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第六章

6-1 嵐の先にある、小さな木洩れ日

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 挫けても、それでも人は生きていかねばならない。死者にも人権や尊厳があるのだ。

 それは誰しもが平等にあるものだ。

 だから、決して踏み間違えてはならない。

 向日葵が二人を養子縁組することを決意して、椿の入院当日に荷物運びに加えて手続きをする為に椿の家へ向かった。

 インターホンを鳴らすと、椿が相変わらず煙草を吸いながら玄関の扉を開ける。すると、玄関先から裸足で飛び出した子供が向日葵の足にしがみ付いた。涙と鼻水で顔がぐしゃぐしゃで、何が起こったのか把握出来ないでいると、勢い良く藍が顔を上げた。



「ごめんなさい、ひまちゃん、僕が我儘言ったから、お願い行かないで。」



 しゃくり上げて泣き叫ぶ藍が、椿の手を振り払って向日葵に飛び込んで来たのだ。



「やっぱり!ママの言うこと聞けない子は私の子じゃない!」



 癇癪を起こして椿は地団駄を踏んだ。椿が先に二人へ何か直接的な言い方をしたのかもしれない。状況を整理したいのに、突然の出来事にたじろいでしまう。すると、凛が向日葵の手を握って言うのだ。



「――ママなんてもう要らない。ひまちゃんが、ママがいい。」



 それは、強い意志だった。凛は藍と二人が愛用しているリュックを上下に抱っこして、椿を決別した。



――子供は案外大人が思うより、分かっているのを、私が良く知っていたのに。



 両親が再婚した際も、苗字を変わることで席順も体裁も変わることを向日葵は嫌と言う程理解していたのだ。小学一年生として新しい小学校に入学する前に再婚してしまえば、慣れない環境の最中に不穏分子は取り除けるのだから。

 大人の身勝手な考えは時として子供をひどく孤独にさせ、伸ばした手すら見えない深淵にまで突き落とすことがある。小さく丸く縮こまり膝を抱えて、差し込む微かな光にすら気付かず俯いた顔を上げず生きる子供もいるのだ。

 家族という柵に縛られて決められたレールに沿って生きてきた向日葵は痛い程二人の気持ちが胸を打ち抜いた。選ぶ権利を持った一人の人間が、意思表示している。向日葵は親になる為に腹を痛めて産んだ訳でも、守る為に自身を犠牲にして愛情を注ぐ立場にいなかった。人は、もしかしたら親になる資格は無いと後ろ指を差すかもしれない。

 それでも、向日葵は凛と藍を心から愛している。



――この子達の成長を、私は見届けたい。



 向日葵は二人を抱き締めて、椿に涙ながら伝えた。生まれて初めて、強い意志を持って椿へ対等に立とうとしたのだ。



「二人を養子縁組、したいの。お願いします、二人を私の……家族にさせて。」



 椿は二人の手が完全に離れて、向日葵の腕の中にいることを悟った。



「そう……。もう、好きにしなさい。そもそも、私は病気で入院が必要で、高度医療制度使ったり、経済的に厳しいの。わかる?私はアンタ達を扶養する余力がないのよ。」



「お姉、ちゃん……?」



「私は暫く病院に缶詰なんだから。必要な書類があるならアンタが来なさいよ。私は一歩も動かないから。」



 向日葵はそれから、養子縁組の手続きに家庭裁判所に何度か足を運んだり、緊急連絡先の変更や住所変更など多くの手続きに追われることになった。直ぐに裁判所から受理されないので、向日葵は二人に説明をした。子供でも、大人が考えていることは不思議と分かるものだ。



「本当に良いの?私がママになっても。」



「ひまちゃん、ママになってほしい。」



「オムライス食べたいー!くまさんの!」



「うん、うん……夜はオムライスにしよっか。」



 向日葵は言葉が詰まりながらも、二人をより力強く抱き締めた。この二人を一生守っていこうと、心に誓った。どんな障害があろうとも、決して乗り越えられない壁はないのだから。







