ひまわりが咲いた日〜手を離した元恋人はそれでも掌中の珠のように彼女を愛す〜

暁月蛍火

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第三章

3ー2

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 清彦の原動力はいつだって向日葵の存在である。向日葵が幸せで、健康で安全に過ごせて居ればそれで良かった。
 それなのに、向日葵と別れてから無性に喉がひどく渇いて、その渇きを癒す術を知らなくて。慢性的な枯渇に次第に苛々し始めた。この渇きの正体はなんだよ、と。
 すると、煙草の量が急速に増えた清彦の相談に乗った既婚者である職場の先輩にそりゃあ好きな女が原因だよ、とあっさり教えてもらった。その答えを聞いて清彦は喉元の閊えがすとんと落ちた気がした。そうか、ひまがいないと俺はだめなんだ、と靄のかかった頭が途端にクリアに開けたのである。
 向日葵が居ない人生など、考えられなかった。隣にいることが当たり前ではないのだ。いつだって、人は簡単に死ぬし、別れは突然訪れるのに。過去に蓋をして息をしてきた清彦は忘れかけていた。大切な人には、悔いの残らぬよう精いっぱいの愛を、感謝を伝え続ける大切さを。

「家族は助け合うものでしょう!私だって好きで姉妹だけで支え合っているわけじゃない!」

「それに貴女、ブルーカラーだとか、どんな仕事でも皆んなプロでしょう。有資格者だろうと、何だろうと、優劣つけて蔑む権利は無いと思う。」

 家族は確かに助け合うものだが、搾取する為ではない。貯蓄のようにコツコツ削り取って良いのは他人ではないのだ。
 ブルーカラーとは肉体労働者を指す言葉である。椿は大工の仕事を不安定で学歴不問で誰もがなれる職種だと誤解しているのだろう。清彦の勤務先の建設会社は代々継がれた地元でも名前を聞けば誰しも知る会社だった。勤務時間は拘束が長いものの、夜遅くの作業は効率が悪く騒音に繋がることから遅くとも五時前には撤収を義務付けられていた。
 家を手掛ける、というのは住む人間の生活環境を担うということだ。家を修繕したり、家族構成が変わることで増築したり理由は様々だが、誰しもが希望と未来を抱いている。その手伝いをするのが、清彦の仕事であるのだ。清彦は大工という仕事に誇りを持って携わっており、どんな仕事にも命が宿っているものである。

「―――看護学生なんでしょう、頭ごなしに言うのはナンセンスだ。」

「中卒の分際で、何言ってんの?」

「残念、今俺は定時制に通学しているんです!今年卒業ですー!」

 清彦は実は大工である傍ら、夜間定時制高校に通学している。仕事内容は様々だが、清彦の勤める建設会社では新築や増築、またはリフォームと幅広く手掛けている。
夜間の工業高校定時制に通学する理由は幾つかあったが、指定学科の受講に加え高卒認定を取得すると二級建築施工管理技士が累積で実務経験クリアするので、受験資格が得られるのだ。今後のキャリアアップにも繋がることは清彦にとってプラスに作用する。
 体が資本だ、と切り離した考えを抱いていたが向日葵から学歴があるとより選択肢が広がることを教わった。入学後は勉強と仕事の両立は厳しい道のりであったが、それもあと一年で卒業する。

「馬鹿にしてんの?!」

 椿が冷たい水が入ったコップを掴んだ時、三人が戻ってきたことで、咄嗟に手を引っ込めた。

「ねーねー!凛ちゃんがお茶入れて来たよー!偉いでしょー!」

「お、凛ちゃん凄いじゃん、一人で持って来たの?」

「うん、まあね!年中さんだもん!」

「そうかあ、年中さんかあ。お姉さんだなあ。」

「ごめん、どうかした?」

 向日葵のその問いに、椿は別に!と機嫌が悪くそっぽを向いた。不安げに清彦の様子を窺うと、目を弧にして笑みを浮かべる。

「皆でパンケーキ、後で食べようって話。」

「……ああ、食後にパンケーキ、食べるでしょう?」

 訝しげに向日葵は清彦を見詰めたが、椿に気付かれぬように大丈夫だからと口をぱくぱくと動かして声を発しないので、向日葵は眉を態と顰めて見せる。

「食べるわよ、もう、同席は許してあげる。」

「光栄だなあ。あ、ご飯はまだですか?」

「まだー!」

「ぼくはね、これたべたい。」

「いいねえ、お花が乗ってるね。」

 お子様プレートには可愛らしい旗と、熊を象ったオムライスに唐揚げとミニトマト、そしてサラダ等が付いていた。プレートは花の形になっており、可愛らしい。二人に小さなスプーンを渡して、向日葵が食事の介助を時折しながら海老フライ定食を食べ進める。大ぶりの赤い尻尾がチャームポイントの海老フライは濃厚なタルタルソースが合うのだ。

