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第3部 あの恋の続きを始める

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 ──私、本当に此処で働くんだ。

 面接帰り、久し振りに着たスーツがやけに重く感じた。その疲労感すら、清々しいと思えるのはきっと、新たな道を歩み始めた証拠なのだろう。

 診療時間終了後に面接をしたので、陽はすっかりと落ちており、夕焼けが沈みそうだ。

 自宅へ帰り、一度伸びをしてから着替えようとすると。
 リクルート用の鞄の中の携帯が震えた。マナーモードを解除するのをすっかりと忘れていて、慌てて番号を確認せず取ってしまう。

「──もしもし?」

「……山藤?」

 その声音は、何度も鼓膜を響かせて記憶している優しい声だ。

「……最賀、先生」

「採用おめでとう?」

「え、ああ……お陰様で……その、はい」

 突然の着信に、陽菜は歯切れが悪くなってしまう。ぐるぐると何を話せば良いのだろうと、考える。

「──今何処にいる?」

 陽菜が会話を続けようと内容を倍速で頭をフル回転させていると、最賀が不意にそう尋ねた。自宅に帰って来たのはつい十分前くらいだ。

「ええと、さっき帰ってきたばかりで……」

 インターホンの呼び鈴が鳴って慌てて出る。

 すると、扉の前には自転車を敷地内の端っこに置き、肩で息をする男がいた。

「あ……」

「俺はチャリでBluetooth機能を使いながら……漕ぐなんて初めてしたぞ」

 はあはあ、と息を荒げている。携帯を下ろして、最賀と向き合う。
 耳に嵌められた白いイヤーフォンを取って、充電器に突っ込んでいる。

「……先生」

「ん?」

「汗だくです……ね」

 ぽたぽたと玄関前の埋め立てされた石畳に汗が落ちて染みが滲む。眼鏡を外して、袖で汗を拭ってから掛け直す。

「はあ、本当……この辺盆地なのか? 日照りがきついな……」

 陽菜が住む美沢は山に囲まれ、小川が多く流れる奥には海がせせらぐ田舎である。盆地に湿地帯と熱気が篭る特徴的な土地になっている。

 羽島は半島の様に分布しており、全体を指すエリアとしては羽島が一般的だ。知名度はあるのが羽島なので、美沢と聞いても地元の人間以外はあまり馴染みがないのだ。

「良く、私の……実家」

 覚えていましたね、と言いかけたところを最賀は言葉を被せる。

「一度来たからな、まだ頭は鈍ってないぞ」

「あの、混乱していて。母家に……人を招くのは遺品整理手伝ってもらった時くらいで」

「手伝い? なんだ、呼べばよかったのに……」

「だって、住所しか……。そもそも私、知らなかったので……」

「ん?あれ……名刺とその裏に俺の住所……」

 ばさばさと名刺ケースから名刺が落ちる。綺麗に真っ逆さまに紙が地面に広がって行く。

「あ……ああ……、うわ、はあ…格好つかない……」

 眉間に皺を寄せて、しゃがみ込んだ最賀は異様に小さく、そして自信なさげに見えた。
 陽菜は膝を折ってしゃがみ込んだ男と同じ目線で屈む。

「忠さん、拾いますから」

「意地悪で先生呼びしてるのかと思ったよ陽菜……心臓に悪いから」

「だって! 家に来るなんてサプライズ、流石に驚きますから……」

 ちらりと一瞥する。名刺は石畳から外れた、草抜きを怠った場所にまで散らばっている。

 陽菜は膝をついて一枚一枚、土を払い落として拾い上げる。リクルートスーツからはみ出した膝頭に土埃がついても、気にせず飯田診療所 " 副院長 " の文字が綴られる名刺を手にする。

「──迷惑だった、と」

「もう、意地悪なのは忠さんもです……」

「居ても立っても居られなくなって……若くないのに、もう……馬鹿だよな」

 溜息しか出てこない、と最賀は苦笑した。
 十三枚の名刺を拾って、年季の入った角が擦れたレザーの名刺入れに丁寧にしまってから手渡す。指先が不意に触れ合う。

 きゅ、と指同士が重なって最賀は何か言いたげにはくはくと酸素を求める魚の様な口の動きをする。

「良かったら、上がっていきませんか? 少し涼まないと」

陽菜はにこりと顔を綻ばせる。最賀の手を引いて体勢を起こすと、古びた引き戸に手をかけて玄関を開ける。
 がらがら、と来客を迎える玄関へ迎え入れる。陽菜は最賀を母家に初めて招いた。

 陽も傾き始めて、陽菜は出前用のファイリングを開いた。玄関から五歩先にある電話帳が仕舞われる黒電話まで歩みを進めるとパラパラと捲って、前回も出前を頼んだ寿司屋のページを見付ける。

「あと、お寿司でも取りましょうか。電話して来ますので」

 きゅう、と最賀のお腹が可愛く鳴いたので、陽菜はくすくすと笑ながら言う。
 最賀は確か、鉄火丼が手料理で得意だったなと思い出す。生魚は苦手では無いなと頭を過って、陽菜は受話器を手にすると。

「黒電話か、懐かしいな」

「……物持ちが良かったのでしょう」

 黒電話を未だに使用しているのは田舎のごく少数だろう。陽菜だって、携帯電話を契約してからは家電を契約したことはないし、文明の利器に非常に感謝していた。

 携帯一つで、固定電話を手に入れた気分になって、誰かの介入無く直接連絡を取れる手段を手に入れてからは家電の必要性すら忘れていたのである。

「すみません、二人前を……ええ、特上の……あ、出来れば大トロで無く、中トロを」

 大トロを多く食べられる様な、屈強な胃の持ち主では無くなって数年が経った陽菜はアラサーになると脂身が多いネタは控えるべきですら感じた。

「……俺の胃に優しい対応?」

「──お互い、歳取りましたから」

「まあ、そうだな。五年は短くて……長かったな」

 はあ、と吐く息が美しい。陽菜は口の中が唾液でいっぱいになり思わず飲み込む。
 最賀の変な素っ気なさに少しだけ不安になる。言葉にしないと伝わらないなんて嘘だ。

 人間は無意識に感情や考えを体現している。緊張や不安を感じたら貧乏揺すり等身体的反応がある。嘘を吐いたり居心地が悪ければ目は泳いたり瞬きを複数回する。

 最賀はその点、表情や身体的な動きが読み取れない。
 だから、陽菜は不安になった。

「先お風呂……あの、忠さん?」

「……いや、後で話そうか」

 陽菜は堪らず、もやもやとした空気を打破したくて直接的な言い方をする。ストレートな言葉は得意ではない。
 けれども、今は互いに必要なプロセスだ。


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