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第3部 あの恋の続きを始める

2-4 ※

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「──いや、今度……良かったら一緒に選ばないか? 俺は果物沢山のタルトがお勧めだが、食べたい物は全部買おう」

 口をへの字に閉じていた結び目が取れて、涙の膜が張った大きな双眸は今度は最賀を見上げた。

「沢山……は要りません。でも、最賀先生……と選びたいです」

「ふ、遠慮しなくても良いんだぞ」

「……じゃあ、苺乗った、ショートケーキを」

「苺? ショートケーキは乗ってるのがスタンダードじゃ?」

「あ、ええと……私、一番上の苺は弟にいつもあげていて」

 最賀は眉間を摘んで、溜息を思わず溢しそうになった。苺のケーキなんざ、直ぐにでも沢山腹いっぱいに食べさせてあげたくなったのだ。

 ショートケーキの一番上の苺は、日頃弟にを貰ったお返しなのだろう。この女の家庭環境は複雑であることは知っていたが、不憫以上である。
 過去にタイムスリップが出来たとしたら、確実に合法的に救出し、医者というネームバリューを存分に使って保護するだろう。医者になったことを心底その時は後悔せず、だ。

「じゃあ、俺の苺をあげるよ。これからは二個以上食べられる、良いだろう?」

 女は顔を綻ばせて、最賀の胸元に顔を埋めた。ぎゅうと背中に腕を回して抱き締める。
 最賀も女の脆い場所を知れば知るほど、これからはどんなことが起きようとも守りたいと強く思うようになった。

 それから、女へ近所のケーキ屋のパンフレットを広げて、新作ケーキについて話をした。季節の果物を使ったタルトや、チョコレートムースケーキ、レアチーズ等様々なケーキが置いてある店なのだ。
 生憎の雨だったので、買いに行くのは次回に持ち越したが、先の約束をするのはとても心が躍ってしまう。

 会話に花を咲かせて食べた煮込みうどんは、やっぱり最賀が作るよりも女の方が格段に上手だった。




***




「はぁ……」

 息を吐く女の艶やかな声が、ずくずくと熱が篭る。

 女の匂いは、香水を選んで欲しいと言ったので、ぶらぶらとモールで探していた時にものの五秒で決めた。ふんわりと薫った香りが妙にしっくり来たからだ。童顔で甘ったるそうなのに、何処となく大人びており、それでいて危なっかしい。
 残った香りなのか、女が自分のものだと実感して情欲がより駆り立たされる。

「せ、んせい……」

「アンタは何かと……俺を煽るのが得意だな」

 時折、ひどく強い力で組み敷いて、支配したくなる。白い体を震わせて、涙ながらに訴えられても腰を打ち付けて背中をしならせたい。
 最奥まで暴いて、理性を壊して、強請らせたい。目の前にいる男しか目に映らせず、ただ欲しいと啼かせて隅々と骨の髄までしゃぶりつくしたいのだ。

 そんな加虐心を抱きながら、優しく、脆いガラス細工の様に触れるのは、偶に箍が外れそうになるが堪えるのも大人の役目である。

 貸した寝巻きは、裾が長過ぎるのとサイズが大きくて履けなかったらしい。女が着ると、大きなシャツが自分の物とは別物になっている。

 食事を摂った後、照明を暗くして、ゆっくりと急がず緊張した体を解す。

 口付けをすると、びくりと肩を震わせたが直ぐに鼻呼吸に切り替えたものの、未だに慣れずにいる。口端から漏れた息が何よりの証拠だ。

「先生のキス……は、深くて、いつも夢中になってしまいます」

 短い舌で、必死に最賀の舌と絡めて口をくっつけている。何だか辿々しいところも可愛い。全てが可愛くて仕方が無くて、肩甲骨から腰椎まで手が滑る。

 丸み帯びた尻は柔らかく、やわやわと揉めば腰を捻って抵抗される。胸元の尖りをシャツ越しに指先で撫でれば、服を押し上げる物が現れた。シャツのボタンを一つずつ脱がしていくと、女は小さく声を上げた。

