領民たちが反乱軍を組織して襲ってきたら、我々はどうすればいいのだ。この屋敷に滞在して私たちを守ってくれ」
しかしアイラは笑ってこう返し、公爵家から去ったのだった。
「反乱が怖いなら、いっそ公爵や領主という地位を自分から捨てればいい。誰か他の有能な者に領地を任せるんだ。身分をなくしても、それはそれで結構楽しいぞ」
それから一週間して、アイラはルルと共にまた『太った山猫』に来て食事をしていた。
アイリーデ公爵は多少心を入れ替えたのか、それともただ反乱に怯えているだけかは分からないが、最近は領民や使用人に暴力を振るうこともなく大人しいようだ。真面目に領地を治め、発展させようとしている動きもある。
そして以前は我が物顔で街を闊歩していた公爵家の騎士たちも、公爵に釘を差されたのか、態度が随分控えめになった。
「街の雰囲気は少し明るくなったよ。黎明の烏に影響を受けて、自分たちもいざとなれば戦うんだと決意した者も多いからな。覚悟が決まると、道が開けたように思えるんだ。今まではこの街に未来はないんじゃないかと感じていたが」
店の主人がそう言って笑ったところで、厨房の奥から一人の男が顔を出した。
それはこの店で匿われていた黎明の烏のリーダーであるハウルだったが、この一週間で元気になった彼が誰なのか、アイラは最初気づかなかった。
「新しい店員か?」
「全く人の顔を覚えてないんだな」
自分のことを黎明の烏だと苦笑しながら説明し、ハウルは言う。
「一週間匿ってもらって、かなり体力も回復したよ。仲間も元気だ。――改めて感謝します、王女殿下」
そこでかしこまって頭を下げると、隣りにいた店主が「王女殿下?」と首を傾げた。
そしてルルの『弟はちょっと可哀想な子で、自分は王子だと信じ込んでいる』という嘘を信じている様子で、「彼は王子なんだぞ」と突っ込んだ。
「なんだかややこしいことに……」
ルルは料理を食べながら呟いたが、店主に教えた情報を訂正することはしない。
「それで、あなた方はこれからどうされるんです?」
ハウルは丁寧な口調でアイラに尋ね、こう続ける。
「俺たちは公爵の動向も監視しなければなりませんし、彼らのこれからの行動によっては、また戦うことを選びますが、命の恩人でもあるあなたの力にもなりたいと思っています。仲間もみんな同じ気持ちです」
「力になるって? 私はお前たちの力を必要とはしていない」
「けれど城に戻りたいと思われているのでは? 地位を取り戻すために、何か俺たちにできることがあれば協力しますよ」
「城に戻りたいなんて思っていないし、王座に興味もない。今の自由な生活が気に入ってるから」
アイラがそう言うと、ハウルは少し戸惑ったようだった。そしてこう続ける。
「では、王都の騎士たちからお守りします。今も彼らは行方不明の王女を探しているのですから」
「それも必要ない。追っ手に見つかったとしても私一人で追い返せる」
「それに味方の人数が増えると人目につきやすくもなりますから」
アイラの後にルルもそう言葉を挟んだ。
そして店の店主は、「行方不明の王女……?」とそこでやっとアイラの正体に疑問を持ち始める。
「でもそれじゃあ、俺たちはどうやって恩を返せばいいんです?」
「恩なんて返さなくていい。庶民が王族に物を恵むか? 王族が庶民に施しを与えることはあっても逆はないだろ? それと同じだ。私はお前たちから何も受け取らない」
独自の理論を展開するアイラに、ハウルは困った顔をした。
一方、店主の様子を観察していたルルは、アイラの皿に残っていた最後の一口を彼女に急いで食べさせると、食事代を置いて席を立つ。
そして「もう出ましょう」とアイラの腕を引いて店を出た。
「ごちそうさまでした」
「じゃあまたな」
ルルとアイラが順番に言って扉をくぐると、ハウルは「あ、ちょっと……!」と言って二人を追いかけようとした。
しかしそこで店主に肩を掴まれて、驚いた顔でこう叫ばれる。
「あ、あの子が行方不明の王女って、本当かっ……!?」
店の外にまでその声は聞こえていたので、ルルはアイラと一緒に急いで店から離れた。店の客たちも「行方不明の王女」という言葉に反応してざわめいている。
「もうあの店には行けませんね」
「別に行けるだろう。店主はきっと私のことを王都の騎士に売ったりしない」
「それはそうかもしれませんが、アイラが店に行けば話題になって人が集まってきますよ。そして行方不明の王女が『太った山猫』に来るという噂は、いずれ追っ手の耳に入ります」
ルルはアイラの手を掴んだまま早足で歩きつつ、街を出た。そして山道を登りながら続ける。
「この街にはもっと長くいるつもりでしたが、もう移動した方が良さそうですね」
「いいけど、どこへ行くんだ?」
「とりあえず近くの町をいくつか越えて、次の大きな街――グレイストーンでまたしばらく滞在しましょう。田舎だとどうしても人目につきますからね、人口の多い街を目指した方がいいでしょう」
「でもあの山小屋にある荷物を全部持てるのか? ルルはそんなに力持ちじゃないだろ」
「なんで私が全部荷物を持つ前提なんですか。馬もいますし、それにアイラも少しは持ってくださいよ」
ルルはそう突っ込んでから続ける。
「でも荷物は必要最低限の物しか持っていきません。金品と服、そして数日分の食料と毛布を一つ。あとはその時々で必要になったら調達します。馬も出産したばかりですし、あまりたくさん荷物を積んだら可哀想ですしね」
「そうだな。子馬の世話もしなければならないし。……でもグレイストーンか」
「何か気になることが?」
浮かない顔をしているアイラに、ルルが尋ねる。
「いや、グレイストーンには行ったことがないし、よく知らないんだが、領主がちょっとな」
「ヘクター・グレイストーン伯爵ですか」
アイラもルルも、頭の中に灰色の瞳の紳士の姿を思い浮かべた。
歳は五十近くで、中年だが外見も所作も洗練された、大人の魅力溢れる上品な男だ。アイリーデ公爵とは違って領民にも好かれている。
だがアイラは、グレイストーン伯爵と対峙するよりアイリーデ公爵と話す方がずっと気が楽だった。
「私、ヘクターは苦手なんだ」
誰に対しても偉そうにするアイラが、珍しく弱々しい。
ルルも頷く。
「アイラがそう思う気持ちは分かります。私も彼の前では気が抜けない。前に、私は『アイリーデ公爵は色々な意味でアイラの敵にならない』と言いましたが、それは彼が小物だからです。そしてグレイストーン伯爵はアイリーデ公爵とは真逆の人物だ」
「うん。ヘクターは良いやつだし、別に今まで嫌なことをされた経験もないんだが、一緒にいると何だかそわそわするんだよな。逃げ出したくなるって言うか」
アイラは年相応の少女らしい表情をして、不安そうに呟いたのだった。
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