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第四章

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「もうこんな時間か……。」

 向日葵は急いで丈夫でノートパソコンが入る革の大きなハンドバッグを担いでタイムカードを切っ た。慌てて自動ドアを潜り抜けて足早に目的地へ向かった。
 保育園の迎えは血縁者であっても迎えに行く時間はかなり厳守されている。信頼関係で成立しているからだ。向日葵はいつも通り、仕事のスケジュールを厳密に調整しているので遅れることは殆ど無かった。
 こんにちは、と園児たちが砂場で遊んでいる中、保育園の門前で保育士に声を掛けた。向日葵の姿を視認して、挨拶を交わすと普段とは様子が異なる。向日葵の顔をまじまじと見て、保育士は言いづらそうに口をもごつかせている。

「その、園長から一応聞くように言われまして……最近お迎えはお母さんでは無い方が多いですけれど……。」

「姉は今実習で忙しくて、帰宅がどうしても間に合わないので私が代わりに……。」

「御家族の協力は確かに大切です。けれど、その。」

「はい?」

「連絡ノートや持ち物整理など、身辺は妹さんが基本的にされてらっしゃるのでしょう?」

「えっ?」

 連絡ノートを書くのはもう向日葵の役目になっていた。二人分の連絡ノートを向日葵が代筆していたのはきっと筆跡で判明したのかもしれない。
 椿は連絡ノートを書くのをぱったりとやめたのは、椿よりも普段世話をしている向日葵の方が保育園での出来事や身の回りのことで二人の話に耳を傾ける時間が圧倒的に異なっていたからだ。佳境ともいえる、椿の病院実習は想像を超えた過酷さであり、より余裕を無くした椿が徹夜を何度もするほど事前学習やレポートに追われていた。
 毎日病棟で看護師の指導者に叱責され、行動計画を発表する度に根拠は?何故それを計画立てたの?と質問責めをされ、疲労困憊で帰宅する姿を向日葵は知っていた。下手したら、実習期間は椿の家ではなく、向日葵の家に姪達を泊めるくらい多忙な日々を送っていたのである。
 看護学校に通学する際、必ずと言って良い程働きながらの学生には教員が全面的にサポートしてくれる人間が身近にいなければならないと面接時に目を光らせて言うのである。実習期間は誰の世話も、仕事も出来ない程、勉強に追われるからだ。それは、実習生であろうとも患者の命を預かる一人の人間としての責務が課されるためである。

「凛ちゃんと藍くんが言っていましたので…。」

 意外だった。凛と藍が身の回りの世話をしているのは向日葵だと認識していたこと驚いてしまい、思わず開いた唇に指で触れてしまう。

「……あー、まあ、今だけですので、きっと……。」

 しかし、ここ数日向日葵の家に浸る椿の食事や起床時間の管理すら強制的に降りかかった向日葵もまた睡眠不足であった。遅刻をしたら評価が下がるので、絶対に決まった時間に寝起きの悪い椿をたたき起こさなければならなかったし、何より姪達を保育園に送ることもセットだった。

「あの、申し上げて良いか分かりませんが、ネグレクトの可能性は……。」

「……無いと、思います。姉に限って、だから私がこうして…いえ、心配をお掛けしました。」

 ネグレクト、とは所謂育児放棄の一種だ。子供に対して無関心であり、身の回りの世話をせず放置したり、無視をしたり子供に時間を割かず関心を持たないことも含まれる。
 椿は離婚前後は特に、精神的に追い詰められていたのか向日葵にひどく当たり散らした。物を投げられたこともあるし、何より暴力がエスカレートしていた。年子で生まれた姪達の子育てに追われ、疲弊していく中でこんなことになるならと呟いていたことも実際にあった。
 だから、この様な精神状態なら子供達を一時的に預かると提案したのである。子供にその矛先が向けられたらと考えたらゾッとしたのだ。
 それ故に、清彦との関係も次第にストレスや余裕の無さにより投げ出してしまった要因の一つでもあった。
 保育園でマークされている状況は芳しくない為、向日葵は直ぐに椿に連絡を入れた。椿は学校の傍ら昼間は時短でスーパーでアルバイトをしているので、退勤時刻には見るだろう、と。
向日葵は椿から看護学校のスケジュールを緻密には把握出来ていなかったので、区切りの良い段階を知っていれば具体的に送迎の有無などの目安を保育園側に伝えられると思った。そうすれば、この誤解も解けると、この時までは向日葵はそう考えていた。
 二人を引き取り、両手に繋いで歩いていたら清彦が自転車から降りて来た。現場が早く終わったので、迎えの時間にかち合えば、と薄い望みに頼ったらしい。夜間学校がある際は自転車で通学していると言う。

