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第4部 溺れる愛
1-1【再出発と記念日】
しおりを挟む「時計?」
「それ、ヒビ入って危ないだろう」
「初任給で買ってから、ずっと付けてたので。そろそろ替えないと駄目ですよね危ないですし」
セールで一万円以下になっていた、淡いピンクゴールドの時計はかれこれ十年。共に過ごして来た代物だ。
表面にはヒビが入っており、最近は時間も遅れ出している。買い替えないと、と思いつつ重たい腰が上がらず今に至る。
「これ、三ヶ月目の御祝い」
「三ヶ月?」
「試用期間、頑張ってただろう?」
そうか、魔の三ヶ月は越したのか。
最賀から沢山の物を貰っている気がする。
先日、十着の服が一片に届いたし、知らぬうちに収納スペースは半分空いていた。陽菜の私物を置く場所らしい。最賀は元々私物が少ないので、ガラ空きだが。
「まあ、その……記念日はまた、祝いたいから、あー、期待しないでくれ」
「え、え……、あ、嬉しいです……」
新しい時計は最新モデルの携帯と連動するハイクオリティの物だった。万歩計や心拍の測定は勿論、電話にも出ることが出来る優れ物だ。バングルはステンレス製で水捌けも良い。
こんな高価な物を日々身に付ける人が世に溢れているなんて、とニュースで他人事と思っていたのに。まさか自分が身に付ける日が来るとは。
最賀は健康と合理性の為、と同じ物を着けている。もしかしてこれはお揃いの物なのだろうか。パチリ、と留め具をはめると小さく笑った。
「似合ってる」
「沢山、忠さんから貰ってる」
「んー? 俺も沢山貰ってるぞ」
「DVD……」
「いや、俺は良いんだ」
何を今更、と首を傾げた最賀に渡したい物はある。五年前に贈りたかった物だ。八ヶ月続いた短い恋が、五年を経て再度成就するなんて。
錆び付いた歯車が、油を差したことで回るのと同じで手を加えなければ決して動かない。関係を構築する術よりも、修復する方が遥かに難しい。
シルバーのネクタイピンは、一目惚れだった。ガラスケースに入った美しい物がぴたりと陽菜の足を止めてくれたのだ。
一瞬で目を奪われて、直ぐに店へ駆け込んだ。可愛いラッピングを施してもらったのを、昨日の事のように覚えている。
「八ヶ月目の御祝い……」
「……俺?」
「──渡しそびれて」
今度は箱を開ける番になった最賀は、瞬きを数回した。決して高価な物ではない。
だが、心は籠った世界で一つだけのネクタイピンなのだ。
「ネクタイピン、綺麗だ」
その優しい眼差しに、心は洗われる。最賀はきっと浄化作用があるのだろうか。
職場ではネイルをすることは出来ないが、時計は何度も合法的に見ることは可能だ。ネイルと同じで、お気に入りの物を視界に不意に入ると気分は上昇する。
「職場で俺があげた物、身に付けてくれ。些細な独占欲……なんて、みっともないか?」
首を横に振ると、最賀はやんわり赤らんだ己の首筋を触れる。伏せられた睫毛は相変わらず美しい。
「俺は堂々と身に付けて、毎日幸せを味わうからな」
「宣言?」
「宣言だよ、俺に出来ることなんて嘘偽り無く誠意を持って生きることだけだからな」
幸福を抱いて生きること。以前は諦めていた人生だった。虐げる人間は少なからず一人は旅立ち、ぽっかりと空いた喪失感や無力感は埋まりつつある。
山藤の表札を下ろす日も、そう遠くはない。
一つずつ、前に進むことで溜飲を下げることに繋がった気もしたのである。暴力に怯えて過ごした日々に終止符を打てたのも、愛情飢餓に陥って全てを諦めたあの日すらも。今では必要な過程だったと思えるのだ。
すべての出会いへ、陽菜は毎日感謝をする。
レースのカーテンから差し込む温かな光、炊き立ての艶やかな白米。雨風が凌げる屋根のある家に、身を包む通気性の良い服。
当たり前の日常は、決して誰かの当たり前でないことを。陽菜は知っている。
いつかは、叶うならば子供を……なんて。
でも決して、私はあの人と同じ思いはさせない。
その子を誰よりも愛し、慈しみ、生涯をかけて守ることを誓うだろう。
「三条さんって、整理整頓出来ないなら部屋の片付けも疎かにしてるんじゃないですか?」
「煩い、黙ってカルテ下ろすの手伝え」
「ちょ……待って下さい、重いの、これ……」
飯田診療所へ就職して、お盆時期を過ぎた。お盆前後は患者が里帰りをすることが多く、診療所はやや空いていた。
薬は前以て処方を済ませ、各々先祖に挨拶へ行くのだろう。やる事と言えば、空き時間が出来たらまずカルテ整理である。
都心部は電子カルテを導入する一方、診療所は未だに紙カルテだ。アナログ派なのか、方針なのかは不明だが。陽菜が幼少期から何も変わっていない。
カルテの量は膨大なので、久し振りの来院患者のカルテは探すのは大変だ。古い倉庫と化した所の奥まった場所から発掘することもある。
びっしりと書き綴られたカルテは、歴史を辿ることが出来る。来院歴と共に、分厚さを増したカルテは重量も勿論嵩む。
三条は脚立の上で陽菜に態と重い段ボールを渡して来た。本当に嫌な男である。地元出身者だと分かってからは、掌を返して明らかな意地悪は無くなった。
しかし、視界に入るのはどうも気に食わないと言う反応だ。地味な嫌がらせを三時間に一度、決まった時間に三条はする。その脱色した、疎な金色の髪を黒染めしてやりたくなる気持ちをグッと堪える。
────あ、だめ!無理、倒れる……っ!
態勢を崩して、ぐらりと後ろに倒れそうになる。体が宙に浮いて、体感時間は妙に長く感じる。体を捻って、カルテを横に流して頭部強打を免れるか。
はたまた、体幹の無い体で若干重さを分散して、薄い絶壁とも言える臀部で受け止めるか。
こんな時、友人の桃原のボンキュッボンな丸みのある臀部が己に無いことをひどく恨んだ。厚みのある丸み帯びた尻があれば、尻餅をついた所で痛みは緩和される。
だが、陽菜の尻はスッと桃尻では無い。絶壁じゃんと三条にハラスメント発言をされる程に、丸くは無いのである。
ぎゅっと目を瞑って衝撃を覚悟した。けれどもいつまで経っても痛みは体には知らない。
ぽすりと何かに包まれて、恐る恐る目を開ける。
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