 河津桜が満開になる頃、養子縁組の手続きが漸く終点に向かっている兆しが見えた。紫紅の美しい花弁を散歩中に見掛けると、春がやって来たと感じる。長い道のりに、終止符を打ち、新たに門出の再出発を祝うかのように。

何度か家庭裁判所に出向き、必要な書類を提出したり、椿や姪達の聴取等終えて疲労困憊ながらも必死に仕事と育児を切り盛りしていた。

 向日葵は家庭裁判所から受理を報せる手紙が届いて、市役所に戸籍謄本の申請など慌ただしく書類の記入に追われた。二人が通園する保育園にも、保護者欄の変更や、事情の説明をすると担当のクラスの保育士や園長からも胸を撫で下ろした様子を見受けられた。きっと、ネグレクトを強く疑っていたからだ。実の母親が育児を放棄して妹に送迎や行事の参加、連絡ノートの代筆を担っていたのも要因である。

 保育園から理由を尋ねられたが、長期療養が必要であるからと簡素的に事情を説明した。確かに椿は向日葵の人生を食い潰して来たが、彼女はこれから病気と向き合うのである。向けられた悪意に、悪意を返してはならない。同じ土俵に立つことは愚行であるからだ。

 椿の化学療法がスタートすると、みるみるうちに窶れて行った。時折見舞いに一人で出向くと、最初は嫌な顔をされたが最近は心細いのか入院中にあった出来事をぽつぽつと話すようになった。本当は何の柵なく姉妹でゆっくり話す時間が本来であるならば必要だったのかもしれない。それでも、受けた傷痕は直ぐには完治しない。膿でぐじゅぐじゅと悪化した心の傷が治るにはまだ、時間が足りないのだ

 化学療法とは、抗がん剤を使った治療法のことで精神的にも肉体的にも辛いことがある。なぜならば、副作用で吐き気や脱毛、特に手足の痺れなどが症状として現れることがあるからである。椿も、手が痺れて大変なんだ、と言った。



「……あの子達、元気にしている?」



「―――元気だよ。四月から凛は年長さんになるから、入園式の後にあるお迎え会の準備張り切っているよ。藍は最近お気に入りの熊さん人形を毎日抱っこして散歩しているかな。」



「……そう。」



 面会に来るのは向日葵ただ一人だけだった。椿が友人には伝えたくない、同情なんてされたくないからと頑なに連絡することを拒否したからだ。

 静まりかえった病室で、微かに開いた窓から心地良い微風が向日葵の頬を撫でる。桃色の花弁が一枚風に乗ってやって来て、春が訪れたことを肌で感じ取った。

 それは、穏やかな時間だった。

 季節が四月を迎える前、清彦が突然小さなアクセサリーボックスを向日葵の仕事終わりに手渡した。蓋を開けると橙色の石が台座に乗ってピアスになっており、清彦は照れ臭そうに鼻頭を触る。



「―――綺麗。」



「つけてあげる。」



 向日葵の耳に髪をかけて、開けたまま着飾ることを忘れ三年放置したピアス穴のある柔らかい耳朶にピアスを通す。キャッチで留めると、控え目に煌めく色白の向日葵の肌に馴染んだピアスはとても填った。

 向日葵の誕生石には、サードニクスと言い、日本名では紅縞瑪瑙と呼ばれており、真夏の太陽を彷彿させるような橙色の中に縞模様が入る天然石だ。対人関係を良くしたり、健康運を高めたり、絆を深める力があると言われている。向日葵の健康や人間関係の改善を、清彦は願っているのだろう。もしかしたら、勧められるがままに購入したのかもしれないが、何れにしても向日葵への気持ちは強いことを含意しているのだろうか。



「――ひまに似合うと思って。やっぱり、向日葵みたいで綺麗だ。」



「ありがとう、大切にするね。」



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