「ひまちゃん、それ、えびフライ?」

「エビフライだよー。食べる?」

「うんっ!食べたいっ!」

「藍はいる?」

「うん、ぼくもえびたべたい。」

 向日葵は二人が海老の尻尾が喉に閊えないように、尻尾をナイフで落としてから小さく一口サイズに切ってからプレートに乗せた。小さい子供には知らず知らずに喉を詰まらせる危険性がある。それを加味した上で、尻尾や固い部分は予め処理するのだ。
 二人が大喜びで口いっぱいに頬張るので、ナプキンで口周りを綺麗にしながら冷めないうちに向日葵も口に運ぶ。すると、向日葵の目の前にある皿の端に豚カツが二切れあるので顔を上げると真向かいに座る清彦がお裾分けと片目を閉じて器用にウインクをする。

「おじさんなにたべてるの?」

「とんかつだよ、二人も食べてみる?」

「うん、じゃあぽてとあげる。」

「おー、ありがとう、ばくっと食べちゃうぞ。」

 二人の相手を代わりに途中清彦がしてくれたお蔭で向日葵は何とか自分が頼んだ食事を済ますことが出来た。椿は変わらず、マイペースにハンバーグ定食を食べている。
 食事を終えると、三人の希望のパンケーキがずらりと並んだ。生クリームが添えられた、三連の生地の上には半分溶けたまろやかなバターと蜂蜜がたっぷりと滴っている。三人は歓声を上げて、大きな口を開けて一斉に食べ始めた。それが、なんだかタイミングが同時で向日葵は微笑ましい光景に笑みが零れた。

「ほら、ひまも!」

 清彦がフォークで生クリームが乗ったパンケーキを一欠けら向日葵の口の前に差し出した。どきどきと胸がじんわりと熱くなるのを掻き消して、向日葵は小さな口を開けてぱくんと食べる。甘さが口の中いっぱいに広がり、バターの香ばしさや蜂蜜の滑らかな舌触りが懐かしかった。

「みんなでたべると、おいしいね。」

 藍が向日葵を見上げてそう口の周りをいっぱいに生クリームがついた口で言う。そうだね、と向日葵はその多幸感に浸りそうになった。睫毛を伏せて、どうして清彦の前では女になってしまうのだろうと胸の内を悟られぬ為に平然を装うことに必死になった。
 会計を終えて、姪達と椿を家まで徒歩で送り届けると、アパート前で椿に今度はチャイルドシート用意しなさいよ。と小言を言われた。軽トラックにはチャイルドシートを取り付ける場所が無いので、それは無理だときっぱりにこにこと笑みを浮かべて断る姿が意外だった。

「――どうした?」

「あ…はっきり言うように……なったのね。」

 椿が清彦に対して攻撃的に責め立てていた声を聴いてしまった向日葵は、罰が悪そうに口にした。本当は椿を制するべきだったのに、と。向日葵は未だに椿と同じ立ち位置に並べない。それは恐怖心に支配され、逃げ出した後も家族と言う切っても切れない縁に縛られているからだ。

「うん?そうだなあ、必要でしょう、これも。ひま先生の教育の賜物でしょうに。」

「え……。」

「家着いたら起こすから、明日も仕事なのに、パンケーキありがとう、夢叶ったよ。滅茶苦茶美味かった!」

 呆気らかんとした、清彦の軽い返答は何も気にしていないと言いたげだった。
 向日葵は屈託のない笑顔が突き刺さった。清彦は三年前に向日葵が小姑のように口酸っぱく言い放った言葉の棘を広い集めたのだろうか。最後は嫌味の如く連発して投槍だった記憶がある。それでも、清彦は無視をしたり生返事をせず耳を傾けてくれたのに。