「あ、明るい……ですからッ」

 眼鏡を無理矢理外された。視界がぼやけたことを良いことに、慌てて女はサイドテーブルに置いたみたいだ。照明を先程より暗くするので、最賀は首を傾げる。

「これじゃあ見えない。アンタが痛がったり、嫌なことを隠されたら、それこそ俺は何も知る術が無い」

「……だって」

「隅々まで見たいくらいなのに」

「でも……」

「不安じゃないか? アンタだって……誰としているか、明確に分かった方が」

「……先生、私のこと言い包めようとしていますか?」

 じいっと女は最賀が覆い被さっている最中、視線を逸らさず言う。
 女の痴態も含めて全てを隅々まで知り尽くしたいのである。眼鏡を取られたので、至近距離まで近付けると、頬を熟れた林檎の様に赤く染めている女が見えた。

「いやいや、俺はなあ……山藤が気持ち良くなっているところを見たいし、それこそ一つ一つの反応を……」

「最賀先生の、ムッツリ……」

「ムッツリ……まあ、男はそんなものです。好きな女性が乱れているところを見たい生き物だからなあ」

 隙をついてライトを明るくすると、くっきりと女の肢体は明瞭になる。

「あ!」

「アンタの顔が良く見える」

「だ、だめ……ッ」

 女の駄目、は羞恥心から来ているのを最賀は心得ているので、唇で女の口を塞いでやる。固く結ばれた口唇を舌で撫でると、女は観念して結び目を解いた。

 ちゅう、と舌に吸い付くと女は堪らず切ない声を漏らした。舌を絡めて深い口付けをしながら緊張を解いていく。

 身を預けて、シーツに横たわると膨らんだ胸元を灘らかに手を滑らせた。それだけでも感度が上がったのか、愛撫に期待しているのか女は甘い声が短く上がった。恥ずかしそうに、指を噛んで堪えている。

 双丘は芯を持っており、周囲を舐めて焦らす。ピンク色に染まった先端は今にも食べてもらいたいと言わんばかりに固く上向いている。
 唾液たっぷりの舌を這わせて、舐る。
 その蹂躙した動きに反応して、体をくねらせて身悶える。口は半分開いており、眦に涙を溜めてきめ細かい肌は湿っていく。とても快楽に弱いのか、前回よりもまた敏感に最賀の愛撫を記憶しているようだ。

 ──男冥利に尽きると言うか、何と言うか……。

 ずくりと最賀の剛芯に熱が篭る。本来、最賀は過去の女性達に遅漏で嫌だと叱責されたことがあるくらいだ。元恋人を満足させ、終了なんてことも屡々あった。人に尽くすことは嫌いでは無いが、名器の人間しか無理なのね!と平手打ちを食らったこともある。

 単に、最賀は体の相性と言うものが如何に大切かをその都度考えさせられる瞬間が多過ぎた。せめて体を重ねるならばと丁寧にすると、その分余計怒らせてしまう。
 誤魔化そうとしているんじゃない!と。自身の遅漏は締め付けが悪いと責められているみたいだと猛烈に激怒され、最終的に人格も否定されるのがオチである。

 だから正直、山藤陽菜とは相性云々では無く、やっと見付けた心の拠り所であり、愛しているからかもしれない。遅い速いは関係無く、ただ愛したいのだ。

 その理論でいけば、結局過去の女性達は最賀が医者であり高給取りだからと寄って来た蜂である。蜂蜜を求めて飛んで来たが、甘い蜜は無限には出ない。花粉をくっ付けていない蜂もまた、お互い様なのだ。

 女はその点、最賀をいつも心配している。

 ブランドバッグや高級フレンチ、家賃の支払い等求めてこない。興味が無いないのかもしれないが。

 それでも、世の中の二十三歳が興味を持つ物を欲していないので、それはそれで最賀は不安になった。女が興味を持った物は今のところディスポーザーと食洗機、そして苺が乗ったショートケーキだ。経済的支援を求めてもおかしくはないのに、一切強請ったりしない。

 女が一番欲しいものは、恐らく無限なる愛情である。

 最賀は家族愛を受けずに育ったが、極論で言ってしまえば最賀自身もどうだって良かったのだ。唯一、普通の反応をしたのは姉で、彼女は家族を築くことで無償の愛を得られると思ったくらいである。

 本当ならば、最賀は女の経済的支援をしたいくらいだった。ネットバンクで時折残高確認をするが、無欲であるが故に今の生活には満足している。給料に加え超過勤務に当直手当と金欠とは無縁である。

 それならば、手元の見える範囲で行動し、常に一緒に居たいと考えている。身内で金銭トラブルの様な問題を抱えているのならば、さっさと誓約書を敢えて母印を押させて金で女を実質買収すれば良い。

