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第四章

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 体調不良で仕事を早退する程、体が悲鳴を上げていたのを無視して、誤魔化して過ごしていた向日葵に異変が突如襲ったのは、つい二日前の出来事だった。向日葵は仕事の採点中に過労で倒れてしまったのだ。幸いにも頭を強く打たず、隣で作業していた職員に支えられ経過を観た際に上司から勧告を受けたのである。事情は把握しているが、仕事に支障を来たすのならば、身の振り方を検討しなさい、と。
 向日葵はその日は早退したが、頭の中では職場で迷惑を掛けたこと、残した仕事、そして姪達の笑顔がぐちゃぐちゃと掻き乱れた。
 そうして、椿へ向日葵はとうとう名乗り出たのである。これ以上の加担は難しい、と。

「ごめんなさい、もう無理です。これ以上は加担出来ません。身内でも、踏み込んではならないことはボーダーがある。」

「姪っ子達が可愛くないわけ?!」

「そうじゃ、なくて。」

「じゃあ何よ、実習行きながら面倒なんて見れないじゃない!」

 向日葵は一度過労で倒れても、決して迎えや送りを控えることはなかった。
いや、出来なかった。
 きっと、姉にとっては使い勝手の良い駒なのだろう。それが虚しくて、そして悲しかった。
 子供が足枷なの、なんであの子達がいることで私が不幸にならなきゃならないのよと何度も聞いた時は流石に違うでしょう、と反論したら手元にあったティッシュ箱を投げられて。その角が眉間に当たった。
 痛みに一瞬、顔を歪めたが窮屈に刻まれたスケジュールと頻繁に二人の世話を日夜関係無く置き去りのように頼むので、向日葵の限界は既にピークをとっくに通り過ぎていた。職場で理解は得られているものの、結局のところ扶養している子供ではない、と見做されるので時短勤務や融通を利かすにも許容範囲があるのだ。殆ど世話を担っているのに、扶養外であり戸籍上でも娘息子にあたらないので、それは当たり前だが制度は利用出来ない。

「お姉ちゃんの子供なのに、どうして。」

「こんなことになるなら、産まなきゃ良かった。」

 その、言葉が向日葵の心を蝕んだ。真っ黒い闇が広がって、じわじわと胸痛を引き起こしていく。

「ちがう、そんな、なんで。」

 産まれてくる子供が決して誰しもが祝福されるわけではない。虐待をしたり、認知されない子供や大人の勝手で施設に預ける親も一定人数存在する。向日葵は彼らの誕生を鮮明に覚えていて、普段人の死に触れる傍ら何処かに置き去りにしていたのだ。命の尊さや、小さな手が向日葵の小指を握り締めたことを。その、無条件に愛されるべき生き物を。

「あー……、くらくらする。今日は子供たち、置いて行くわ。」

 眉間を摘まんで青白い顔をする椿に、向日葵は力無く大丈夫か問うた。実習に事前学習、時々学校に赴いて授業を受けて定期的に訪れる試験を受けるハードな生活を送る椿は確実に疲弊していっていた。普段から向日葵同様に顔色が悪く、チークで誤魔化しているが良く見ると瘦せこけた気がする。殆ど毎日顔を合わせているからか、微妙な変化を察することは困難であるが、それでも、体重は格段に減ったと思えた。元々体重を気にする人間が、極度のダイエットをしたようにも思えないからだ。

