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第3部 あの恋の続きを始める
4-1【転機の訪れ】
しおりを挟む「──え? 最賀先生って……総合病院を?」
「知らなかったのかよ姉ちゃん」
炬燵を片付けたテーブルで、甘塩っぱいお菓子を食べながら弟は怪訝そうに言う。
これから先の段取りを話し合う為に、弟の拓実は母家に来た。しっちゃかめっちゃかになっている、散乱した服や花瓶、そして生活感のある空間。
どれも陽菜には懐かしさを匂わせない物ばかりが溢れている。拓実はアルバムを広げて、沢山の写真を眺めては鼻を啜っていたので、彼の中には温かい思い出が詰まった場所なのだろう。
葬式の日、どうして陽菜の居場所が分かったのだろうか。
日が経つ程、疑問は膨れ上がっていく。
「──大きい総合病院辞めるなんて、どうかしてる」
陽菜は駆け落ちの件で、総合病院を退職した後に逃げるように実家へ出戻った。
その後の男の行動は知らなかった。連絡を一切閉ざしたので、キャリアを優先すべきなのに優秀な人材が退いた、など。
最賀忠という循環器内科医は、激務の最中でも繊細で且つ迅速な対応を求められる処置を確実に行える技量を備え持つ男だ。
口数が少ないものの、他職種からも信頼は厚くボンクラ院長と呼ばれる病院の跡取りの医者よりも腕が立つ。
そんな男が、部長クラスの地位を確立するキャリアコースを捨てて何処に行くのだろう。
──私の、せいだ……私が、早く、先生を……。
他の選択肢があったはずなのに、最賀は地位や名誉を選ばずに何を掴んだのか。陽菜は言葉を失ったまま、弟の怒気が混じった声をただ呆然と聴いていた。
表情一つ変えずに、淡々と仕事をこなしているように他人からは表面上見えるだろう。
あの大きな背中には抱え切れぬ人々の希望や願いを背負っていることを、彼等は知らないのだ。
透かして見えぬ、他人の生命を救う為に最善の治療法を模索して、向き合っているなんて仕事だろうと言ってしまえば終結する。
けれども、最賀は一人一人の患者と向き合っている。例え、治療に消極的であろうと、何が患者の予後が明るいかを共に考えて寄り添う。
親の承認欲求や見栄で救えなかった、一人の命と向き合った男は、確かに其処に存在してた。
陽菜がその居場所を奪ってしまったんだと。
「ふざけてる、馬鹿なんだ、あの人は取り返しのつかないことをしているのに」
陽菜は弟が何故、身の内話を知っているのかは良くわからなかった。きっと、葬式場で一方的に追い返した時に発展したのかもしれない。
弟は心底最賀を嫌っている。
それは、陽菜が見合い場で「忘れたくない男がいる」と両家の前で頭を下げて断った元を辿れば行き着く男であるからだ。
「──姉ちゃんを不幸にしておいて何様なんだ?」
携帯の手帳に挟んである住所が気になる。
確か、バス通りの近く。何処に住居を構え、勤務しているか自ずと分かるのに、頭の中でぐるりと一周回って来ては戻って来る。
葬式場で弟が一方的に最賀を責め立てていた時に、色々と状況を根掘り葉掘り聞いたようだ。羨ましい気持ちと、罪悪感の狭間に立たされた気分である。
最賀と陽菜は、あの日その話題を敢えて避けた。
二人の立場も、空白の五年間どう歩んできたか尋ねるのが怖かったからだ。知れば知るほど、きっと後戻りが出来ないところまで沼の様にズブズブと飲み込まれそうで。
何でも手当たり次第、猪突猛進に聞ける年齢を超えたんだと陽菜は落胆していた。
大人になれば、部を弁えて立ち振る舞うのが当たり前にすべきだと。言いたいことほど口を噤んで、笑って誤魔化す。陽菜は一番なりたくない大人になったかもしれないな、と思った。
「……私が、選んだことだから、あの人を悪く言わないで」
