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第4部 溺れる愛
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しおりを挟む今回のケースは造影CTを施行する際、休薬の必要な糖尿病薬が含まれていた。休薬指導をしなかっただろう、と責められたようだ。
「休薬指導怠っただろ?! それに古い手帳にはどうのこうのって電話越しで激怒してたが、俺だって怒りに身を震わせたい気分だ!」
些細な嘘、誤魔化しによって医療事故や健康被害、命の危険を引き起こす。理解していないのに、分かったと返事をする患者も多い。高齢者なら尚更、その場では理解していたとしても帰宅して忘れてしまった、なんてこともある。
「せ、先生……ええと。その、こればかりは認知能力も絡むので、先生の所為では……」
「俺のミジンコ上手く使いこなせてないなって、嫌味セットだったのですが……?」
「えっ……ああ、もう早坂先生捻くれマンなの相変わらずなのですね」
「俺のって言う医者ヤバいだろう、人間的にも!」
「奥様の時は特に凄かったので……麻痺してるのかもです。何せ、交際前から珈琲お代わり駄々っ子になって処置室まで付き纏ってましたから」
信じられない、と早坂の横柄さが罷り通っていることに、最賀は引き攣った顔をした。早坂は珈琲の濃度や紅茶一つ温度調節が非常に面倒臭い。
熱々の湯気立ち上る温度で出すと、火傷しただのクレームの嵐である。また、口答えをすると火の粉が飛ぶので、大人しく内線で桃原に言い付ける。これに尽きるのだ。
ただ、早坂は仕事が出来る。有名な大学病院のエースだったのは頷ける程に。幅広く知識が豊富で仕事のスピードが速い。
無駄が嫌いで、合理的に動きたい意志の強さは誰も寄せ付けなかったが。早坂と関わりを持ちたくないと、白旗振って退場するスタッフは後を立たない。
それでも、時折スポットで高時給に釣られてやって来る医者の百倍質の高い医療を提供する。取捨選択とは、時として人の本質さえも削り落とすが、医療現場では待った無しだ。
陽菜は早坂をどうも毛嫌いは出来なかった。天邪鬼と言うより、彼は構ってちゃんである。
「……あいつは職場でハーレムでも作りたかったのか?ええ?もう俺は分からん……」
「何にしても紹介した患者さん、確信犯っぽいので……先生の非じゃないです。此方も確認が遅くなってしまい、すみませんでした。電話が来た時に丁度至急で出したデータファックスきたので」
その患者は会計でも初診料が高いだの、薬ばかり飲まされていると苦情を陽菜へ溢していた。休薬指導済みと小野寺からカルテが回った際に、念の為休薬の日付を書いたメモも患者に渡したはずだ。
カルテには大きな文字で忘れっぽい性格!!と小野寺の怒りの筆跡があったからである。
「タイミング悪かっただけだ、仕方無いよ。それに、フォロー入ってくれてありがとうな」
早坂の捲し立てる声は受話器から盛大に漏れていたので、小野寺は怪訝そうに尋ねる。
「そんなに変な先生だったの?」
「あはは……まあ、変わってる……と言うか」
「て言うか、患者さんも変だったわね。認知あったの?」
首を横に振る。まだ五十代半ばの体重百キロオーバーで、栄養指導も恐らく突っ撥ねる性格だ。病院の外に出た瞬間に、コンビニエンスストアのビニール袋からチョコレートを爆食いしていた様子は目撃されていたくらいである。
もう、観念したくなる程の我が道をいくスタイルだ。
「桃原先生ね。野蛮ドクター、覚えたわよ。今度電話来たら字が特徴的な桃原先生ですかぁ、いつもお世話になっておりますー! って対応するわよ私」
「こ、心強い……な、それは」
「唯でさえ都会でボンクラ系ドクターって態度悪いのよ! ガツンと田舎のやり物言いでやってやります」
「彼一応あの有名大学病院出身だから、御手柔らかに……」
「そんなのこっちは知らないわよ。小さな診療所で出来ることなんて限界があるから、紹介制度があるのに」
「まあ……冠動脈造影CTの患者、読影結果次第には羽島市民病院送ろう。アクが強いし……」
午前中なのに、既に体力をごっそり奪われた男は遠い目をしていた。小野寺達の貫禄ある対応は、やはり飯田診療所ではとても有力だ。
強く言えない人間からすれば、彼女達は立派な代弁者である。頭が上がらないのは陽菜も同様だった。最賀は早坂のような家柄や輝くキャリアの持ち主で、それ以上に聳え立つプライドの高さを誇る医者とは相性が悪い。頗る、だ。
最賀は奨学金で医科大学を卒業したが、早坂は別格である。私立小学校からエスカレーター式、加えて両親はかの有名な大学病院の院長である。スケールの違いに、尻込みもするだろう。
「じゃあ、俺達ご飯外で食ってくる」
三条はKCの上から真っ赤なダウンジャケットを羽織って、小野寺達と外出した。近所に唯一あるファミリーレストランで中華を食べるらしい。陽菜は弁当を作ったので今回はパスした。
「……口直しに、甘い物があるとなあ」
頬杖をついて、最賀はちらりと一瞥する。休憩室に確か、チョコレートや患者からの差し入れで煎餅とお萩があるはずだ。
「ええと、甘い物ですか。休憩室にチョコレートとか……」
「あるだろう、目の前に」
「え……?」
「俺が今、滅茶苦茶欲しいと思ってるもの」
「あ……ッ、え……」
「山藤さん、俺にご褒美くれると嬉しいんだがなあ」
ちゅ、と唇に触れる。気怠そうだった最賀の伏せられた瞳に囚われてしまう。戸惑った陽菜は、はくはくと酸素を求める魚の如く口を開閉させた。耳の後ろが熱い。全身が急激に熱を帯びて、沸騰しそうだ。
ご褒美、とは陽菜を指す。何を欲しているのか、最賀の声音である程度想像つく。
「鍵閉めたから、少しだけ……な?」
今朝の余韻に引っ張られ、体は待ち望んでいたらしい。腰椎をつい、と撫でられただけで陽菜は声が出そうになる。診察室で求め合うなんて、はしたない。
ましてや忘れ物を取りに万が一スタッフが戻って来たら大惨事である。密室で、秘めやかな時間を過ごせる場所なんて一箇所しか無い。
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