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 朝、エステルはふわふわした気持ちで目を覚ました。枕元で寝ていたナトナのふわふわしっぽが頬に当たってはいたけれど、幸せな気分で目覚めたのはそれだけが原因じゃない。

(レクス殿下と付き合う夢を見ちゃった)

 夢の中で手を繋いだことを思い出し、顔を赤らめる。と同時にこんな願望丸出しの夢を見てしまったことが恥ずかしくなった。
 実のところレクスをひと目見たその日から、夢に出てこない日はなかった。でも付き合っている夢を見たのは初めてだ。

「昨日優しくされたからって浮かれてるのね」

 エステルは上半身を起こすと、自分の頬を両手でパンと叩いた。その音に驚いてナトナもビクッと目を覚ます。

「ごめん、驚かせて。おはよう」

 ナトナを膝に乗せて撫でながら、夢で見た光景を思い返す。レクスと自分が並んで歩いている光景だ。

(当たり前だけど、私、全然レクス殿下に釣り合ってなかったわ)

 しょんぼりしながらそう考え、自分の中で今まで感じたことのない欲望がむくむくと湧き起こる。
 ――可愛くなりたい、という欲望だ。

(浮かれないようにしなきゃって思ってるのに!)

 自分の頭を掻き乱す代わりにナトナをわしわしと撫でる。おしゃれする暇があったら勉強すべきなのに、レクスに可愛く思われたいという願望が止められない。
 レクスが好きで、レクスに好かれたい――そう思うのは本能であり自然の摂理のようなもので、逆らうのは難しい。理性で抑えるのも限界がある。

「少しだけ、少しだけなら……!」

 エステルはベッドを出ると机の上の小物入れを漁った。ナトナはベッドの上でお腹を出して寝転がったまま、何をしているのかとこっちに顔を向けている。
 綺麗な髪飾りや化粧品は持っていないので、そもそもエステルが出来るおしゃれなんてほとんどないのだが、今あるもので何とか可愛くなりたかった。
 
「水色のリボンが一つ」

 しかし小物入れに入っていた使えそうなものはそれだけだ。ロメナは髪飾りも化粧品もたくさん持っているが貸してくれるはずはない。

「リボンで髪を縛ろうかな」

 リボンも細く、色は気に入っているが飾り気のない質素なものだ。でもこれしかないので仕方がない。

「えっと……」

 エステルがおしゃれをしようとすると義家族が馬鹿にしてくるので、久しく髪を結んだこともなかった。鏡も小さな手鏡しか買い与えられていないので時間はかかったが、最終的に上手くハーフアップにすることができた。
 耳が出て顔がすっきり見える。童顔なエステルでも多少大人っぽくなったし、賢そうにも見えた。

「いいかも。どう? ナトナ」

 エステルは椅子から立ち上がると、笑ってくるりと一回転した。ベッドから降りたナトナはおそらく髪型なんてどうでもいいのだろうが、エステルが楽しげにしているので、つられてしっぽをパタパタ振って喜んでいる。

「さて。問題は朝食の時ね。せっかく結んだけど、この髪型で学園に行けるかしら?」

 色々覚悟をして屋敷の食堂へ行くと、朝食を取るため集まってきた義家族にすぐに髪型が変わっていることを指摘された。
 義母のマリエナはエステルを嘲笑って言う。

「なぁに、それ。それでおしゃれしているつもりなの? 似合ってないわよ」

 マリエナは今日も長い黒髪を華やかに結っていた。使用人にやってもらっているのだろう、一人ではとてもできない髪型だし、宝石を使った髪飾りも豪華だった。
 確かに義母を見ていると、自分の髪型は地味で野暮ったく思えてくる。

「混血が何を色気づいてるのよ。そんな下品な髪の色じゃ何したって気持ち悪いんだから」

 ロメナはエステルを睨んで不愉快そうに言葉を吐いた。エステルの薄いピンクの髪色はかなり珍しいので、気持ちが悪いと昔から義家族に散々言われてきた。
 義父は今は黙っているが、ロメナと同じ気持ちでいることは眉をひそめた表情から分かる。