「だって………」
「それより、ルイスさんと喧嘩したなら、きちんと話し合いなさいよ?」
弟の住民票は既に、隣の市に移している。
母家には陽菜だけが暮らしていて、管理や広い家に一人でいる陽菜を拓実は心配しているのだ。
一度は諦めた人が、手を伸ばしたら届きそうな場所にいるなんて。
陽菜は押し込めた感情に蓋をして、話を上手くかわした。ルイスと喧嘩をして愚痴を溢しにやって来た弟を宥めながら、姉としての役割を果たす。
暫くルイスの鼾が五月蝿くて眠れないだとか職場のバーベキューに呼ばれて参加を悩んでいるだの相談に乗って、気分を変えた。
暫くすると、弟は本題を切り出した。遺品整理も兼ねて来たんだよと言うので、陽菜はついででしょうと喉元から迫り上がったが堰き止めた。
陽菜と弟は遺品整理を四十九日まで終わらせようと、黙々と片付けに入った。右から左へと箱を開けては不用品や真新しそうな物は寄附出来ると判断して選別する。
──人は死んでも、色々と大変なの……か。
二十代中間地点はあっという間に駆け抜けた気がする。
母の病名が確定して、入院が長引いたことは陽菜にとっては崖から転落する様に、破茶滅茶な数年になった。
病院で不穏状態からスタッフに噛み付いた、手を挙げた等の行為が何度かあるとその度に頭を下げに行った。
このままでは退院も視野に…と言う矢先に数値の悪化を辿って、ホスピスへの転院。その度に仕事を何度も休み、有給休暇を使い切ったこともあってか、職場には居づらくなったのである。
箕輪や医師の早坂には特に迷惑を掛けた。途中で過呼吸になったり、早退や欠勤が続いて仕事は中途半端に引き継ぐことが多かったからだ。
だから、退職と言う言葉が良く頭を散らす。
仕舞いには万年人手不足の病院で、とどめの一発は忌引だった。葬式の手配や納骨までの手配等で、何度も休む都度、天引きされる給料。
事務長からは出勤すれば、今日は早退ないよね?と嫌味を言われる始末だった。
何度も中堅クラスの常勤が抜けると、現場は混乱すると共に信頼は勿論崩壊していた。一部の人間からは地元で転職して、介護すれば良いのにとすれ違い様に言われるようになっていたからだ。
母が急逝して、陽菜は道標を完全に失っていた。
後ろを振り返れば、もう三十手前の年で、がむしゃらに走ってきた代わりに多くの大事な物を置いてきた気がする。
陽菜の現状を、近くで見ていた数人は休職を勧めるのも無理はない。
葬式や年金、保険等の手続きを粗方終えると、がらんと閑静な母家で陽菜は孤独を漸く感じた。離れで過ごすことが殆どだったので、母の介護や手続き関連が無ければ踏み入れる機会は無かったのだ。
足枷が外れ、重荷が降りたはずなのに、陽菜に残ったのは唯の喪失感と行き場の無い怒りだった。
──ずっと、喉につかえてる、感じ……取れない。
食堂付近に停滞する違和感は、あれからずっと続いている。
ある日、いつものメンバーが揃った。普段から世話になっている担当の早坂と、友人の桃原、そして大先輩である箕輪だ。
陽菜は退職届をいつでも提出出来る様に持ち歩いていた。と言うより、早くから打診されていた重圧と、一種の御守りである。誰かに背中を押されたかったのだ。もう頑張らなくて良い、と。
陽菜の憔悴していく姿を一番に感じ取ったのは、医者の早坂だった。顔を合わせる回数が高いのは、担当である早坂なので、何だかんだ口煩くともやはり生粋の医者である。
「お前が立ってられないんなら……誰かにしがみ付くしかないんだよ」
流石の早坂も陽菜の顔の白さに、心配して採血や貧血チェックを仕事の合間にしてくれた。血液検査のデータは幸いにも、異常値は無かったものの、目の下の隈を見て顔を顰めた。
眠れないか、と短く一言聞かれて陽菜は小さく頷くと、黙ってしまった。
