戀の再燃〜笑わぬ循環器内科医は幸薄ワンコを永久に手離さない

暁月蛍火

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第4部 溺れる愛

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「……泣いてるのか?」

「え?」

「……ほら、こっちに来なさい」

 最賀は腕を広げて、ぎゅうと強く抱擁する。泣いてなんかないはずなのに、偶に心臓を掴まれた様な痛みが走る。涙が薄らと視界を揺らしたのを最賀は見逃さなかったようだ。

 ウッディーノートの仄かな香りが陽菜を落ち着かせる。心臓の規則正しく音がして、痛みが段々引いて行く気がした。

「おかえり、陽菜」

 優しい声音が、全てをクリアにする。

 情緒不安定なのだろうか。それとも、まだ過去に縛られているのか。

 早く過去を完璧に清算し、決別したい。散骨の件も最賀に伝えて、当日は側に居てもらいたいのは我儘だろうか。

 拓実とは日取りも含めて、やはり納骨と散骨で意見が対立し、大いに揉めた。これまでの姉弟関係が崩れるくらいにだ。

 散々罵詈雑言を浴び、平行線を二週間貫いた後。急に意趣返しなのか、分かった散骨でも良いとメールでそれっきりだった。パートナーのルイスがどうやら陽菜の味方をしたのも、面白くなかったらしい。

 ルイスは長男を奪った憎き外人と、良く母に水を撒かれたり、嫌がらせを受けていたからだ。だから、陽菜と同じく酷い仕打ちを受けた一人でもある。病室で追い返された時も、二人で仲間はずれだねと苦笑したのが印象的だった。

 二体一と不利な状況に転じて、漸く承諾を得たのだが当日は波乱の日になるだろう。顔を合わせて喧嘩をするのは、避けられないのだから。

「忠さん……」

「決戦、近いんだろう。体が少し強張っているから」

「どうして分かったのですか?」

「いや、昨日珍しく家に来なかったから」

「あんまりお邪魔するのも、体が休まらないかと思って」

「それはアンタが考え過ぎだ。様子が違ったから、一人でいるより良いだろう」

 確かに、あの家に一人で過ごすのは広過ぎる。沢山の嫌な記憶が詰まった家。たった一人でいると、どうしても卑屈に悪い方向へばかり考えてしまう。

 三日後の水曜日は、謂わば決戦の日だ。過去の因縁とは決別する第二歩目である。あれから拓実とは会っていない。
 下手したら取っ組み合いの喧嘩を人生初、するだろう。この二十八年間、弟の味方でいた。

 けれども、母の愛情を誰よりも浴びた弟は良くも悪くも利己主義な一面がある。きっと良心を抉る言い方をして、無意識に陽菜を攻撃する。言葉の刃は暴力以上の攻撃性があるのだ。

 だから陽菜は水曜日がとても億劫だった。早く過ぎ去って欲しいような、まだ来て欲しくないような。そんな浮遊感に胃もひっくり返りそうだ。

「いえ、次の水曜日……そうなので」

「水曜日な、分かった」

「えっ?」

「何時集合?」

「……十二時」

「よし、送り迎えは任せてくれ」

 訪問診療を今後、本格的に展開するからと大きなバッグが玄関に置かれている。中には往診用の医療器具がずらりと整頓されていた。埃すら被らず手入れが施された物だ。

 怪我をする前提なのかは不明だが、顎で指された物を見た限り想定内なのだろう。人に殴られることは日常茶飯事だったが、正当防衛だろうと殴る側の経験は無い。

「先に言っておくが謝るのは禁止な。約束なんだから」

「…………あの。忠さんって、喧嘩したことありますか?」

「まあ……人並みに? 姉とは髪の掴み合い。物ぶん投げられて俺の頭にクリーンヒットはいつものことだった」

「髪……掴み合い……ええ……怖い」

「姉弟の喧嘩なんか、そんなもんだよ。何気に容赦無いからな、急所狙ってくるわ抓るわ」

 抓るなんて卑怯である。女性の方が爪は伸びているし、何なら肌が食い込んで痛いのだ。髪を引っ張られたり、頬を打たれる中でも一番嫌だったのは抓られる行為だった。暫く爪痕が残るし、鬱血痕も隠しやすい。

「忠さんが口論で勝ち越しそうになると、途端に拳で反撃されそうな感じ」

「うちの姉と比べたら、アンタは苦笑いして一旦謝りそうだな。場を鎮めたくて」

「……はい、やりがちなと言うか……いつもそうでした」

 拓実が陽菜の物を子供の頃、奪い去っても怒ったりはしなかった。いつ、拓実の背後にいる怪物の逆襲にビクビク怯えていたからだ。テレビでしか知らない家族の形や振る舞い。

 家族ならば、こう立ち回って、理想の姉はこう許してやるだろう。そうやって間違いを正さず甘やかしてしまったのも、陽菜の過ちである。決して拓実だけが悪者では無い。

「──じゃあ、アンタはやられたら、やり返しなさい。顔引き攣らせて笑って誤魔化さない。俺との小さな約束な」

 指切りをサッと交わされる。絡めた節々の太い指が離れると、陽菜の背中を優しく押して家に入るよう促した。

 上手く返事が出来ず、陽菜は代わりに頷いた。ウェッジソールのサンダルを履いていても、最賀の身長は少しだけしか縮まらない。ストラップを外そうとすると、最賀は膝を折って、パチリと外す。晒された足の爪先が熱を持つ。

「な、夏野菜カレー作りましょうか」

「そうだな、手っ取り早く」

 ドキドキ胸を高まらせしまう。最賀の大人の余裕に何とか合わせたくて、浮ついた心をはぐらかす。

 年季の入ったテーブルには段ボール箱に詰め込まれた野菜がある。茄子やズッキーニ、オクラ等様々な彩り。陽菜はその身の美しさに目を輝かせる。

「て言うか非番なのに……用事無かったか?」

「いえ……別に。一人しかいないので特に掃除や雑草抜きとかしか」

「……そうか」

「忠さんは?」

「俺がこんなに大量の野菜消費できるとでも?」

「た、しかに……」

「絶対あのババア、アンタ来るの見越して寄越したんだよ」

「ババア呼び禁止! 関さん!」

「関ババアの過干渉」

「笑わせないでください……」

 裏庭にある錆びた物置の片付けと、伸び放題の雑草。あとは不用品の寄付に、廃棄。これから家を売却するのに当たり、ある程度の掃除はしておくべきだ。査定額の変動に加えて修繕費も嵩むだろう。自分で解決可能なものは、予め手を打つべきである。

 そうなると、次は引越し先の目星だ。アパートメント探し、決まれば内覧に契約と課題は多い。職場から通勤時間は三十分圏内が良いな、とか。

「また、難しい顔しているな」

 考え事をしながら、野菜の下処理をしていると、最賀は訝しげな表情で陽菜の顔を覗き込んだ。


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