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第一章

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 それは突然の連絡だった。

『借りた本が出て来たので、返したいです。』

 向日葵が仕事で疲弊し切って帰路をとぼとぼ肩を落として歩いていた時に、そう一通のメールが入った。
 小学三年生の頃に出会った本で、心に残ったものであったから、男に貸したままだったらしい。漢字や難しい表現は少なく、読みやすい本であったこともあってか、勧めたのだ。

 既に絶版になってしまい、落胆した。買い戻そうかとオンラインショップでちなまこになって探すものの、手の届かない金額になっていた。タブレットを布団に放り投げて、天井をぼんやりと見上げる。いつだって、その喪失感に気が付くのは失ってからなのだ。
 連絡先を変えなかったのは、単に登録したメールアドレスや電話番号の変更手続きが面倒であったからだ。いや、それは自分への言い訳に使いたいだけの、口実である。

――もしかしたら、また連絡してくれるかもしれない。

 淡い期待と、自己嫌悪に苛まれながら思い出を辿る日々の昇華と、再起を望んでいたのは事実だった。
 見覚えのあるアドレスから、一通のメールを開けばそう一行だけ書かれていた。
 三年前に、向日葵と別れた男からだった。明星清彦 あけぼしきよひこと言う男は大柄で肩幅が広く、力仕事で鍛え上げられた体格に似合わず、知人全員が優しい男だと答える程の優男である。向日葵と二年程度交際をしていたが、それももしかしたら勝手な思い込みかもしれない。

 清彦は大工をしており、軽トラックに免許を取得して何年も経過しているのに初心者マークを外さないような慎重な姿もあった。彼は誰かに頼られたりお願いされると断れない性格なのか、何でも手持ちの物を譲ってしまったり、道端で大荷物を抱えた老婆に手を貸してしまう。
だが、なんでも譲ってしまうのは、お金も該当していた。困った先輩後輩や友人に貸す、と言うよりはあげてしまうので金を集られることも少なくなかった。善意を利用する人間にとっては、格好の餌食であったのだ。

―――だから!なんで人を簡単に信用するのよ!

―――本当に困っているかもしれないだろう?

 優しさの反対は無関心だ、と誰かに言われたことがある。清彦は正に、来るもの拒まず、去るものは追わずというスタンスでいた。そして、拘りも無く、執着すらしない。誰にでも分け隔て無く優しい。まるで、どうせ大切にしていても手から零れることがあると悟っているように。だから、優劣をつけるのは本人にとって難しい工程だったのかもしれない。

 向日葵はそんな清彦を次第に強く諭したりするようになった。けれども、困っているのにどうして?と向日葵が問う性悪説を知らなかったのだ。
 人柄の良さと、人を疑わない清さは時に誰かを傷付けるものだ。

 また、彼は友人や仕事仲間を大切にしていた。現場にはいち早く到着する。それでも頭が悪いからこんなことしか出来ない、と偶に自身を卑下する。経済的な理由や子供に無関心だった両親は彼が中学卒業後離婚して互いに新しい家庭を築いた。行き場を失った清彦を、近所に住む建築会社を経営する親方夫婦が引き取ったそうだ。簡単に、淡々と煙草を蒸しながら言うものだから、当時は驚くどころか何て声を掛ければ良いか分からなくてただ、隣に座って黙って聞くことしか出来なかったが。

『分かりました。月末にでも。』

 短文しか返せなかった。どう返事をすれば良いか迷ったからだ。向日葵は未練は無いが、別れは一方的で投槍だった気がして罪悪感が襲って来た。怒ってないだろうか、いや、あの時はあれが最善だった、なんてぐるぐると頭の中が混線する。

『了解。ところで、元気でしたか。俺はこの季節の現場は寒くて凍え死にそう。』

 ところで、なんて使う人物だったか。驚嘆のあまり向日葵は唇を無意識に結んでしまう。直ぐにものの三分後には返事が来た。
 以前よりは顔色も良くなった向日葵の日常は決まっている。一般社団法人が経営するエンバーマー養成学校の講師であり、教壇に立つことや何とか漕ぎ着けた赤字覚悟の講演会、そして病院巡りである。それに加えて、お迎えと預かりなので、私生活は全く彩は無い。シャンシャンと鈴の音が鳴るのをただ聞いて過ごしている。

 エンバーマーとは、日本ではまだ需要が少ないものの、亡くなった人へ消毒や必要に応じて欠損したり事故で傷付いた部位を修復する技法を習得した人間の事である。日本は火葬が一般的であるが、海外では土葬が基本であるが故に遺体からの感染症を防止する目的も担っている。
 向日葵はIFSA(一般社団法人日本遺体衛生保全協会)認定のエンバーマー試験に合格し、国家資格ではないものの日本には永住権を多く持つ外国人も多い為、需要は少ないものの、彼らの旅立ちを向日葵は支援している。

『元気です。確かに、この季節は日が出るのも遅いから、真っ暗だし寒いです。』

 何と呼べば良いかわからなくて、誤魔化してしまう。清彦をきよちゃんと呼んでいた頃には、流石に戻れない。

『風邪引かないように。良い一日を過ごして下さい。』

『迷惑じゃなければ、またメールしても良いですか?』

 連投でメールが二通届いた。携帯がチカチカと通知ランプが緑色に光っている。
 迷惑では、無い。いつも向日葵を気に掛けてくれ、嘘が吐けない、心が真っ白な優しい男であったからだ。逆に、自分の正しくとも意見を押し付けてしまう形で壊した関係である。

 後ろ髪は引かれるものの、いつか、どんな形であれ謝罪をしたかった。メールで言うことでは無いので、今度本を返してもらう際に言うべきだ、と向日葵は思った。


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