「……常勤では、もう無理そう……ですね。介護休暇もマックス貰った手前、転職を勧められるのは仕方ないことです」
「……辞めちゃうの?」
「誰か、支えてくれる人は? 弟さんは……?」
「複雑な関係でして……。それに、やっと幸せになれる弟の生活を壊したくないから」
陽菜が壁になったことで、弟は二年前にパートナーシップ制度を利用して、やっとパートナーと結ばれた。
居住地を横須賀市に移し、同性パートナーである軍人のルイスと幸せに暮らしている。
「もう良い。仕事辞めちまえ、今直ぐに。死ぬぞお前」
「早坂先生!!」
「お前だけだわ早坂って呼ぶの! 桃原先生と呼べ!」
人員の入れ替わりが激しい病院では、五年の月日は古株メンバーに仲間入りである。
看護師の桃原と早坂は婚約を経て、二年前に結婚をした。結婚を前提での交際だったらしい。あの早坂と上手く恋愛出来るのは桃原くらいだ、と周囲も納得する程の横柄暴君主な医者であった。
それでも、なんだかんだ文句は言いつつも新人の陽菜を五年間も見捨てずにいてくれた早坂には感謝しかなかった。
そんな早坂だったが、結婚後苗字変更届を提出したのを知って周囲を再度驚きの渦に巻き込んだのである。
早坂は早坂国立大学病院の元御曹司で、長男坊と非常にエリート中のエリート出身が家柄をあっさり捨てたからだ。いや、決別なのかもしれない。
ネームプレートを瞬時に"医師 桃原"へ新しい物へ変えていたのは、陽菜も目が飛び出そうになった。良いだろ、俺は脱皮をしたと自慢気に意地悪く笑った顔が、何とも嬉しそうで陽菜は印象に強く残っている。
箕輪も二人目を出産して、現在は子育てに奮闘中である。
──あれ?私、ずっと介護・仕事・介護・仕事していただけ?
陽菜にとって、近しい三人は着実に己の人生を彩っている。それなのに、陽菜は一人だけ足踏み状態で何も変わってはいないとすら思ったのだ。
「今そんな話している場合じゃないです! 仕事辞めたら、交流は途絶えてより孤独になるかもしれないじゃないですかっ! 簡単に言わないで下さい!!」
一人悩みを抱え、挙句の果てに自ら命を絶つ人間も少なくはない。自殺大国の日本では、若者の自殺者は年々増加傾向であるからだ。
ぎゃんぎゃんと夫婦が大喧嘩している。陽菜は宥めようとしたが、早坂がぎろりと睨み付けて反論する。
「此処まで来るのにお前一時間半以上かかるんだぞ! 効率悪過ぎるだろ?!」
「知ってますよ! バスで中央まで出てから電車ですからね! 貴方よりも熟知していますからっ」
「分かってんなら少しは体もメンタルもボロッボロなミジンコに言ってやるのが御友人様の役割だろ?!」
「あのぉー……夫婦喧嘩やめてくださーい……」
早坂の後押しもあって、五年間勤めた職場を退職して充電期間だと言い聞かせた。
退職届は勿論、あっさり受理された。お荷物スタッフと漸くおさらば出来るとでも言わんばかりに、地元で頑張ってねと一言余計な見送り言葉を貰って。
きっと、病院側もやっと退職の意向を示したと胸を撫で下ろす反応だったので、陽菜自身も正直少し肩の荷が降りた。
もう頭を何度も下げて休み貰わなくて良いことが、一番陽菜にとってもストレスの根源を排除したのも安堵の一つなのだろう。
「あ、片付けとか、手伝いに行く?」
陽菜は荷物を纏めていると、受付ブースからひょっこり締め作業を終えた箕輪が顔を出した。脱いだ白衣を丸めて持って来た早坂が口角を下げて、首を傾げる。
「一軒家なんだろ? 一人じゃ無理だろ」
「先生、ぎっくり腰気を付けて下さいよおー?」
「いや、俺よりもコイツの方が心配だ。過去に二回もやってる」
早坂が桃原のいる方向へ顎で指したものだから、陽菜は目を丸くした。ぎっくり腰を年上の早坂よりも経験しているのは、恐らく職業柄なのだろうか。