「なによ、仮にも看護師を目指す私に素人が、指摘でもしたいわけ?」

「貧血?最近、ひどい…気がするから、受診は、しないの?」

「はあ?貧血なんて起こしているし、大したことじゃないことは一番私が知っているわよ!おせっかいなのよ、いつも、いつもいつも!」

 向日葵を椿が突き飛ばして、その反動で尻もちをついた。椿は冷たい視線を向けて、じゃあ子供達のお迎えよろしくねと言い残して玄関の扉をばたんと大きな音を立てて閉めた。





 講義が終わると外線で総合病院から電話が入っていると受付から話された。
 アルバイト先のスーパーでレジ打ち最中に倒れて救急搬送されたことを、電話越しで総合病院の看護師から告げられたのだ。
 慌てて荷物を鞄に詰め込んで、専門学校から飛び出した。時刻は昼過ぎで、動揺しつつも学校前に通りかかったタクシーで病院へ向かった。心臓がばくばくと鼓動して落ち着かない。詳細は病院で、と話すのは道中事故に遭わないように、配慮なのだろう。
 状況を把握しに病院の受付で駆け込むと、直ぐに五階にある病棟のナースステーションへ案内された。エレベーターを押す指が震える。向日葵は母が体調不良を悪化させて肺炎を起こして、風のように亡くなった時の胸騒ぎがした。姉すらも失うのか、と悪い方向に考えが先行して不安に押し殺されそうで、向日葵はエレベーターが五階に着いても一歩も動けずにいた。
 ナースステーションから病室へ通り掛かった看護師がその様子に気が付いて、向日葵をそっと案内してくれた。辛うじて名前や、病院から連絡があったことを伝えると、看護師が窓際の席に座って待っていてくれと誘導した。顔色が真っ青だったのか
、多くの席がある中で背もたれがしっかりとした椅子に座るよう指示される。

「御家族の方ですか?」

 担当医の白髪混じりの男が声を掛けてきた。はい、東椿の妹ですと答えると無機質な白い壁のカンファレンス室と書かれた部屋に通された。
 貧血を疑って検査を実施したところ、数値がとても悪く婦人病の可能性があった為精密検査をこれからするのだと医師から淡々と説明があった。

「子宮頸がんの細胞診検査では判定がHSILとお姉さんの椿さんは診断されました。これから精密検査をする方向性です。失礼ですが、御両親は?」

 子宮頸癌とは、ヒト・パピローマ・ウイルス(human papilloma virus:HPV)が主な原因である。性交渉の経験がある女性は多くが一度は感染したと言われているウイルスだが、ハイリスク株に持続感染した場合、十数年以上かけて癌になりやすいのだ。
 椿の場合は直ちにコルスコピー(子宮頸部を拡大してみるカメラのこと)を使っての狙い細胞診を実施したらしい。

「あ…両親は既に他界しておりま、して…身内は私と姪達だけで…。」

「はあ、そうですか。これから入院したりと手続きが多いので御家族のサポートが必要不可欠ですので。」

「はい……緊急連絡先は、私で、大丈夫です。ええと、入院は今日からでしょうか?保険証や着替えなどの荷物の準備、あと、姪達のお迎えをしなければならないので…。」

「今日は一時帰宅で大丈夫です。後日早めに日程を調整して再度検査入院ですね。」

「わ、かりまし、た…。」

 検査入院と言う名目だが、きっと手術も控えていることは医者の空気から向日葵は察した。これからどうなるのだろうか、椿の病状は回復するのか、若年層の癌は進行が早いので治療方法は何を選択すべきなのか。また、姪達の生活は?と頭の中は文字の羅列と見えない未来に紙をぐしゃぐしゃに握られるような、途方に暮れた気持ちに向日葵は陥った。

「…お姉さんは自覚症状はありましたか?」

「最近貧血がひどいから受診勧めたものの拒否されまして…。」

「そうですか、確かに、ヘモグロビンの数値は正直言ってかなり良くないです。」

 問診の段階で不正出血もあったらしく、貧血、また腫瘍マーカー採血にて数値が高かったことで精密検査を実施したと説明があった。
 HSIL(高度病変)と診断され、椿は若い年齢の為癌化していた場合は進行が早く、進行度の診断をする為にMRI検査等の画像診断もこれからするそうだ。
 場合によっては化学療法や放射線治療、そして手術を行う必要性があるので、家族のサポートが必要不可欠だと担当医から淡々とICを受けた。
 面会が許されたので、看護師と一緒に入院の説明を受ける。病室では俯いたまま椿は話を聞いていた。