「ひま、おかえり。何処か寄るのか?」

 向日葵は二人の食事を作る為にスーパーで買い物をする、と伝えたら俺も行って良い?と言った。学校の時間まで、少し余裕があるからだと。

「おじさん、こんにちはー!」

「こんにちは、おじさんもスーパーに一緒に行って良い?」

「いいよ!これからひまちゃんとお野菜とか買うんだー!」

 良く通う、地元ならではの野菜や肉、魚が揃うスーパーで向日葵は籠を手にすると、二人は菓子コーナーで様子見ているからその間に済ませなよと清彦が気を利かせてくれた。二人を清彦に預けて、お菓子は一個まで!と指示して急いで籠に野菜を入れて行く。
 清彦は二人と手を繋いで菓子コーナーに向かった。黄色の帽子を被り、保育園用のバッグを肩に下げた保育園児は菓子コーナーに差し掛かるとしゃがみ込んで悩み始めた。

「おじさん、お菓子何個買うのー?」

「凛と藍は?」

「一個!」

「おじさんも一個は良いって言われた。」

 手に取ったお菓子はソーダ味の熊の可愛いパッケージをしたラムネボトルだ。八十円と安い。もう一つ手に取ったのは、五種類のチョコレートやラムネ等詰まった人気の菓子である。

「悩んでるの、これと、これ。色んなの、入ってるから。」

「分かる、それ美味いんだよ。」

 清彦も一緒になって、長い膝を折り畳んでしゃがみ込んだ。三人でお菓子の棚にびっしりと陳列さ
れた彩豊かなパッケージを眺めた。

「次買う時どうすれば良い?無くなっちゃったら悲しいよ。」

「俺は奥に隠してた。」

 清彦は必ずお菓子を一つ買ってもらえる家庭だったが、関心を示されたことは一切ない場所で育ったのを頭の片隅で掠めた。
 だが、これが欲しい、と此方を見ない両親に必死で気が付いてもらおうと声を張り上げた気がする。一瞥すらせず、勝手に籠に入れなさいと冷たく返ってきた声音が、愛情を微塵にも感じられないことを悟るのに時間はかからなかった。
 二人を見ると、如何に向日葵に愛されているかを清彦は知る。屈託の無い笑みと、仲睦まじい姉弟であるからだ。

「そうするー!」

「あ、じゃあ二人の意見が合うなら、シェアの術を使おう。」

「しぇあのじゅつー?」

「そう、皆んなで分けて食べたら三つの味食べられるじゃん。」

「そうしよー!」

 すると、凛が黙って俯いてしまった。

「…どした?」

「……ねえ、ひまちゃんって、ママになれないの?」

 向日葵が子供を作らないことを指摘されたと思って、園児二人に何て答えれば衛生的にも教育的にも良いかぐるぐると思考回路が乱線する。咳払いをして、声を整えてから凛に再度尋ねる。

「えっ、いやー、子供を作るってこと?」

「ちがう!凛と藍のママになれないのってこと!!」

 急に大きな声で、凛が発した言葉があまりにも辛辣で、そして全てを物語っていたのだ。スーパーに響き渡る子供の甲高い声に、内容が内容だけあって周囲の主婦層から注目を集めてしまう。清彦は声のボリュームを落として、井戸端会議でここだけの秘密を話す時のように小声で凛に尋ねた。

「え…ママと何かあったの?」

「だって、ママ、私達に本読んだことないし、こっち見ないもん。ひまちゃんはいつも本読んでくれたり、一緒にいてくれるじゃん……。」

「ひまちゃんが本当のママだったら良いのに……。」

 藍が清彦の服の裾を小さな手で握り締めた。清彦は怖くなった。この小さな体で一生懸命生きている二人は、本当は椿に愛されていないのではないかと。親の愛情を貰えず、親代わりになっている向日葵を本当の母親としてそばにいて欲しいと思っているのである。

「そ、れは……。」

 椿が育児放棄をしていることが確定すれば、認められるかもしれないが、現状向日葵は体調を崩しても無理して二人を預かっている。それは、椿が急に夜中に押し付けたり、全ての育児を放り投げているからだ。向日葵の仕事の予定など、眼中に無いと言わんばかりに。
 他人の清彦にはどうすることも出来ないと無力感に襲われる。

「―――痛いこととか、された?」

「ない、けど……ママいつも座ってお絵描きしているよ。僕も一緒にしたいって言ったら、ママ凄く怒るから…ご飯だってお姉ちゃんがオニギリ作ってくれるけど……。 」

「凛がオニギリ作ってるの?」

 凛はまだ年中クラスだ。確かに、凛の年代の園児が溌剌で礼儀正しく、弟の食事を作る為におにぎりを握るなどおかしな話だった。まだ両親に甘えたい年代で、集団行動や社会性を身に付けて行く発達段階で、既にその領域を遥かに超えたことを凛が背負っているなど。

「うん!ラップでぎゅーぎゅー握ると出来るんだよ!知らなかったでしょう!」

 清彦は凛の元気な声に、我に返って笑顔を無理矢理作った。

「あ、ああ…すごいね、お姉ちゃんだ。」

 向日葵がお菓子コーナーに戻ってくると、蒼褪めた顔色でお菓子をぼんやりと眺める清彦を見て、深く一息吐いて唇を噛み締めた。椿が彼らを見ていない事実を、二人は知ってしまい、もう元には戻れないのだなと何処かこの時感じたのかもしれない。
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