いや、医師も看護師も肉体労働に変わり無いが、何が原因に直結したのかと紐解くには時間が少なかった。
「え……っ莉亜さんが?」
早坂の白衣を受け取った桃原が肩を竦めて眉を下げる。
「う……やらかしました……」
「なので、重たい物は俺とミジンコしか持てん。あとは、育児で腰痛めてる箕輪は半人前くらいだと思ってくれ」
「何それ! 先生だって片付け出来そうにないのに!」
箕輪が早坂へ肩をパシンと良い音をさせて軽く叩くと、急に立ち上がって威嚇をしたではないか。
なんて、大人気ない行動なのだろう。陽菜は揉め事を数秒で起こすのが得意な夫婦と箕輪を諫めて、有り難く要請を受けた。
その日は特段緊急を有するイベントも無く、予約は滞らず半日で終えた。祝日と言うこともあって、時短業務だったのも有り難かった。
善は急げと言わんばかりに三人が急遽手伝うと申し出てくれたのもあって、一度帰宅してから途中で合流となった。
陽菜が思った以上に遺品整理や自宅の名義変更等で忙しかったのを察してか、打刻後陽菜の実家へ箕輪と桃原夫妻を招く運びになる。
遺品整理と掃除、ゴミの分別に庭の手入れと仕事は残っているのを、桃原が手伝いに行くと提案してくれたのである。
タイミングが悪く、今日は海沿いでイベントがあると知って慌てて道路状況が芳しくないことを電話した。既に向かっている様子だったので、途中駅で合流し地元ならではの裏道を駆使して、実家へと車を走らせてもらった。
「遠い! 家まで送った時思ったが、遠過ぎるわ! 病院辞めて正解だ、五年も通勤とかふざけてる」
駅でハザードを焚いて三人は待っていた。陽菜は後部座席へ乗り込んで、数時間ぶりなのにまた顔を合わせられる喜びを噛み締めた。
──そうか、もう……これからは頻繁には、会えないんだ。仕事、辞めちゃったし。
五年間、顔を合わせていた馴染みの人達と離れるのはとても寂しかった。体をまず休めなければならないのに、自分が決めたことだが身勝手さにも落胆した。
「まあまあ……て言うか私結構車酔いするのに先生安全運転なのが意外過ぎるんですけどー」
「おい、手土産は?」
「持ってますから、貴方玄関に置いてあるって言ったのに忘れてたので私持ってきましたよ」
「そんな、別に手ぶらで良いのに……」
同乗している箕輪が隣で、にやにやと不敵な笑みを浮かべている。
「桃原先生は奥さんに相変わらず身の回りのお世話までさせてるんですねえ?」
「てめえ、車から降ろすぞ! 田んぼだらけの中で!」
「あ、先生対向車来たのでそこに頭突っ込んで下さい。じゃないとかわせない」
「はあ?!」
田んぼの間にある狭い塗装が辛うじてされた道のど真ん中でブレーキを早坂は踏んだ。対向車が遠目だが、来ているのを感じて、かわす場所を指示する。
地元の人間は対向車が来たら同時に通れない道を上手く、回避するポイントを熟知している。
そうでなければ、軽トラックと一般車両が正面に現れたら立ち往生してしまうからだ。
「地元民あるある、かわす場所知らないと睨まれます」
「はい、すみません…此処狭い道で凸凹なんです」
「こんな変な道通すなよ……」
大通りはナビゲーションで既に真っ赤に染まっている。渋滞が発生しており、車は動かない。
「イベントとCMのお陰で海沿いの大通り混んでるんで……仕方ないじゃないですか」
「はいはい、黙って奥さんの言う通りは聞きますよー」
軽快な会話は心地良かった。
環境が変われば、関わる人々も移り行くことがこんなにも悲しいことだなんて知りたくなかった。
変わり行く景色は地元に近付き、陽菜は交差点の手前の狭い脇道を指差して、早坂に道案内をする。