「いえ、勉強の時に髪が邪魔なので……」

 これ以上注目を浴びないように体を小さくし、下を向きながら、エステルはあらかじめ考えていた言い訳を返した。
 
「なら、男の子みたいに短く切ってあげましょうか?」
「それはやめなさい、体裁が悪い」

 ロメナが面白がって言うので一瞬緊張したが、さすがに義父が止めた。顧客からの好感度を上げるためにエステルを養子にしたくらいだから、世間の目は気になるのだろう。
 
「エステルには勉強に集中してもらわないといけないからな。まぁ髪を縛るくらいならいいだろう」

 義父からの許しが出たので、エステルはホッと胸を撫で下ろした。ナトナも透明になってやり取りを聞いていたらしく、姿は見えないが足にパタパタと柔らかいしっぽが当たる感触がした。ナトナも、エステルが酷い目に遭わなくて良かったと安心したのかもしれない。
 

 エステルはいつも早めに学園に行く。家では予習復習や自分の宿題、さらに義姉の宿題をやるので手一杯の時があるので、朝、授業が始まる前に図書室で本を読むのが楽しみだった。
 義姉の登校の支度の手伝いをさせられたり、使用人の仕事を押し付けられたりすることもあるので、毎朝早く行けるわけではなかったが。

 しかし今日は余裕を持って登校できたので、図書室で古代ドラクルス語の本の続きを読んでから教室に向かった。
 そしてその途中、玄関の近くでたまたまレクスの姿を見かけた。
 
(レクス殿下……!)

 視界に彼の姿を映すと、エステルの体温が上がり、脳内に花が咲き乱れる。ウサギだったら彼の声を聞き逃さないようピンと立てた耳をレクスの方へ向けていただろうし、犬だったらしっぽが揺れてしまっていたはずだ。

(そういえばナトナはまたいつの間にかいなくなったみたい)

 しっぽでナトナを思い出してふと足元を見てみるが、透明になったナトナの気配はしない。
 と、エステルがナトナを探してるうちにレクスもこちらに気づいて近づいてきた。

「エステル、おはよう」
「はいっ……!」

 声をかけられてびっくりしたエステルは、顔を勢いよく上げて金色の目を見開く。確かに昨日、『明日以降もたまに君に声をかけると思う』と言っていたが、さっそく実行してくれたようだ。

(私がいじめられないように……。お優しい……)

 感激して『好き』という気持ちが溢れ出しそうになる。自分が暴走するのが怖いのであまり優しくしないでほしい。でも冷たくされたらショックで死んでしまうかもしれない。いつから自分はこんな厄介な生き物になったのか。
 一方、エステルとレクスを見て周りにいる生徒たちは驚き、小声でこんなことを言い合っていた。

「あの子はどこのご令嬢? レクス殿下と親しいのかしら?」
「いや、あの子ってほら、混血の子だよ。弁論大会の時にスピーチしてた。あの桃色の髪、他にいないだろ?」
「混血の? でもどうして殿下が混血に話しかけてるの?」

 みんな戸惑いをあらわにしているし、レクスと登校してきていた彼の友人たち四人もびっくりした顔をしている。四人は小柄なボブヘアの女子、冷たい印象の美人、明るい雰囲気の褐色黒髪の青年と金髪ピアスの美青年といういつもの顔ぶれだ。
 エステルがレクスの後ろにいた友人たちを見つめていると、その視線を自分に戻そうとするかのようにレクスが名前を呼ぶ。

「エステル」
「はいっ……!」

 いちいちビクッとしながら返事をしてしまう。怯えているわけではなく、レクスに名前を呼ばれるのに慣れていないので毎回過剰に反応してしまうのだ。
 
「髪型を変えたんだね」

 レクスが和やかな調子で質問すると、何がおかしいのか、彼の友人四人はみんな同じようにぽかんとした顔をレクスに向けた。
 
「似合ってる」

 そこでレクスが目を細めて優しくほほ笑んだので、エステルの心臓は一度爆発した。

(死……)