 だが、それは最終手段だった。女もそれは求めていない。弟へ風評被害もあるだろうし、世間体も悪くなるだろうから。

 最賀は世の中の問題は八十%金で解決出来ると思っている。金は合って困ることはないし、生活や人生を豊かにする手段である。両親も金と双方が一番だったから、子供の環境なんて顧みず仕事に明け暮れていたくらいだ。

「……先生、怖い、顔してます」

「……ん? 悪かった、ちょっとアンタをどう甘やかしてやろうか考えてた」

 納得がいかぬ表情を浮かばせていたが、最賀は美しい肉体を前にして、快楽のお預けをさせていたことに対して謝罪した。

 ちゅ、と心窩部から徐々に下へ降りて行き臍、そして鼠蹊部から内腿と唇を当てる。マーキングにも似た行為に、女の鼓動が高まっていることが肌の艶加減で何となく察した。

 下着をゆっくり下げると、とろりと蜜液が糸を引いて誘っている。甘い香りが漂う。清潔感があるからと、剃毛されてつるりと仕上がった秘所は丸見えだ。隠されること無く露わになって、蜜液がじゅわりと滲んで最賀を手招いている。

「そこ、は……」

 だめ、と言われる前に細い足の裏を抱えて顔を埋める。鼻梁が女の芳しい香りを捉える。快楽を得始めた匂いだ。
 びらんにキスをして、それから優しく舌で温かな蜜を掬う。くつろいだ温室へは指や舌をまだ入れずに、体の強張りを解す。

 薄い腹がひくりと小刻みに愛撫する度に波打っている。女は切ない声で耐え忍んでは、時折掌から溢れた己の甘い嬌声を遮る。
 それでも女の象徴は素直だ。どんどん蜜液が分泌され、丸み帯びた桃の様な臀部まで濡らして、足の力が抜けているからだ。足が広がっていけば、自ずと快楽をより拾えるし、より強く、緩急つけて高みへ案内出来る。

 勿論、抵抗して前髪を掴んで啜り泣いた初めての頃も、色情を覚えたのは男の性と言うものだろうか。やだ、と言いながらも体は陥落寸前で。高揚した表情は正に最賀を昂らせるには十分だったから。

 最賀は花開いて姿を現した、豆粒へ視線を落とした。女が一番感じる秘所である。大抵自慰をする時は此処を摩ったりするものだが、女は殆どしたことがないらしい。性的な匂いは確かに、揶揄って泣かしてしまうまで一切無かったくらいだ。

「せ、先生……」

 女は何かを感じ取ったのか、おずおずと最賀を呼んだ。敏感だから、怖いと胸の内を明かした。
 舌先が陰核へ触れると、細い腰が微かに揺れる。ぴちゃ、と唾液と蜜液が撹拌した音がやけに鼓膜に響く。なるべく、強くならないように最初は円を描いたり、行き交いする。女が堪らず強請り、降参するまで辛抱強くだ。

「お願い……」

 とうとう白旗を上げて降参したので、最賀は躊躇わずじゅるりと口に含んだ。口唇で挟み固定すると、舌の先端でぐりぐりと押し潰す。圧が若干かけつつ、抉る様に強い刺激を与えてやる。

 女は啜り泣いて、身を捩ってシーツを握り締めた。顎が後屈して、それからヒクヒクと足の付け根を痙攣させると、止め処なく蜜液が雪崩れ込んだ。
 堰き止めていた滝の様に洪水が溢れんばかりにシーツを濡らす。口を一旦離して、その蜜を啜り飲む。

 円やかな香りと、女の味がする。掬っても只管流れて行くので、口端が蜜だらけになろうと構わない。それだけ、最賀の愛撫に感じているのだと目の当たりにすれば、興奮もする。

 まだ、終わらない。女は陰核を甘噛みされるのが実は好きなのだ。歯を優しく立てて、刺激を与えてやると、甘ったるい高い声が出るのを最賀は知っている。
 最賀の手で淫らに乱れて、甲高い声で啼く姿を何度も何度も反芻しては、またこの目に映したい故にやりたくなるのだ。

「最賀先生……」

 脱力した体は、だらんとシーツに身を委ねている。挿入までは、指で狭隘を弛緩させる必要がある。こんなにも女性を抱きたい、なんて衝動は社畜ばりの勤務によって抹殺されていたのに。