ゆっくりと左折をするも、ガタガタ道なので吃驚してかハンドルをぎゅっと握り締めて徐行する。真剣な表情なので、三十キロ道路だが地元民は速度を飛ばして走り抜くのだが助言はやめた。
もう、都会から来た人間なのはハンドル捌きや運転速度で直ぐにわかってしまうからだ。
後ろがつっかえており、何度か煽られたので陽菜はハザードを焚いて脇に寄せて先に行かせるように早坂へ促す。確かに三十キロキッカリ地元以外の余所者が走られたら、大変迷惑なことである。
枯れ葉の日焼けで変色したシールを貼った、老年の男性はスピードを緩めることなく早坂の車を追い抜いた。
「あー、凄いなあのオッサン……枯葉マーク貼っつけてんのにカッ飛んでったわ……」
「すみません、せかせかしてて……」
「お前免許あんの?」
「まあ、一応。この辺は免許無いと生活出来ないので」
陽菜が運転免許証を持っていることに、同乗者三人が一斉に吃驚した声を上げたので、陽菜は目を丸くした。
「え……意外でしたか?」
「いやいやいや、運転しているイメージ無いよ……」
「想像つかない、山藤ちゃんがハンドル握ってるなんてさ……」
「ミジンコに運転させりゃ良かったなこれは」
「保険の絡みで無理かと思いまして……。あと、私車高が高い先生の車は不慣れなので」
「まあ、確かに……」
田舎ではバス便も少なく、夜二十時以降は一切通らない。地元民は大体車かバイク通勤が多く、移動手段はバスが追加されるものだ。
それでも、買い物や通院、通勤には自家用車は必需品である田舎あるあるの現状に三人は絶句していた。
陽菜は実家を出る前までは、原付バイクでアルバイト先まで通っていたし、季節限定で農家の仕分け作業へ出稼ぎ経験もあった。
凸凹道を初心者マークをくっつけて、ハンドルを握り締めたのを覚えている。
意外と順応性が高かったのか、陽菜はあっという間に運転は慣れて、アルバイト先の高齢夫婦の通院に良く送迎をしていた。
月の小遣いのボーダーラインを越えるためには、そう言った小間使いも時として臨機応変に対応した。
自宅に到着して、陽菜は敷地内にある駐車スペースを案内し、玄関の鍵を開けた。早坂に古い建物だな、と見渡された時に初めて築年数が三十五年の年季に気が付いた。
──そうか、此処は……こんなに年数が経っていたのね。
古びた家屋、未だに現役の黒電話、軋む床。
全てが陽菜にとっては、真新しいと言うか新鮮で且つ見慣れないことばかりなので古さなんて考えたことがなかったのだ。
「お寿司、取ろうかと思って。お腹空いてらっしゃいますか?」
「十四時勤務の俺たちに聞くか?」
「ハマチ入ってるのお願いー!」
「あ、莉亜はイクラ食えないから抜きで」
「分かりました。先生は?」
「はあ? 俺?」
「巻き寿司希望とか?」
「なんで俺だけ巻き寿司なんだよ! 干瓢巻きは入れるなよ、俺嫌いだから」
干瓢巻きが苦手とは意外だった。金はこれ、と早坂が札束を何枚も陽菜に握らせたので、押し返す。
送迎会も兼ねてるんだからなんて珍しく穏やかな声で言われるから、陽菜は観念して受け取った。早坂に好きな物頼めよ、食べ盛りなんだからと付け加えられる。
「ふふ、分かりました。こんな感じで頼みましょうか?」
陽菜はメニュー表の内容を早坂に広げて見せると、うん。とだけ頷かれた。
追加でアレルギーの有無を聞いてから、陽菜は客用の湯呑みや箸を用意し寿司の出前を取った。黒電話が未だにある家も珍しいな、と陽菜は母家にある物の配置が全く分からず動作は鈍い。
客間から見える寝室の襖は風通りを良くする為に開けっ放しになっていたのを、すっかり陽菜は忘れていた。急な来客に焦って、スリッパを出したところまでは覚えていたのに。
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