戀の再燃〜笑わぬ循環器内科医は幸薄ワンコを永久に手離さない

暁月蛍火

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第3部 あの恋の続きを始める

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 陽菜が起き上がって、浴衣を着直すと男の腕が伸びた。陽菜を手繰り寄せて、抱き締めると首筋に顔を埋める。

「音を立てる……とは?」

「あー……こう、バサバサやる、とか?」

 薄手の掛け布団で扇いで見せて、衣擦れの音を出す最賀はまだ眠いらしく、片目だけぼんやり開けている。一度欠伸をすると、陽菜の頬にキスをした。

「おはよう、陽菜」

「おは……ようございます、忠さん」

 のそのそと鈍い動きで最賀は起き上がると、年季の入った漆塗のテーブルに放られた眼鏡を手に取った。その端正な横顔は何度見てもどきりと胸が熱くなる。

「……アンタの横顔って、息を呑むくらい美しいな」

「……忠さんの横顔は造形美ってくらい、綺麗です」

「え……俺?」

 ぽかんと口を開いて、驚きを隠せない様子だ。陽菜は自身を褒められるよりも先に、言わずにはいられなかった衝動に駆られる。

「はい、五年経ってもドキドキします。盗み見ちゃうくらい」

「盗み見って……堂々と穴が開くくらい見ても大丈夫だぞ。陽菜の特権」

 じわじわと後からやって来る気恥ずかしさに、陽菜は段々と顔が紅潮して行くのを感じ取った。目敏い小野寺に指摘されぬよう気を付けねば、と同時に思う。

 それでも、この男の顔は何度も見惚れてしまうのだ。シャープな顔立ちに、仕事中は鋭い双眸が眼鏡越しに隠されている。笑わない医者だなんて、相変わらず患者がむくれて小言を口にするが、本当は優しいことも。

 最賀の言葉一つで、救われる。この顔の傷すらチャームポイントだと胸を張れるくらいだ。

 好きな人から言われる、たった一言で最強になれる。恋とはやっぱり、甘い蜜の中に潜む毒と同じで摂取し続けると、狂おしい程に愛しい気持ちへと変貌するのだろうか。 

 さて、と最賀は先にシャワーを浴びると話して浴室方面へと向かって行った。陽菜は布団の中で丸くなって、この火照った顔を冷ましたくて仕方が無い。枕に顔を埋めて、身悶えてしまう。

 すると、インターホンが鳴った。チャイム音は昔ながらの、やや低目の音色だ。
 生憎、最賀はシャワー中である。居留守を使うべきか悩んだが最賀の世間体もある。陽菜は髪を手櫛で整えて、玄関の扉を開ける。

 そこには、一人の高齢女性が立っていた。手には紙袋で、中にはタッパーが複数詰められている。陽菜は最賀のサンダルを履いたまま、立ち尽くした。彼女は花開いた笑顔で、早口で陽菜の顔を見るや否やこう言った。

「あら、その浴衣! やっぱり、似合ってるわね!」

「あ、あの……?」

「私がはひふへほ先生に差し上げた物なのよ、良い子がいたら着せなさいって。良かったわ、良いお嫁さん来てくれて」

「はひふへほ……」

「ほらあの人、はぁ、とか、へぇとかしか言わないから」

 はひふへほ先生。最賀は、は行しか発さないのか。会話が早過ぎて、どう自分のことを説明したら良いか分からず、女性の話を永遠と聞いていた。

 最賀の近所とも言い難い距離だが、隣家には農家を営む大きな平屋がある。関家と達筆で書かれた表札が構えており、軽トラックや軽自動車等が良く出入りしている。

 甘味の強いキャベツや臭みの少ない人参、ハーブ類等多くの農作物を手掛けており、良くお裾分けを届けに来るらしいことは耳にしていた。

 昨夜食べた煮物は、確かにとても家庭的な味で美味しかった。陽菜はあの煮物の作り手だと瞬時に察して、御礼を伝える。

「ええと、あの、……その。あ、煮物美味しかったです」

「本当に?多く作り甲斐があるわー!」

「あ、トマト……良かったら。家庭菜園していてお口に合うか分かりませんが…」

 敷地内にある畑には男が家庭菜園をしているらしい。実がなっていたら適当に収穫して欲しいとシャワーを浴びる前に言われていたので、煮物のお返しにお裾分けをしたのである。

「御免なさい、若い子見て興奮しちゃって。私、関って言います。遠いけどお隣さんなのよ」

「初めまして、山藤と言います。すみません先生は今席を外しておりまして……」

「良い子がいたら着せなさいって言ったの、私。貴女にピッタリで良かったわー!」

「え……と、あの、とても手触りが良くて、軽くて着心地が良いです。ありがとうございます」

「まあ! 気に入ってくれて嬉しい! うちの息子のお嫁さんなんかね……」

 玄関先で十五分程度、関家に嫁いで来た女性の愚痴や炎天下の中の農作業の過酷さを相槌を打ちながら聞く。

 農家の仕事に興味あります!と挨拶で話していたのに、蓋を開いたら青虫や紋白蝶も嫌いで触れない、爪に土が入るし日焼けがと言っては収穫作業を逃亡するらしい。青虫は農家にとって大敵だ。
 大抵は発見次第シャベルで退治が、女性にとってもあの長目の胴体に動き、正面は気味が悪いであろう。

 陽菜は虫に対して苦手意識はない。湿気の多い時期はヤスデが離れに入って来ることも珍しくはなかったし、チリトリでかき集めていたくらいだ。ゴキブリだって、一人で退治しなければ大惨事が起こる。

 そうやって逞しくなり、虫には耐性があるのだ。

 今度は夏野菜を持って来るわね、と話がひと段落すると関は一人で完結させ、軽トラックに乗って帰って行った。枯葉マークが四方八方に貼られていたが、手慣れた手つきでハンドルを回している。
 この地域の高齢者は、逞しく強いなあと陽菜はぼんやり後ろ姿を見送った。

「は?! あのばーさんもう来たのか?!」

「ばーさんって……。関さんから、お蕎麦も頂きました」

 髪乾かす前に最賀はバタバタと慌ただしく出てきた。甚兵衛も微妙にはだけている。
 陽菜が服を直してやり、ついでに、髪も拭いてやる。眼鏡が曇ってしまって、裾で拭きながら、まだ朝の七時なのにと溢した。

「浴衣、関さんから頂いたのですね」

「……二言以上に多い人だから、何か……聞いたな?」

「良い子がいたら着せてあげなさい?」

「……あのババア」

「忠さん、お口が悪いですよ」

「田舎は全部筒抜けるんだな……」

 新しい環境に順応しつつあるのか、隣人との交流もあって陽菜は少しだけ安心した。縁側から見えるトマトが朝陽に照らされて、輝いている。今度ハーブや育てたい野菜があれば、と小さな約束すら嬉しいものだ。

 最賀は虫が苦手そうなので、虫が好まない種類を調べておこうと思った。今度は貰った野菜で料理を作り、関に持って行こう。陽菜は携帯端末のTodoリストに書き加えたのだった。


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