―――言いたいことは、飲み込まずに言葉にすることで意味を成すの。

―――善意を他人が悪用したりすることだってある。

―――学歴や立場の優劣を装備して他人を貶す一定多数の人へ、無条件の優しさを提供するのは単なる無料ティッシュ以下の扱いをされても良いって誇示するだけ。

「……私も、楽しかった。その、三年前……ひどいことを言ってごめん、なさい。ずっと、謝りたかった……。」

 自分の身を削って滅多刺しにしたところで、何も革新的に日常は変わりやしないのだ。ただ、平坦で穏やかな波のない岸壁に打ち付けられるだけの毎日をひたすらに生きなければならないと信じて疑わなかった。
 姉の離婚、幼い姪達の世話、軌道に乗り始め専門学校で講義をしないかと恩師から声が掛かり格段に向日葵の環境は大きく変わったのだ。
 急激に変化した環境に瞬時に順応し、運命に逆らう気力も器量も、技量すら持ち合わせてなどいなかった。結果として、連絡を数年取り合っていない友人の誘いから段々と交遊を疎かにし、手軽に食べられる携帯型の栄養補給剤とサプリメントに頼り。
 心のキャパシティーを越えた先に待っていたのは破滅の道であった。

「ひまは正しいよ。あの時だって、俺の為に掛けてくれた言葉なのに、謝らないで?」

 しん、と静けさが二人を一人っきりにした。交わることの無い、二人の間にはただの過去一時重なった赤い糸が悪戯に偶然に絡まっただけだと深々と冷えた空気が事実を突きつける。
 俯く向日葵が中々顔を上げないので、清彦は腕を組んで数秒考えた。すると、何かを閃いたのか明瞭な声音で向日葵に提案した。

「……なあ、それなら、キスしても良い、か?」

「は、……え?」

 その突発的な提案内容に顔を反射的に上げると、にやにやと口角を上げて意地悪な笑みを浮かべている清彦がいる。

「だって、俺まだひまのこと好きだもん。」

「な、なんで……?」

 向日葵が、ぶるぶると拳を握って震えている様子を見逃さなかった清彦は首を傾げて見せた。
別れを一方的に告げたのは、向日葵であるからだ。抱えられる容量がオーバーすると、人は取捨選別する。誰からの一番にならないのなら、手を離そうと無意識に心の中で決め付けたのは、向日葵の方だ。
 それでも、三年前の清彦は何も言わなかったし、返事すらしなかった。

「なんでも。俺のこの気持ちは永久的に変わりません。ひまが俺の気持ちに一瞬でも疑った件に関しては水に流します。ほら、簡単でしょう?これで一件落着、じゃん?」

「え……キスって……その、ここで……?」

 ファミリーレストランに駐車した軽トラックの前で、そう言われた向日葵はひどく困惑した。
顔が一気に真っ赤に染まると清彦はその様子に瞬きを数回して、何故か小さく頷いた。

「はい、キスしやすく屈むから。」

 体躯の良い大の男が中腰でキスを待っている。幸いなことに人気も疎らであり、駐車場は街灯が所々切れているので二人の影できっと隠れるだろう。
 向日葵はこの男を嫌いで別れていない、下手したら未練があると見抜いていることを気付かれた、と思った。清彦は敢て口にしない。それは、向日葵がまだ罪悪感に苛まれ、また直ぐに変えられる環境にいないことを理解しているのだろう。

「……もう少し……屈んで……。」

 中腰からしゃがみ込んで瞳を閉じた清彦に、意を決して向日葵も正面に膝を折って清彦の厚みのある乾燥した唇にキスをした。触れるだけの口付けが妙に心地良くて、向日葵は恥ずかしさのあまり長い睫毛を伏せて悟られないように誤魔化す。だが、またこうして触れる機会が巡って来た奇跡に同時に涙しそうにもなった。嬉しくて、でも、情けない気持ちが心をぐしゃぐしゃに掻き乱すのだ。

――ひまがどう思っていても、俺はずっと好きだ。それだけは、覚えていてくれ。

 どうして今思い出すのだろうか。人は忘れたい記憶を時折、奥深く引き出しに仕舞ってしまう。その断片が顔を出すと、途端に大事なことだったと悟るのだ。清彦の一つ一つの言葉を思い出しては反芻して、その思い出に縋って生きた向日葵は瞳から水の膜が張った。
 向日葵は、この優しい男が三年の月日を越えても好意を抱いてくれている事実に、向き合えるように弱い自分と決別しなければならないと思ったのだ。
 ちゅ、と唇に触れた音が妙に向日葵の心を突き動かす。一歩、一歩と踏み出す勇気を清彦が与えてくれるのを待っているのは、傲慢だ。だから、もう少しだけ、勇気をくださいと心の中で祈る。この凍った心を溶かしたいと一番に望んでいるのは向日葵自身なのだから。
 唇が離れると、お互いに見詰め合ったまま暫く動かなかった。

 まるで、二人っきりの世界にいるように、静かに時間だけが過ぎ去って行った。
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