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第4部 溺れる愛

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「こんな重たい物、女性に渡すな三条」

「げ……最賀先生」

「せ、先生ッ、すみません……」

「いや? 俺も手が空いたから手伝うよ」

 最賀が眉を顰めて呆れた様子で陽菜を受け止めていた。脚立で作業していた三条の慌てぶりは顔を見なくても口調で察する。

 逞しい腕の中に包まれたまま、最賀は軽い物にしてくれと小言を垂れている。叱責すると相手が萎縮するので、単なる軽い注意だろう。陽菜を腕に収めた状態で暫く三条へやんわり説教をしている。

「……あの、先生」

「ん? 何処かぶつけたか?痛みは?」

「それは……大丈夫です、あの」

「ちょっと何先生ずっと山藤さん抱えてるの?!」

「え……あ、あ……悪い、腕の中に抱き止めたままで」

 小野寺が睨みを効かして、どすどすと床を踏み鳴らして段ボールを奪い去った。軽々と持ち上がって行くのを呆然と三人は眺める。

 ハラスメントに関しては特に、小野寺は職場環境の維持や人権の尊重を含め厳格さを放っている。患者に胸や臀部を触られる、下の看護をして欲しい等の言動は断じて許さない。

 医療従事者に対してのセクシャルハラスメントは問題提起をスルーしがちだ。

 何故か。問題にしたく無いからだ。

 理由は単純明快で、大抵はあなたが過剰に反応したと話を片付けたがる上層部が多い。ベッドを埋める、来院数を増やす等数字の邪魔になることは粗方目を瞑る。

 救急外来で当直をしていた頃は、陽菜も何度も訴えたが聞く耳は持たれなかった。掌を返して、挙句の果てに意見書に名指しで非難の嵐。非常勤の事務員を契約満了で切ることは容易いのだ。

「小野寺さん、あの先生が助けて下さったんです。多分今頃私、カルテの下敷きでした」

 さっと後ろに下がって、白衣の皺を伸ばした男の胸元にはネクタイピンが光る。クラシカルなデザインと上品な純度の高い素材で作られた物だ。
 陽菜が贈ったネクタイピンを早速身に付けてくれたらしい。顔が弛むのを必死に堪える。

「ナチュラルに触ってた気がする」

「いや、いやいやいや、彼女忘れるくらい軽いから、その……悪かったな?」

「本気でヤバい医者の権力で物言わせぬセクハラジジイになってたら、言うんだぞ小野寺さんに」

「そんなことは……」

「冗談よ、間に受けないでよね。最賀先生と山藤さんって、前からのお知り合いだったし? 何かあってもおかしくないって皆んなで話してたのよねー」

 悪い冗談だ。苛烈なジョークは何方に転んでも都合が良いのである。最賀は外部から来た人間なので、より当たりは強いだろう。

「ゴシップ好きな者で」

「そ、それは……先生の沽券に関わりますからッ」

「独身なんでしょう、結婚の予定は?」

「小野寺さん、そう言うのは本人のタイミングとか色々あるので勘弁してやって下さい」

「はぁーい、分かりましたよぉ」

 先程とは打って変わって、立場が逆転する。最賀のこの一言で小野寺は引いてくれたのである。若干陽菜も内心で安堵した。この手の話題は格好のターゲットになる。

 見合いを破断させ、介護に明け暮れ実母を看取った結婚適齢期の生き遅れた女である。

 おまけに、顔に傷もあるので突ける場所は四方八方あるのだ。

 一方で最賀も左遷先で飯田先生に声を掛けられたキャリア落ち、なんてことも此処では耳に入っているだろう。生物の情報は直ぐに流れて来る。鮮度が落ちる前に、だ。

 小野寺と三条が水分補給に休憩室へいなくなると、最賀がぽそりと小声で尋ねる。

「平気か?」

「え、ああ……私は大丈夫です」

「時計、似合ってる」

「う……、暫くそっとしてて下さい……、顔にやけちゃうので」

 居た堪れなくて、陽菜はカルテ庫から飛び出した。揺れるダークブルーのリボン、時間を刻む時計。まるで陽菜の全てが最賀のものであると体現しているようだ。体中が熱くて仕方が無い。

 カルテ庫に残された最賀が、結局後片付けをしたのを知って三人で謝罪しに行ったのは言うまでも無い。






 母家を四十九日過ぎたら、弟の拓実にとっても良い思い出のない家なので話し合って、元より手放す予定だった。
 拓実はパートナーシップを結ぶ為に隣町に住んでいる。その為、見合い話を急逝した母が仲介したこともあり、ややこの件が絡んでいる。

 拓実が出て行った後、がらんと一人広い家にいる。

 テーブルには真新しい防犯用タグと、アメリカン・ピット・ブル・テリアの凛々しいキーホルダーのついた鍵がある。最賀の家の合鍵だ。もしかしたら、ピットブルに似ていると言ったのを鮮明に覚えていたのだろう。

 まだ最賀には伝えていないが、この一軒家は元より手放す予定だった。陽菜には思い入れがなく、忌まわしい記憶の根端が詰まった家であるからだ。

 数日後に地元の不動産屋へ相談のアポイントを取ったので、売却がスムーズに進むのならば別の住居を確保するつもりである。

 けれども、田舎には一人暮らしが出来る賃貸アパートは少ない。最賀の様な持ち家がある人間以外は、概ね一軒家を持ち、世帯を持った人々が多いからだ。独身の人間は大抵親と同居をしている。

 考えることは相変わらず山積みで、散骨の件と弟に話さなければならない。恐らく、大反対をされるだろうが。早坂がびっしりと情報を詰め込んでくれたメモで確認しながら、陽菜は着々と過去と決別する準備をしていった。

「先生、眼鏡合ってないのなら眼鏡屋さん行ってきなさいよ」

 見苦しい、とピシャリと言い放った小野寺は容赦が無い。眼鏡が落ちてきて、何度も上げる動作を繰り返していたからだろう。下を向くと、ずるりと落ちてくる。

「あの……俺、まだ土地勘無いんだが……」

「私は旦那の夕飯の支度があるからねー……あら、山藤さんは地元だし眼鏡屋知ってるでしょう?」

「地元ですので……まあ」

「眼鏡なんて必需品なんだし、替えて来たらどうかしら?山藤さん、悪いけど先生お連れして下さる?」

 小野寺より、道案内を陽菜にさせると話は進んでしまい、勤務後に眼鏡屋に一緒に行くことになった。

 老眼デビューをした、と話は聞いていたので深く考えずに締め作業を終わらせる。早い人では四十歳から物が見えづらくなり、老眼と診断されるらしい。
 そもそも、老眼と言うネーミングはよろしくないと思う。




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