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第3部 あの恋の続きを始める
5-1【不確かで、危うくて、脆いのに、触りたい。】
しおりを挟む「最賀先生? ああ、腰悪くした飯田先生に代わって来た若い先生だろう?診療時間外でも、診てくれるのよ。うちの子供が……」
「訪問診療なんかまだしてないのに、足が悪いから行けないって突っぱねたら家に来てくれて。良く自転車で来てくれるわよ」
「あんなお人好しの医者が独り身なんて、酷だよ。支えてくれる嫁さんがいたら良いのにーって」
「看護師さんも滝汗かいて、事務の仕事もして大変そうなのよ」
不要なタオルや衣服は老人ホームや児童相談所へ寄附をした。
全て洗濯をし、古い衣服は雑巾にして各施設へ持って行くと狭い田舎では新しい医者が赴任してきたと噂になっていた。
ミシンで雑巾を大量に作るのは、正直単純作業だったので苦ではなかった。何か手を動かしていないと、余計なことを考えて気が滅入ってしまうからだ。
物を捨てるのはお金がかかる。使える物は寄付したり、フリーマーケットで売って物を確実に減らしていく。服の切れ端で給食袋を大量生産する。
ミシンと風鈴の音だけが響く。大量な縁側にかかる風鈴も一つだけ置き、全て売ってしまおう。
この家には陽菜の思い出など、無いのだから。
児童相談所へ何度か分けて持って行く。
親や家庭環境に恵まれず、預けられた子達が寄付の常連となった今では姿を見るや否やワッと集まってくる。新品の未開封で賞味期限が問題無い缶ジュースやお菓子を持って来るのを理解しているからだ。
子供達の話し相手をしていると、施設の職員から地元あるあるの情報が流れて来る。
スーパーの特売日や混雑状況、施設のスタッフが近所に住んでおり家族構成や家の住所等個人情報は知らぬところで広まっている。
陽菜の家も、話題の一つだった。昔は由緒正しい家柄で、女が強く殆どの山藤家の長女は婿養子を取る、と。
けれども時代は流れ、地主としての威厳性も欠けた今では廃れた忘れ形見だ。
「うーん、あそこの事務員さん。旦那さんの転勤について行っちゃって……若い子って中々続かないのよね」
若年層の定着率以前で、地元から出て行く為過疎化が進むのだ。
陽菜だって、あの掘建小屋の様な離れが嫌で手に職を付けようと逃げ出したくらいだ。准看護師や旅館に住み込みの仕事も考えたが、務まる自信が無く選択肢から外れた。
けれども、医療事務として知識を得て経験を積んだ今は胸を張って生きている。
不燃ごみに捨てられた大きな登山用のリュックに、荷物を詰め込み電車に飛び乗った自分を褒めたい。不燃ごみにタイミング良く捨ててくれた見知らぬ誰かに御礼も。
「あの診療所、時間外でも診てくれる先生がいてね。うちも助かってるのよ」
部活動やクラブに所属する子供達が、怪我をしたり病気にかかれば診療時間外でも診てくれる病院は必要だ。
陽菜も頭の怪我を診てもらったのは、診療時間を過ぎた十八時半だった。近隣の救急外来へ行けば、世間体も悪いし虐待疑いの子供だと、狡猾で己の評価しか気にしていない母だったからだ。
インフルエンザの予防接種は学校内で流行したことがあり、接種を強く推奨と口酸っぱく担任に言われて小銭を出して受診したことがあった。
それでも、かかりつけ医は陽菜の状況を知ってか深く聞いてこなかった。
──やっぱり、最賀先生が……あそこに。
住所は、やっぱり地元から愛される何十年もある、診療所だった。
陽菜がインフルエンザになったり、幼少期おたふく風邪を発症しても必ず母は病院へ途中まで連れて行ってくれた。唯一診療を断られない飯田診療所に。
古い外観と、自動ドアが壊れてしまい手動になっていること、院内は時折調子が悪くてエアコンが停止して扇風機がフル稼働するところも変わっていない。
休診日なのも、知っていた。
けれども、居ても立っても居られない衝動に負けてしまい、馬鹿みたいだと自嘲してでも訪れたかった。
男は玄関前にある、入り口のスロープで蹲み込んでいた。
照り付ける熱気の中、額に滲ませた汗を乱雑に真っ白いシャツの裾で拭っている。
「──あの。此処は、医療事務を募集、していませんか」
陽菜とゆっくり、目が合う。
キラキラと色素の薄い双眸が眼鏡越しに。手に持っているラムネの瓶が反射して、眩いと思った。
「……二十四時間募集しているぞ。もっと早く来ても良かったのに」
暑い中ソーダ味のアイスを渡されて、かぷりと噛めばじんわり広がるさわやかな味を舌に乗せていると、面接いつにする?と淡々と最賀に提案された。
形式上、と言いつつも開けたばかりの溶けたアイスの棒から甘い果汁が垂れている。
緊張と、高揚感と暑さにクラクラとする。体を冷まそうとアイスを頬張って、最後の一欠片まで食べてしまった。
ゆっくり食べれば、もう少し一緒にいられたのかとハッと我に返って絶妙にショックを受ける。
すると、最賀は暑いなあと目尻に溜まった汗を雑に拭ってから、ラムネ飲むかと渡された。既に口が付けられている物だ。試されているのかと、一瞬思った。
葬式の日、行き当たりばったりで勢いに任せて体を重ねたのは、間違い無く後悔など微塵もしていない。その確認作業なのだ。
大人は、軽はずみに恋愛へ発展すれば、面倒なことも二つ以上起こるものである。
だから、無言で巻き込むと示唆しているのだ。
「──貰います」
「共犯、だな……。はは……、なんて、な」
駆け引きともなる、最賀との攻防戦に乗った陽菜はラムネに口をつけた。しゅわしゅわと口の中が炭酸に塗れて甘く青春の味を舌触りで感じ取る。
「……これで、共犯ですね……私たち」
にこりと微笑む陽菜に、ぱちくりと瞬きを繰り返した男の反応が面白かった。
その手を掴む努力も、覚悟もこの五年間で培い、養ってきたのだから。曖昧にしたいのなら、それも大人の恋愛の醍醐味だと受け入れる。
──その間は、せめて私だけを……映して、忠さん……。
二人は暫く、日照りの強い中で喉の渇きを黙って潤した。言葉は多くを交わさなかった。
例え言葉が無かったとしても、互いの言いたいことや考えを理解しているようにも思えたからだ。
すると、最賀は三十分くらいしてから口を開いた。
「──風邪、引かなかったか?」
「え?」
「いや、布団とか……何処にあるか分からなくて」
「……あ、だからジャケット?」
「あんな濡れ鼠なのに、駄目だろう……男として」
「──先生は優しい……ですね」
「本当に優しい良心のある男ならば、此処に呼ばないだろう」
「あは……それなら、私も悪い子です」
「共犯者って、なんか……良いな。秘密を共有しているみたいで」
二人の恋愛が漸く動き出す。
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