 女を前にすると、駄目な大人になってしまう。腰を高く上げて熱杭で打ち付けたくなるし、手首を一纏めにして揺さぶって喘ぐ姿も見たくなる。欲深くなる己が嫌になる程だ。女の肌に吸い付き、体を味わってからおかしくなったのだろうか。

 いや、ただ女が愛おしくてはち切れんばかりの重たい愛が獣化して、永久に縛り付けたくなっている。


 ──この子を前にすると、俺はただの男になってしまう。みっともなく、独占して……。


 ぐちぐちと二本の指が泥濘を作り上げる頃は、女は溜息にも似た息を吐いた。安堵なのか、それとも痛みなのか。最賀は痛いか、と尋ねるとハッとした表情に変わり首を横に小さく振った。

「先生……、辛くないですか?」

「ん? 俺か?」

 怪訝そうな顔で女は最賀へ問い掛けた。言いづらそうに、口籠もっている。視線がおずおずと下に向けられる。昂った芯熱はコットンの寝巻きを押し上げていたからだ。

「い、や……辛いか辛くないかと言えば……俺のことは良いから」

「だって……」

 手を伸ばされて、思わず女の細い手首を掴んだ。小さな手が一生懸命不慣れながらも、快くしようとするなんて暴発してもおかしくない。

「こっちに集中するんだ、山藤」

 柔らかい耳朶を甘噛みして、耳の裏筋を舐める。指は腹側を念入りに摩っていくと、次第に声が大きくなる。
 びくりと内腿を引き攣らせて、最賀の手を濡らす。膣壁が収斂して、離さんばかりに締め付ける。息が整うまで暫く、女を待つ。大きく胸郭が上下して、酸素を取り込んでいる。

 絶頂の余韻を宥めて、頬を伝う汗を指の腹で拭うと女は睫毛を震わせた。大丈夫、と口にするが熱っぽい色情を映した瞳は若干不安げだ。

 暴発しそうなくらい、血液が剛結に集中しようと女を怖がらせては身も蓋もない。最賀は頬を撫でて、女が落ち着くまで待つことだけに専念をした。

 女は最賀の手を握って、微かに頷いた。

「怖い?」

「すこ、し……怖い……です」

「まあ、そうだよなあ……」

「体、作り変わってる感じが……ちょっと、戸惑ってて」

 体が作り変わる。なんて、爆弾発言をするんだ。最賀は捕食者にならぬ様に、慎重に事を運ばせて、手順を踏んでいた。
 それなのに、積み上げた理性を一瞬で崩壊される。グラグラと揺れ動く自制心を、頭の中で元素記号の語呂を唱えて何とか踏み留まらせる。

「──あんまり煽ることを言われると、俺も男だぞ……」

 膝裏を持って、体重をかけると蜜液と唾液で撹拌した淫猥な音が鼓膜を擽る。女が顎を後屈して、背中をしならせる姿は美しかった。挿入しただけなのに、軽く達したのか膣壁が愉悦に浸り畝っている。

「……はぁ、最賀先生は……ッ慣れてらっしゃってて……少し嫉妬し、ちゃいます」

 荒い呼吸を整えようと、女は不意に本音を吐露した。

「慣れてるように見えるなら、そりゃあ光栄だ。アンタが思ってるほど、場数は踏んでませんので……」

 両手くらいの交際人数はいるものの、大抵は決まった捨て台詞を吐かれる。

 前戯が長過ぎる。

 私のことを好きじゃない。何考えているか分からない等。

 様々な理由でビンタを食らった経験のある最賀は、女心は正直分かっていない部類だ。察してちゃんには、多分向かない男であることは自負している。
 けれども、女には格好をつけてでも、優しく、包容力のある大人な恋人として振る舞いたいのだ。

「俺はアンタだけに優しくしたいだけで……」

 女は最賀の頬を両手で包み、首を伸ばした。触れるだけの口付けをされて、その女の行動に最賀は瞬きを数回した。

「先生……好き」

「ん? 俺もだよ、山藤」

「疲れて寝ちゃっても、平気ですからね?」

「こんな可愛いアンタを前にして睡魔に負けるわけないだろう」

 背筋がぞくぞくと加虐心に襲われる。

 なんて、愛おしい子なんだろうか。

 世界で一番愛しているのは、自分だと叫びたいくらい女への執愛に身を焦がしそうだ。睡魔になんて負ける訳が無いだろう。こんなにも感情に乏しい男を欲情させ、固執する程の燃える戀情を焚き付ける女はいない。

