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第5部 同棲編
1-1【初めての同棲篇】
しおりを挟む「……此処にいても、良いんですか」
「居て欲しくないなら、合鍵渡さんだろうに」
合鍵を使う度に、燻った影が視界の端に散らつく。
経済面では医者の最賀へ頼りになるのは事実だ。契約主の持ち家へ生活費を支払うのは当たり前である。
陽菜は毎月食費と光熱費、家賃代を新札で用意し封筒で渡そうと試みるが困った顔をして首を横に振って終わる。押し付けて受け取るまで引かないと、分かったからと渋々手に取ってもう一度戻される。
年上だから、とか年下だから。そんな理由で経済的に頼りっぱなしなのは心苦しかった。
「言い方がまずかった。訂正。俺は五年前にアンタが自宅マンション来た時に私そびれたのを未だに後悔していて。だから、早く家以外の居場所を作ってやりたかったんだ」
言葉を飲み込む仕草は変わらない。何かを言いたげにする時の視線や、頸を触って一旦踏み留まることも。最賀は何度も答えを濁す。
──まるで、私の言葉を待っているかのように。
不動産屋の担当者から、検討している人が好印象を示していたと一報があった。踏み出す一歩が重たく感じる。前に進むことが、怖いと感じるのは久し振りだった。
逃げ道を断ってしまうから、と最賀は陽菜の決断を何ヶ月も待っていた。文句一つ無く、陽菜が体調を崩しても献身的に看病をする。急かす素振り無く、ただ只管に純愛を紡ぐ。男は性急に事を乱暴に進めず、陽菜へ強要しない。
「私……忠さんの帰る場所に、いたい」
最賀と一緒に居られるなら、炎の中だって潜れる。世界を敵に回してもこの男だけを愛している。そう心に刻んでいるが、自ら炎のアーチに進んで潜る人間はいない。陽菜はぶるりと恐怖が一瞬体を通り抜けて、思わず最賀へ抱き着いた。
心臓の規則正しい音を聴くと、安心する。柔らかな香水の匂いに包まれて、視界がぼやけそうだ。それ程までに、微睡を誘発するのである。
「──やっと決意したか?」
「帰る、場所……にしたら、迷惑です、か?」
「悪い。あんなクソみたいな家、帰したくなかったんだよ。家ってのは、安全で安心出来る心地良い場所だと思って……」
家は人々を雨や風から守る為の住居だ。安心と安全を保証された箱の中が、人為的な危険があると記憶する人間へ安息地は見出すことは難しい。
だから、セーフティーハウスがある。それでも、痛みの記憶からは逃れられない。
最賀は過ごしやすい環境を整えてくれる。緑茶を淹れる急須や、食洗機、ディスポーザーに追い焚き機能付き風呂。自由に使える食材に、物音が少ない部屋。扉の開閉音も、テーブルを叩いたりしない。
食事の制限も、ワクチン接種を咎めたりはせず、ただ意志を尊重する姿勢。就寝時間になれば、今日はどうだった?と腕の中で柔らかな声音で聴いてくれる。
全て、最賀忠が私の安全を構築してくれる。
それが、他人から見れば過干渉だの過保護だの言われるかもしれない。
「──陽菜?」
言葉に詰まって、ただ涙がじわりと眦から溢れそうになると最賀は長い髪を撫でてくれる。栗毛は父親譲りなのに、母からみっともないと鋏で切られたこともある。そんな、髪色すら最賀は綺麗だよと慈しむ。
「忠さん……、わたし、本当は我儘なんです」
堪らず、泣きじゃくってしまった。涙が落ちると、途端に引っ切り無しに涙は渋滞する。
五年前、全てが嫌になって、逃げ出したくて最賀を巻き込んだ。キャリアを捨てさせて、子供じみた逃避行に付き合わせたことを酷く後悔していた。三日間の駆け落ち紛いの日々は、本当に幸せで、このまま死んでも良かったくらいだった。
生き永らえたのは、手を離したことを決意した日である。
「私、あんな……ことして、先生の信頼も、全部落として……なのに」
かつての最賀の婚約者である手代森と同じだ。相手を好き過ぎて、掌握するならば全てへ身を投じてでも愛を得ようとする。
その狂愛染みた行いは、人を破滅させた。周囲を貶めてでも、何者にも変えられぬ物の代償ならば喜んで捧げる。
「手代森さんと一緒です……。先生が好き過ぎて感情もコントロール出来ない……」
だから、最賀忠の手を一度は離した。
手代森からのメールが無くても、いずれは自ずとそうすべきだと良心に駆り立てられただろう。救いを求める患者の手より、陽菜を優先すべきでは無いからだ。
命の重さと天秤にかけたら、答えは出る。この才能を無に還すのは、患者への冒涜であると。
「──俺も……アンタと同じなんだが、駄目か?」
「……え?」
「アンタのことになると、俺は見境無しに火の中も潜り抜けられる。俺だって……ただの人間だ、皆んなと変わらない一人の男さ」
聞き間違えかと思って、耳を疑ったが最賀の答えは変わらなかった。理性的で、感情論にならずいつだって表情ひとつ変えず患者を救う。陽菜の前で声を荒げず、正義を貫き通す。
涙でシャツが滲んでも、最賀は咎めることなく陽菜を抱き寄せたままだった。
「まあ、理事長には念書貰ったよ。二度と関わらせない。余罪も絡んでるが、いずれは五年間過去の被害者達と……法廷で証言する」
法廷で証言するなんて。只事ではない。手代森は過去の不法侵入や傷害罪は不起訴になっているが、今回ばかりはスケールの大きさが桁違いだ。
「これで、三振?」
現に、勾留されている手代森は実刑判決は逃れられない。海外では三振法を良く例えで使われるが、最賀は陽菜が知らぬ間にも被害は被っていたのだろう。
「さ、んしん……」
「刑務所行き。俺は非常に怒っている。俺のことなんかどうだって良いが、アンタを傷付けたんだ。それ相応の代償を払わせる」
くびれた腰を纏う太い腕へ、力が入る。震えた睫毛を上げると、知らない顔をした最賀が陽菜を見下ろしている。他人行儀で、無慈悲な冷徹な男にも見える。
冷ややかな双眸は、外貌に纏う空気が物語った。最賀は一定の線を越えると他人なんて、平気で切り捨てられる人間になることを。
ぞく、と背筋に嫌な汗が伝う。最賀は陽菜のシャツから背筋の汗へ触れて、心情を読み取っている。別人にも見える男の本性が、垣間見えた気がした。
ブラジャーのホックが片手で外されたのも、余興の一つなのだろうか。最賀の考えは読み取れない。無機質で、鼻梁が陽菜の鼻頭に触れて皮膚の感触と言う物理的な方法でしか情報が拾えないからだ。
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