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第4部 溺れる愛
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しおりを挟む故に、互いを着飾って誇らしげに努力の成果を披露する。勿論、擦り切れた袖のパーカーですら、色気のある男だ。何を着ても、愛している。
「今日は寒いので、ニットワンピースにカラータイツ。靴はあのもこもこのやつな」
「ええと、ムートンですか。登山用の買って正解でした、暖かさが全く違います」
生活水準はグッと上がり、今では陽菜専用のクローゼットスペースが完備されている。衣食住困らぬ、経済的にも貯金が出来る。貧しかった心は余裕も生まれて来た気がする。
──同棲……かあ。
住民票を移動することは、即ち本当に同棲することが本格始動される。嬉しい反面、戸惑い半分。毎日最賀と一緒に居られるなんて考えたら、歓喜の余り失神でもしそうだ。
実家の内覧を希望する人達もちらほら出てきており、春先に決まりそうである。そうして、陽菜はあの家とは袂を分つ。
生活費も全部気にしなくて良い、とまず断言されたが陽菜はどうも気になってしまう。医者の給与と医療事務員とでは、雲泥の差だ。その申し出は正直有難いが、とても申し訳ない気持ちで胸がいっぱいになる。
年末年始は暦通りでは無くて、少し早目の締め日だった。大掃除も兼ねて、院内を最後スタッフ全員で手分けして掃除をする予定だ。
駆け込みで薬の残数が少ない、ワクチン接種、紹介状発行。年末は比較的大混雑だ。
「うわ、返事……」
「手書きだし……」
「字、独特ね」
「ええと……まあ、嫌味から入るよな」
封をされた紹介状は、国際メディカルセンターからだった。田舎ではそんなカタカナの病院名は都会だと決め付けているが、強ち間違いでも無い。
国際メディカルセンターは陽菜の前職場だ。多くのことを学び、メディカルクラークとしても経験値を積んだ。親友や良き先輩と出会った場所であり、担当医である早坂にもお世話になった。と言っても、早坂のご機嫌取りもオフレコ同然の扱いで苦労したが。
「桃原先生とお知り合い?」
「学会で、少し」
最賀は手書きの紹介状の文字を目で追いながら、含んだ言い方をした。最賀の胃潰瘍を見破り、真っ先に受診を勧めたのは早坂である。早坂国立大学病院の元御曹司、消化器外科医の目はいつだって、光っている。
──字が……もう少し、こう、読みやすかったら良いんだけど、そこも変わらないなあ。
早坂は親友の桃原と結婚し、桃原の姓に変えた。あの家柄を捨てて、だ。大問題が起きて、色々あったらしいが横暴な性格の持ち主である早坂である。梃子でも動かない。
「あれ? もう一通別のがきてるな」
ふむ、と顎を指で摩った最賀の顔色が段々と雲行きが怪しくなる。
「え……うちを強く希望? 紹介?」
「で、出たー……地元だからフォローアップはそっちでやれって言う……。しかも奥さんの薬分け分けして飲んでたんかーい」
「紹介された後の返事、書かなくちゃならんのか……はあ」
「て言うか、ギリギリに寄越さないで欲しい。うち、もう閉まるのに!」
難色を示す最賀と、小野寺に加わってパートタイマーの看護師もげんなりしていた。愚痴が止まらず、紹介状に同封された患者の情報提供書の内容も問題があるらしい反応だ。
患者が名指しで病院を指名することは決して珍しくは無い。通院しやすさ、立地、評判。患者は病院を選ぶことが可能で、受診は自由だ。
意外と多いのは医者側から推奨した病院へは受診せず、大昔のかかりつけ医を選択したり。
紹介状無く、以前受診していた病院の治療を自己中断して突撃受診、なんてことも屡々見受けられる。継続治療の必要な疾患ならば、尚更受診先を転々と変えるのはリスクが高い。
正直、前の病院さんへ戻られた方が……と打診するケースもある。患者は様々で、大元の治療や手術が済んだらフォローアップは他院で。なんてことも、日常茶飯事だ。
また、やや一癖ある患者をお願いする時も紹介状に強く貴院を希望する、と記載する医者もいる。
ジリリリ、と電話音がけたたましく報せる。今日は問い合わせが多い日だ。受話器を取って、ワントーン高い声で話す。
「はい、飯島診療所で……」
「国際メディカルセンターの医師だが、そちらに最賀は?」
──ん? あれ?
この苛立ちを覚えた不機嫌な低音ボイス。聞き覚えがある、と言うよりは何度も恫喝されて耳が慣れている。
「……早坂先生?」
「ん? 早坂は旧姓……もしかして、ミジンコか?」
ミジンコと呼ぶ人は世界中を探しても、一人しかいない。暴君消化器外科医の早坂善次である。年末最後にまさか声を聴くとは思わなかった。
「先生、お久し振りです」
「お前、飯島の狸ジジイん所に再就職したんだったっけ?」
「この間お伝えしましたよ。院長は今休養中です」
狸爺とは共通認識なのか。最賀もしてやられた、と額に手を当てて項垂れるくらいだ。
家も職場も用意周到に手配し、巧みに操る凄腕の飯田先生は食えない老医者らしい。早坂もうげえ、とあからさまに嫌な顔をしたので、有名なのだろうか。
陽菜にとっては患者に優しく、とても良い先生と言う印象しか無い。大学病院で教授を務めていたとは、再来患者からは聞いたことがある。
「まあ、いいや。最賀と無事再会して本妻になれよ?」
「……診療中にするお話じゃありません。それなら莉亜さんと、ちゃんとお話しして下さい。直ぐに」
「はあ?! お前余計なこと言ったな?! 俺の嫁は今色々大変なんだよ!!」
「私は存じ上げませんが、大変な状態ならば献身的に支えるのが夫の役目ですよ早坂先生」
「はあ?! お前に言われる筋合いは無いね!! て言うか、最賀の野郎出せ! 今すぐ! こんなふざけた紹介状寄越しやがって!!」
大きな声が受話器から飛び出して、陽菜は反射的に離す。荒れ狂った怪獣の様に、不平不満を炸裂させる。診療日ギリギリの紹介は、単なる嫌がらせなのだろうか。
実は、早坂の妻である莉亜の様子がおかしいのだ。元気が無く、やや痩せて顔色も悪い。大変な理由は明かされなかったが、早坂はどうやら事情は知っているらしい。
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