戀の再燃〜笑わぬ循環器内科医は幸薄ワンコを永久に手離さない

暁月蛍火

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第4部 溺れる愛

5-1【愛の深さ】

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 夕暮れが早く感じる季節に差し掛かり、十八時半過ぎはすっかり辺りは真っ暗だ。これから段々と肌寒くなるのだろう。
 陽菜はもそもそとドット柄のワンピースに袖を通す。カーディガンを羽織り、髪を整える。爪先が丸み帯びたラウンドトゥのフラットシューズは履き替えやすい。全て、最賀が揃えた物だ。

 陽菜の家が手代森の件で荒放題となったのは、衣類も含まれていた。ビリビリに破け、ピンヒールの跡で踏み躙られ無惨な姿であった。全ての衣服は泣く泣く処分の対象となり、陽菜は途方に暮れていた。

 通帳や貴重品には目もくれずなのは、救いだったが。手代森からしたら、チープな物であったのだろう。ブランド品一つ無い、素朴な生活を陽菜はしていたのだから。

 そんな実情を一番に知った最賀が問答無用で陽菜の生活必需品を光の如く揃え。挙げ句の果て、これを機にと荒れた家の掃除は全て業者にお願いし一掃したのだ。

 畳や襖の張り替えや、破壊された箪笥や家電の撤去もである。不動産屋の担当者も大目玉食う内情があっさりクリアした。また、綺麗な状態で写真に収められたと喜んでいたくらいだった。

 あれから一週間後の受診にて、無事に抜糸ばっしした。縫った箇所の糸を抜く作業だ。
 問題無く処置は済んだが、カウンセリングを勧められたのは顔の傷も絡んでいる。最賀が救急搬送時に既往歴と共に伝えたことで、心のケアも兼ねてらしい。

 陽菜は一歩間違えば、心を酷く傷付け死に至ってもおかしくなかったことを自覚した。最賀からは以前から強い勧めもあり、陽菜自身もそれを深く受け止めた。

「貴女は何でも自分が悪い、自分が悪いものを引き寄せてるんじゃないかって責めてる」

 貴女は何も悪く無いんだよ。と、カウンセラーの穏やかな声音は陽菜の心にストンと落ちた。昔に頑なにカウンセリングを拒絶したのは、決め付けた言い方をする横柄な男性で怖かったからだ。それは甘えだ、と陽菜の言葉を遮られ、以来悪い印象だけが残ったのである。

 相性の良いカウンセラーや病院探しは時でして時間と労力が費やされる。今回担当したカウンセラーの女性は無理強いせず、陽菜は打ち解けることが出来た気がする。

 通院時もバスの最後尾の端っこに二人は乗る。寝てても良いから、と最賀は陽菜を肩に凭れ掛けさせた。手を握られて安心するも、病院に着くと手が離れたのが気掛かりだった。

 会計処理をすると、受付から笑顔でこう言われた。

「包帯取れて良かったですね!」

 そうか、この些細な一言が有るのと無いのでは異なるのだと。労りの言葉はとても身に染みた陽菜は、帰りのバスでぽつりと呟いた。車窓からは道行く人々の顔が鮮明に見える。

 子供と手を繋いで笑みを浮かべる女性、自転車で楽しそうに走る学生。幸せの形が溢れており、陽菜は己の悩みが小さく感じた。

「こう言う何気ない一言に救われるんですね……」

「アンタだって俺にそうしただろう?」

「え……」

「俺はアンタに救われた一人だ」

 大きな掌でぎゅっと手を握られ、最賀は車窓へ視線を移した。

 最賀に救われてばかりだと、思っていた。

 次第に陽菜は身体がむず痒くなって、頬を紅潮させる。早く手を繋いで歩きたいし、何ならきつく抱擁したい。肩が触れるだけでも心臓の鼓動が速くなる。

 下車すると、最賀は手をやっぱり離してしまう。寂しさの余り、思わず陽菜は最賀の手に目を向けた。

「手……」

「駄目だ。転倒したら危ないんだから、暫くは安全の為に腕掴んでおきなさい」

「う……っ」

 恨めしそうに見詰めるが、最賀は毅然とした態度でピシャリと断った。




 それからは、追加で苦悩の一週間が始まった。




 最賀の過保護さによって、血圧の上がる行為はやんわり避けられるようになったのだ。頭部外傷の経過観察は重要だと、口酸っぱく。陽菜はお陰様で添い寝止まりの清い関係へと逆戻りとなった。

 様子を見てから、の一点張りである。だから、キスもセックスも怪我から二週間以上していない。

 頬にキスくらい。そう、隙を見て不意打ちを狙ったが、真横に目がついているのか疑念を持つ程に回避される。陽菜は虚しくなった。非常に。

 最賀はいつも通り、自宅へ向かうバスに乗った。二度と、あの家へ戻さないと言わんばかりな背中だ。

「合鍵、今日使えるな?」

 ぼそりと耳元で最賀に囁かれる。

 合鍵を使うのは、正直初めてだった。頭部の怪我もあって、使うタイミングを失っていたのである。
 到着して、不意に吐息が耳朶に当たると動揺を隠せず顔を真っ赤にした。どきりと振り向き様に、メールが何通も立て続けに着信音が鳴る。

「すみません、メールが……」

 うるるがどうも陽菜を気に入ったらしい。内容からは喜びが溢れている。絵を描いたから、と三条からメールが送られたのだ。添付された画像は、うるるが描いたプイキュウの推しキャラクターであるベリルだ。笑顔の彼女は輝いている。

 三条からプイキュウの補足説明では、少女向けアニメで悪い敵を倒す正義のヒーロー兼ヒロインのグループ名だと言う。その中でも人気を誇るキャラクターがベリルだ。元気で溌剌、リーダー的存在で少女達の憧れの少女である。

 最近は特にそんなこともあり、メールの頻度が上がった。うるるはアニメ第三十三話で、登校中のベリルがサイドアップした髪型を再現して欲しいと言う。三条が代打でメールを一生懸命しているのを想像すると、早く返さないとと思うのだ。子供は寝る時間が早いだろうし、夜更かしは天敵である。

 何件も追撃メールが届いて、必死で慣れぬ作業を繰り返す。その時、ふと陽菜は気が付いた。無言のまま背後に佇む男を。

「あの、忠さん……?」

 玄関の鍵を締めるや否や、腰を抱いて引き寄せた。携帯を取り上げられて、あっさりと電源を落とされる。耳元で男の声はひどく篭っていた。空気がピリリと張り詰める。
 最賀の返事は、別の物だった。




「俺が気にしないとでも思ってたか?」
 




 がぶりと目の前の肉食獣に食われるのを、この一週間望んでいた。




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