「今日は帰れるみたいね。子供達迎えに行かないと。あーあ、なんで、私ばっかり…。」

「先に家に帰って少し休みなよ。私が行くから…。それに、先生から話があった通り検査入院の予定も立てないとだし…。」

「は、何よ、子供なんて要らないって言った罰が当たったわけ?」

「そんなこと……。」

「アンタに何がわかるのよ。」

「東さん、落ち着いて。御家族はお二人しかいらっしゃらないのだから、支え合わないと。」

 口論に発展する前に、看護師が強い口調で二人を諭した。向日葵は少し頭に血が上ってしまいすみませんと謝罪したが、椿はこう吐き捨てた。

「キーパーソンにアンタを選ばなきゃならないのも御免だけど、元夫よりはマシだからよ。」

 キーパーソンとは、近親者や配偶者など関係が深く、意思決定や療養方針、または問題解決の要となる人物を指すことである。
 例えば、入院で足りない物を頼んだり、退院調整をする際にゴールが自宅に帰宅であった場合、その生活環境に備わったADLの向上をどのようにしていくべきかなど密接に関わる。多くの場合は夫や妻、両親または兄弟、高齢者である場合は子供がキーパーソンに当たるのだ。

「……お姉ちゃん、分かってるから。すみません、看護師さん。先に私会計しておくね。」

 もう涙しながら会計を済ませた。受付のスタッフが大丈夫ですか、と心配そうに尋ねて来たが向日葵は小さく頷くことしか出来なかった。大丈夫ではない、大丈夫なはずがないのだ。
多くの人々が忙しく行き交う中で、消毒液の香りがやけに向日葵を纏わりついた。嗅ぎ慣れた、アルコール臭なのに何故か、向日葵が何度も捨てることを諦めた、両親からの言葉の呪縛に雁字搦めになっていることを示唆された気がした。

―――お姉ちゃんと支え合って生きなさいなんて、無理よ、歩み寄ることすら難しいもの。

 向日葵は足元がふらつき、霞んだ視界に何度も何度も瞬きをしてどうにか、まとめた椿の荷物を持った。

「早くしなさいよ、鈍臭いわね。」

 鈍器で頭を殴られた様なひどい頭痛と、吐き気が向日葵を襲った。人手なし、と非難したいくらいの椿の非道な発言に怒りすら湧いたのだ。

「子供なんてやっぱり産まなきゃ良かった。」

 治療費がこれから幾らかかるだの、看護学校は休学する手続きが必要だの、と子どものことは二の次であった。

「その、凛と藍はどうするの…?」

「私のことで頭いっぱいなのに、子供のことなんて、知らないわよ。あーあ、私のキャリアプランに傷付いたわ。」

「でも…っ。」

「そんなんだったら、アンタが面倒見れば良いじゃない。私の人生で一番大切なのは子供達じゃない、私自身が大切なの。それに…大体引き取りたくなかったのよ。」

 椿は思い付いたかのように、簡単にそう口にした。子供の手を離すことはそんなにも簡単に思い浮かぶことなのだろうか。向日葵は、声を震わせて椿に叱咤する。

「なんで、そんな無責任なこと言えるのよ!」

「煩い煩いっ、治るか分からないのに先のことや他人のことを考える余裕なんてないわよ!」

「な…っ他人、だなんて…っ。」

「じゃあ、養子縁組?でもなんでもしなさいよ。あげるわよ、アンタに。子供好きなんでしょ?あ、そんなことしたら男の邪魔になるか。要らないなら、施設に入れるわよ。育てられないもん。」

 養子縁組。向日葵が何度も頭を掠めた制度である。だが、養子縁組を申請し受理されるまでの道のりは険しいのが現状だ。実際に、保険金詐欺を目論む人間がいたことから審査は厳格化したのである。

「待って、待ってよ…養子縁組?あの子達の気持ちも、何も考えないでそんな大切なこと決められるわけ…っ。」

「子供でいる間はね、大人が勝手に人生も何もかも決めることが出来る。苗字も、親も、捻じ曲げられるんだから、私たちが良ければそれで良いのよ。」

 子供には結果監督する大人がその人生の手綱を握っている節がある。子供はまだ幼く意思決定があやふやであるからだ。子供の意思を捻じ曲げる大きな力を、大人は持っている。

「……それでも、彼等にも意思がある。」

 言葉に詰まってしまうと、椿は向日葵に向けて口角をにやりと上げて笑った。

「ほぉら、大事大事言う割には、そんなもんじゃない。覚悟すらないくせに、説教するんじゃないわよ。引き取るって言うんなら、話はしてやっても良いわよ。」

 病院の自動ドアが開いて、じゃあお迎え宜しくと言ってさっさと椿は病院に横付けされたタクシーで帰ってしまった。

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