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第4部 溺れる愛
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しおりを挟む食べさせてやる、とかそんな言い方は最早図々しいのである。此方が好きで、手伝いたいのだ。相手の善意で成立しているのだから、最賀はなんでも女の為にしたくなる。
着替えや食事、風呂に爪を磨くのすら。歯磨きは姪達の歯磨きチェックで散々参加したので、お手の物である。嫌がる幼い姪達を捕まえて宥め、口腔内を隅々まで磨き残しが無いか見たものだ。
「口の中……見られるの、恥ずかしいです」
そう言いながらも、おずおずと口を開いて目を瞑る女が健気で可愛くて仕方がない。
「親知らず無さそうな顎の小ささだな」
歯茎に当たらぬよう、細心の注意を払って歯を磨く。歯肉がやや腫れており、やっぱり疲労が見受けられる。小刻みに優しく歯ブラシを動かして、丁寧に磨き上げて行く。仕上げは勿論虫歯予防と歯茎の活性化を促進する歯磨き粉だ。
それに比べて最賀は烏の行水並みの速さでシャワーを浴び、歯磨きを終える。マウスウォッシュをして十数回口を濯ぐ。髪を適当に拭いて寝室に戻ると、女は寝ないで待っていた。
明かり小さくして、薄暗くする。
「そんな見詰められるとキスしたくなるから、あんまり見ないでくれ」
伏せた睫毛がふるりと揺れる。最賀はクーラーの温度調整をしようとリモコンに手を伸ばすと。くん、と女は最賀の草臥れたシャツを握った。
置いてかれた子供が縋る、顔をしていた。
何処にも行かない、と何度伝えても染み付いた大人の愚行や我が身可愛さの振る舞い。そうやって何度も裏切られ、蔑まれ、道具にされた子供の行い。信じている人間への裏切りが一番堪えることを、最賀は目の当たりにする。
早く寝かせようと思って口にした言葉を、鵜呑みにしたらしい。女は最賀の厚い胸板に擦り寄って、懇願する。
「……一度だけ、で良いから」
「口塞ぐぞ、そんな誘う言い方するなら」
「じゃあ、口塞いで……下さい」
虐待児は、己の痛みや体の叫びに疎い。いや、鈍いのだ。痛覚が脳に伝達するのを一切遮断して、防衛本能で無かったことにする。終わらない暴力と孤独は心を殺して、体の悲鳴を受け付けぬ。
最賀は女の頬を撫でてから、ぴたりと止めた。
「──不安か?」
「ふ、あん……」
「俺が、守れなかった……から」
すると、女はぎゅうと胸の内に閉じ込めた。肌けた胸元は汗が一筋垂れて、鼓動が速い。女の腕の中にいて、驚愕のあまり固まっていると。
「……忠さんの方が、辛そうな顔、してる」
「──俺が?」
「だって、全部背負おうとしてて……。忠さんは独りじゃないし、怖いなら私を縛り付けて良……いんですよ……」
──縛る? 俺が? 束縛するってことか?
答えは見付からない。手探りで、常に模索するのに最善策は転がってやしないのだ。
いつ、何処で、何を、どうしているか。
他人に興味が無い、笑わない医者。
そうしていれば、誰も傷付けないし期待も持たせないと一貫して貫いていたのに。
一人の女を死ぬほど愛してしまったから、こんな醜い欲が生み出されたのか。
すうすうと静かな寝息。身動きが取れず、上手い返しが出来ぬまま最賀は女の答えに自問自答する。細くしなやかな腕の中は、安全地帯と言わんばかりだ。汗で湿った寝衣の隙間から覗く肌に触れる。肩から落ちた服のせいで、直に肌と肌が密着した。
無償の愛を得られず育ったのは、最賀も同じだ。日常的な暴力とは無縁だったが、親の愛情を知らず関心を得ないことで身を守ってきた。
愛とは、見返りのない誠意だ。
空っぽな言葉とは裏腹に、無限に愛を捧ぐ対象は己の子供である。だが、子供を愛せない親も存在するのが現実だ。
「俺が、全部アンタの重荷を背負いたいんだよ……」
最賀は女の背中に腕を回して、決意を体現することしか出来ない。無償の愛とやらは都市伝説と思っていたが、この愛しい女には全身全身全霊捧げたい。鼓動が規則正しくなると、最賀は段々と睡魔に誘われて意識を手放した。
過去は永久に死ぬまで追って来る。逃避しても、付き纏う陰に怯えても。決して逃げられやしない。
うつらうつら。浅い眠りの中で、浮き沈みする感覚。体は寝ているのに頭は起きている、ような。
そんな不安定な睡眠サイクルで、最賀は時計の針が動く音が段々と著明に聴こえる頃。
「はあ……うう、……う……」
寝室の壁掛け時計が十二時を指す時刻。魘されているのか、小さくくぐもった声が耳元でした。
隣で目を固く瞑る女は大粒の涙を流している。最賀はぎょっとした。布団を剥ぐと寝衣が大量に汗をかき濡れており、吃驚したのも束の間。
ガリ、と嫌な音がした。
女は手首に爪を立てて、無意識に自傷行為をしている様子だ。流石に起こすべきだと判断して、揺すって起こそうとする。それでも爪は肌を食い込ませ、ぷつりと血が滲む。
最賀は手首を掴んで止めさせ、名前を呼び続ける。覚醒してやらないと、そんな焦りが手に伝わったのか。ふとゆっくり女の睫毛が上がる。長い睫毛が震えて、ぼんやり女は見詰める。
「陽菜、怖い夢でも──」
すると、突然悲鳴を上げて最賀の腕を勢い良く振り払った。力強い衝撃に手がビリビリと痺れる。血相を変え、目の前の最賀に対して、恐怖に満ちて強張った顔をしている。
目が合うと、女はひゅっと息を呑んだ。最賀が手を伸ばそうとすると、顔を逸らす。錯乱しているのか、支離滅裂な言葉を叫びながら畳を這って最賀から逃げ惑う。
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