 エステルの脳裏に天から差し込む光と天使が浮かんだ。息も絶え絶えに胸を抑えていると、レクスの友人たちが今度は目を見開いてぎょっとしているのが見えた。後ろにいても声音からレクスがほほ笑んでいるのが分かったのだろう、信じられないという顔でレクスを凝視しているのだ。
 でもレクスはいつもこんなふうに優しいのにどうしてそんなに驚くのか、とエステルは思ったが、すぐに気づいた。

(ご友人たちは、混血の私なんかに殿下が優しく接しておられることに驚いてらっしゃるのよね)

 こんな自分を貴族の子女たちの目に映し続けるのが申し訳なくなって、エステルはレクスに「ありがとうございます」と照れて返事をした後、足早に教室に向かったのだった。

 教室に着き、ドアを開けるとまずポートと目が合った。食堂でエステルがレクスに話しかけられて以降、ポートは話しかけてこなくなったが、今日はエステルの髪型が変わっているのに気づいて喋りかけてきた。

「あれ? 髪型が変わってる。可愛いね。大人っぽくなったしそっちの方がいいよ」
「ありがとう」

 異性に可愛いと言われたのに、エステルの心は驚くほど凪いでいた。キュンともドキッとも、心臓は何の音も立てない。レクスの「似合ってる」の一言とほほ笑みの方がずっと破壊力があった。

(好きな人って心臓に悪いのね)

 そんな学びを得ながら席に座る。エステルの反応が悪かったからか、ポートももう話しかけてこなかった。
 
 そしてその日の授業では、エステルは『番』というものを教わった。番という言葉自体は聞いたことがあったが、運命の人のことをそういうふうに言うのだろう程度の認識で、誰かに詳しく聞いたことはない。

「番のことは教えなくてもみんな知っているわね。特に女の子は詳しいでしょう」

 教壇に立つ女性教師は笑ってそう言った。エステルには友達がいなかったが、ロメナが幼い頃に番に憧れていた様子は見てきている。自分のことを大事にしてくれて、全部を受け入れてくれるような存在には確かにエステルも憧れる。けれど現実が厳しいのでそんな夢を見ている余裕はなかった。

「番とは運命の人のこと。人間には番はいないようだから、これは竜人だけが持つ本能ね。だけど全ての竜人に番がいるわけではなく、むしろ番がいるのは珍しいこと。だからもしあなたたちが番に出会えたら、それはとても幸運なことよ」

 エステルはそれを他人事として聞いていた。混血の、しかも竜人の血なんて八分の一しか入っていない自分に番なんているはずがないからだ。

「先生! 番が現れたら、本能ですぐに番だって分かるんですか?」

 一人の女子生徒が興味津々に尋ねる。教師は教科書を置いて答えた。

「うーん、そうねぇ……。先生も番に出会ったことがないから分からないけど、ひと目見た瞬間から相手に恋い焦がれてしまうらしいわ。相手が愛おしくて大切で仕方がなくなって、そばを離れるのも辛いとか」

 教師の言うその感覚はエステルには身に覚えがあった。強烈な恋の感覚。

(レクス殿下が私の番だったら……)

 一瞬そう考えてしまった自分の頬を、何を分不相応なことを考えているんだと叩きたくなった。厚かましいにもほどがある。
 エステルが自分を恥じている間にも教師は続ける。

「番っていうのは、竜人が強い子孫を残すための本能だと言われているの。強い子供を産める、相性のいい相手に強く惹かれるのよ。つまり番というのは竜人が繁栄するための仕組みね」

 一応理にかなった本能なのだと知って、エステルは「レクスが自分の番だったら」と考えてしまったことが尚更恥ずかしくなる。

(私がレクス殿下の子を産んでも混血の弱い子しか生まれないし、番なんて本当に有り得ない話だわ)

 エステルは自分には全く関係のないこととして、番という言葉を頭の片隅に封印することにしたのだった。
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