 女の良い場所を中心に、剛結で抉って、めり込むくらいの愛情と共に快楽を植え付けてやりたい。そうやって、底なし沼に嵌り、息が出来ないくらいの恋に喘ぎたくて。

 最賀はぐっと体を倒そうと、前屈みになると。
 けたたましくも、不穏な空気を纏った着信音が二人を遮った。蜜夜をぶった斬るのは、目測がつく何かであることを、察してサイドテーブルに置いた携帯へ一瞥する。

「──悪い、電話だ」

 挿入されたままの女は声を出さない様に、ただ微かに頷いて口を手で塞いだ。着信に出ると、早速勤務先からの緊急連絡であった。

「……最賀です。……はあ、分かりました」

 お休みのところすみません、からスタートして切り出される、嫌な予兆は大抵当たる。担当患者が急変か、緊急処置や手術の依頼なのか。

 最賀が顔を顰めながら電話対応中、女はひたすらに声を噛み殺して、胎内に留まったままの芯熱の存在に悶えていた。中がうねうねと波打つくらい最賀を離したがらないし、襞は密着して締め上げる。

 対応を仰がれたので、淡々と指示をしつつ腹奥に燻った熱は冷まさないと。現実味を帯びた呼出に、クールダウンしていく。

「……今から、あー……はい、向かいますので」

 ──最悪だ。

 一度退院した担当患者が夜間ヒートショックを起こした結果。急変し、処置が必要だと言う連絡であった。バイタルも芳しくなく、一分一秒を争う事態であることは最賀も空気で察した。

 こんな時の空気を読むスキルばかり向上して、何も役には立たないのは分かっている。患者の命を救うには、一刻も早くタクシーを拾って病院へ駆けつける必要があった。

「先生、病院から……でしょう?」

「悪い、本当に……」

「謝っちゃ駄目です……」

 深々と息を吐いて、最賀はぬるりと芯熱を抜いた。泥濘した温床から蜜がてらてらと光っており、名残惜しそうだ。最賀だって、緊急の呼び出しがなければ女を悦ばせ、快楽に酔った顔をじっくり目に焼き付けたかったのに。

 最賀は渋々と支度をする。二度目は誰にも邪魔をされたくなくて、念入りにオーダーチェック漏れが無いか再三確認したのに、と悪態を吐きたくもなる。

 ──タイミングが、悪過ぎる……!!

 循環器内科医は多忙である。夜間やプライベート、休日等お構い無しに呼び出されるからだ。
 人手の少ない深夜や早朝と発作を起こすことが多く、搬送件数も冬場は特に増加する。中でもヒートショックはかなりの人数の命を奪っている、十一月十二月辺りから顔を出してくる悪魔だ。

 ヒートショックと言って、急激な寒暖差が生まれる浴室から脱衣所、トイレ等で血圧変動を起こし心臓へ負荷をかけ脳出血や心筋梗塞等を発症することもある。

 近年建てられた一軒家やマンションは断熱材が入っており、傾向としては起こりにくい造りになってきている。

 ただ、古い家屋は未だに外気温との温度差がある為、高齢者が引き起こすリスクが未だに高い。冬場はなるべく風呂に入る前に浴室を熱いシャワーで寒暖差を無くして、温かい浴室の中である程度バスタオルで水滴を拭いてから出る等の対策は必要である。

 指導は勿論口酸っぱくするものの、浸透率は低い。寒くなる季節の変わり目に油断すると、搬送されてくる。ストレッチャーが勢い良く入ってくる度に、ああもうそんな時期か……と嫌に実感する。

 最賀はシャツに袖を通して、スラックスに履き替えると、女は乾燥機に掛けていた服を見に行こうとした。先程までグズグズにしていたせいか、足に力が入らずよろけたところ、最賀は受け止める。

「ん? なんでアンタ支度しようとしているんだ?」

「え……いや、一緒に出ようと思って……」

 乾燥機は相変わらず回りっぱなしだった。女の服のスペアは置いていないので、帰れるわけがないのだ。

 だが、最賀自身帰る口実を失って欲しかったのかもしれない。
 ずるりと大きな最賀の服で、女の晒された肩にキスを落とす。帰れなくしたのは最賀なのだから、今この瞬間に例の件を出せば良い。

「鍵、渡しておくから」

 これでスマートに、自然に渡すミッションは達成した。最賀はポケットからスペアキーを女に手渡して、少しだけ己が誇らしくなった。プライドは微塵にも持ち合わせていないものの、如何に自然体で渡せるかが鍵だったのである。

