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第5部 同棲編

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「──もしもし……」

 最賀は陽菜の小さな手を、握った。手汗がじわりと滲んで、緊張しているのが窺える。電話の主とは良好な関係では無いのだろう。緊張が手に伝わって来る。

「ああ……別に、こっちは何とも。……分かったから、聞こえてるし、分かってる……姉さん」

──お姉さん?

「だから……分かってる、から」

 最賀の姉は理学療法士で、確か泥沼離婚調停中だったはずだ。中学生と小学生の二児の母なので、経済的にも支援が必要だからと、ランドセルや誕生日プレゼント等は最賀が贈ったらしい。

 不仲とまでは行かぬものの、両親同様に複雑な関係であったはずだ。現在は両親は他界し、二人だけの姉弟である。

「次の休み……はあ、そうなのか? じゃあ、何か見繕って持って行くよ」

 半ば言い切って、最賀はほぼ一方的に電話を切ってしまう。着信が再度あったが、二十秒程度鳴り続けたものの三回目は無かった。液晶画面に姉、の文字が出現すると途端に胃痛が出現しそうである。苦虫を噛み潰した様な、そんな顔付きに豹変して行く。小さく息を吐いて、陽菜の手を力強く握り続けている。

「……忠さん?」

「あ……悪かった、それで、ボード書けたか?」

「何か、あったんですか?」

「……偶には顔見せろって。姪達が小中学校上がったから、今度の休みは……その」

 重たい空気だ。最賀はパッと手を離し、陽菜の掌へ視線を落とした。強く握り過ぎた、と我に返ったようである。

「俺が……」

 唇を噛み締める最賀は、ホワイトボードに書き綴られた文字から目を逸らした。言い出した瞬間に、突如別の予定が舞い込んだからだろう。

「わ、私! 忠さんの生まれ育った所……その、見てみたい……なんて」

「──そう、か」

「一人で行くのは、勇気が……要ります」

「俺の両親みたいに地元を捨てたのに?」

 数年前に急逝した最賀の両親は最後まで戻って来なかったそうだ。生まれ育った地元を捨て去り、自由に二人で暮らしていたのだと言う。

 子供は、ただの付属品であり愛の結晶でも何でも無い。個々に意思が芽生えたのならば、あとは好きにすれば良い。そんな考えの両親は故郷を離れ、別の場所で亡くなった。

 深くは聞いていない。いや、踏み込めぬ場所だからだ。最賀の一番軟い部分に触れた途端、突然壊れてしまうのではと恐怖すら覚えた。

「ああはなりたくないな、って思っている人間になっていたんだよ……俺は」

 何かを諦める時の暗い瞳の色は、最賀の深淵を覗き込むようだった。陽菜は無意識に生唾を飲み込む。

 嚥下した陽菜に、ハッと我に返った男は慌てて作り笑顔を浮かべる。無理して笑う時、目尻の筋肉が微かに痙攣するのを最賀はまだ知らない。

「暗い話になって、ごめんな。せっかくの休みなんだ、陽菜はゆっくり──」

「嫌……です。忠さんが駄目って言っても……行き、ます」

「それ、は……」

 最賀の言葉に含まれる、困惑と不安は陽菜を奮い立たせる。
 ホワイトボードをテーブルに置いて、最賀を見据える。目を逸らさず、最賀が頷くまで。

 けれども、最賀は有無すら答えなかった。選択を迷う程に、家族の向ける鮮明な悪意の威力を物語っているのを肌身で感じた。

「手当たり次第、不満ぶつけては攻撃してくるんだ。嫌な思いをさせてしまう、から」

 本当は行きたくないのだろう。陽菜を歓迎していない口振りだが、苦悶の表情からして違うはずだ。


 最賀はその夜、寝苦しいのか目をぎゅっと瞑り小さく呻いていた。陽菜が腕の中に誘うと、縋るように背中に手を回し、しがみつく。

 力強く離したく無いと。首筋に男の吐息が肌にかかる。次第に規則正しい脈拍と、呼吸数になる。

 陽菜はこれから、最賀の闇を見るだろう。生まれ育った場所に行き、全貌を知る。


 最賀が望まなくとも。


 次の休みの日になると、最賀は気怠そうに洗顔した。タオルを渡すと、陽菜へ再度尋ねた。

「……本当に、ついて来てくれるのか?」

「此処は縛ってでも連れて行くからな、で良いんです」

「意外とアンタ、頑固だよなあ」

「忠さんと片時も離れたくないって言ったら、変ですか?」

「──いや。心強いな、俺の恋人は」

 どっしりと仁王立ちで構えて見せると、最賀は漸く引き攣った表情が和らいだ気がした。

 気分が上がるように、最賀に服を選ぶよう促す。ハンガーに掛かるワンピースを眺めて、手に取ったのはえんじ色のロングワンピースだ。タートルネック仕様なので温かい。

「あとは、これにしようか。ネイビーのやつ」

 珍しく暗い色ばかりを選択したのは、後程知る。サイドスリットから覗くプリーツスカートは美しく、シックな装いだ。

「忠さんは襟元もゆったりとした物にしましょう」

「現時点で肩凝ってるの、良く分かったな?」

「体ガチガチでしたから……」

「あ、これ良いな。流石、俺専属コーディネーター」

 基本的に最賀はジャケットにシャツスタイルを好む。シャツは柔らかい素材で堅苦しく無いカジュアルな物にする。

 予定は一泊二日だ。部屋に露天風呂付きの旅館を予約している。風情ある老舗旅館は蟹の刺身が人気らしい。最賀は一心不乱に黙々と予約を完了させ、二人分予約しているが無理強いはさせない。そう、何度も執拗に言った。

 最賀の姉は典型的な家族に憧れ、結果的に子供は授かるも家庭は上手くいかなかった。そして、幸せになるのを一番乗りしたのに、と最賀は悪態を珍しく吐いた。

 ドン底にいる現在、誰彼構わず当たり散らすので、最賀も手を焼いている。自分が世界で一番の不幸者だと、幸せそうな人間を見ると嫌悪するのだ。

 包み隠さず、最賀は陽菜へ打ち明けた。ついて行くと言うことは、だと。



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