 いきなり合鍵だからと渡したら、せっかく懐柔したのに警戒されてしまうと思ったからだ。
 女はこう言った一つ一つの行動に、ひどく慎重で敏感である。体も、心もだ。

 これならば問題無い。まだ日付が変わらぬうちに家を出る最賀だからこそ、終電も無い女はこの家で休める。あわよくば、明日休みであれば何とか帰って顔を見たい。

 すると、女は予想の異なる反応を見せた。

「帰る時、ポストに入れれば良いですか?」

 ──いや、いやいやいや!! なんでそうなる?!

 喜ぶ反応以前の、返却する方向性に進んだ思考に最賀は驚愕した。一瞬、拒否されたのかと思って青褪めそうになる。そもそも此方の意図が汲めなかったのだろうか。
 何方にせよ、受け取ってもらう以外選択肢は無い。

「いや!! あ……持ってて、くれ……」

 最賀は思わず大きな声で否定してしまった。

 ──声のボリューム調整上手く、なんでいかないんだよ俺!! 馬鹿だろ!!

 自分が思った以上に大きな声が出てしまって、慌てて口を手で覆う。

「……いつでも、来て良いし……、何なら荷物とか、置いて欲しいとか」

 最賀がごにょごにょと口籠もって声を曇らせていると、女が恐る恐る尋ねる。

「あの……」

「ん?」

「えと……良いんですか?」

「良いも何も……先走って前回言いそうになったくらい……重いか?」

「重くなんか……」

 女は一度掌にある合鍵に視線を落としてから、再度顔を上げた。満面の笑みで最賀へ感情を表に出す。

「此処で待ってます、から……気を付けて行って来て下さい。朝ご飯用意して、その」

 朝ご飯を用意して、待っている。

 その言葉が最賀の重々しい空気を浄化させる。楽しみにしていた時間を仕事で奪われ、重々しい足取りで職場へ向かうはずが、帰って来た後の御褒美が待ち受けているなんて。

 まず、帰りを待ってくれる人間は過去に殆どいなかった。運動会も、入学式も、医学部の卒業式の帰りも、皆が踵を返して背を向けて退屈な時間と言い残して帰ってしまう。

 だから、女が帰る場所に居るなんて、これ以上の喜びを望んだら罰が当たる気がした。カラカラと乾燥した喉に声が吃って、最賀は唾液を飲み込む。本当に?夢だったら怒り狂うぞ、と心の中で自問自答しながら女には返す。

「──居てくれるのか?」

「私が居たい……んです」

 最賀が知らぬうちに落としてしまったジャケットを拾い上げ、着せてくれる。ぼーっと幸せのあまりぼんやりしていたので、最賀が続きの件を唐突に思い出して女に言う。

「途中で色々やめて、悪かった。帰ってきたら続き、するか?」

「つ、づき……」

「冗談」

 女が軽く最賀の服の裾を引いて無言の抗議をするものだから、緊張感のある現場に向かうのに、何だか肩の荷が降りた。

 最賀は携帯や鍵等最低限の物をポケットに詰め込んで、行ってくると伝えてから寝室を出た。寝ていても良いと付け加えて。夜通し待っていたら、それこそ負担である。

「あ、待って……ッ」

 玄関先へ歩みを進めると、女は最賀を呼び止めた。振り向くと、柔らかい物が唇に触れる。女から口付けをしてくれたらしい。一生腕の中に閉じ込めたくなる衝動を胸の内に押し込んで、沁みる幸せを噛み締める。

「行ってらっしゃい、最賀先生」

 タクシーに乗り込むと、一通のメールには朝ご飯の希望、教えて下さいねと女から届いていた。車内で、首筋が熱くなるのを感じながら、ひやりと頬を撫でる風にただ身を預け向かうのだった。





 ずっと夢の続きを見られたら良かったのだ。





「先生が私の為にキャリアを捨てるなんて、駄目です……そんなの、絶対、駄目です」


「愛してます、一生、何度でも……来世でも。だから、私の手を離して、どうか幸せに」



 愛しい女に、最低なことを言わせている。


 言わせてしまったのだ。


 儚い恋だったと、認めたくなくて今も一歩すら前に踏み出せずにいる。


 十六年も先を歩んでいるのに、正しい道を示してやれないなんて。


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