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第3部 あの恋の続きを始める
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しおりを挟む「──五年、思い続けてきた」
うとうとと、微睡の中男の優しい声音が居心地が良かった。少ない言葉の中に、それでも確かに愛は存在していた。
一夜の過ちだけでも、なんて口にしたくせに。一番欲しかった男と体を重ねてしまえば、欠けたパズルが嵌まるのと同じである。
貪欲に、誰に邪魔をされても己が破滅しようが、離したくないと言う強い独占欲が芽を出した。
陽菜は浅ましかろうとも、最賀が陽菜の居場所を探り当てて、過去の確執すら押し退けてでも会いに来た決意だけを噛み締める。もしかしたら、隠れて会いに来たのかもしれないが、今だけは胸の内に追いやる。
ただ、今はこの男の温もりに抱かれていたかった。
「──夜明け前まで、一緒に居てほしいって、我儘言ったら迷惑ですか……?」
「どうして?」
「夜が明けたら、私達はまた……」
「他人になるって?」
他人、と言う突き放した言葉がグサリと胸に刺さる。陽菜は眉間に皺を寄せて、他にも言いようがあるのにと思った。
いや、既に恋人でもなんでもないのに別枠の関係性を作ろうと躍起になるのもおかしな話しだが。
「……他人、なんて」
「悪い、年を取ったからか……前に一歩踏み出すのが、重たく……言い訳だな、これは」
自虐的な物言いから滲むのは悲壮感である。
「せめて、俺は……ただの他人じゃあ、なりたくない」
最賀が切なげに目を細めて言うものだから、陽菜はハッと我に返る。
「いや、その……他人だなんて、思ったこと一度もないです」
「夜勤中にアポった患者の対応でヒーヒー言いながら朝迎えた挙句、髭剃れず外来やってても他人のフリしないか?」
よれた白衣に無精髭で小汚いぞ、と駄目押しに何故か付け加えられる。陽菜はどんな意図が含まれているのか汲み取れず、小首を傾げた。
「その場合は外来診療中に小刻みに身なりの整えを重ね、合間の時間にサッと飲める携行食準備しますので……」
アポるとは、確か医療用語の略式で脳卒中を意味する。主に脳血管障害によって意識や神経障害が発生していることを指す。
陽菜が検査専門機関に勤務している最中、何百と聞いた用語だ。緊急性が高く、紹介状や緊急搬送の手配等バタバタと慌ただしく対応した記憶がある。
書類の用意や、急変時の記録係として事務員も人手が足りなければ参加する。意識や麻痺の有無や瞳孔所見等観察を行い、直ちに処置の行える病院へ搬送する必要があるのだ。
現場は騒然とし、嵐が過ぎ去った後の診察が滞ることを加味して、予約の調整や待合室にいる患者へ医師が救急車に同乗した為診察が大幅に遅れることを説明しなければならない。陽菜自身もその対応に追われたし、げっそりとした顔で帰ってきた早坂達を迎えた気がする。
夜勤中であれば、病院の設備によるが直ちに検査や必要な処置であっという間に朝を迎えるだろう。
陽菜であれば、クラークとして担当が誰であろうと医者が円滑に仕事が出来る環境を整えるのも仕事の一環として行うだろう。予約の整理、診察が一区切りすれば時間調整し、彼等が与えられたタスクを処理出来るようにするのもまた、仕事であるのだから。
「──アンタって、やっぱり良いひとだよ」
「ええ?それは、診療が円滑に進行する為に……あと、先生、が……」
「うん」
「最賀先生……の診察についていたら、絶対、そうします。他の先生に贔屓とかじゃなく……」
「うん」
「……うん、だけじゃなくて……何か」
「ああ、感動を噛み締めてる」
恐らく五年前ならば、陽菜は目の前で誰かが倒れていてもあたふたと慌てて何をすべきか分からずにいただろう。医師や看護師を大至急呼んで、対応してもらう。
それが普通だ。適切な処置や対応の仕方なんて、医療事務には分からないのが当たり前である。
だが、チーム医療の大切さをこの五年間で痛い程知ってからは陽菜は格段に医療や仕事への向き合い方が変わった気がする。ただ、任せっぱなしではなく、一団となって医療を担う人間としての自覚が芽生えたのだ。
彼等と同様に、陽菜もプロフェッショナルであることを。
陽菜の成長ぶりなのか、それとも再会した嬉しさになのか男は感激していた。目尻に皺を寄せて、顔を綻ばせる。
「──会いに来て、良かった。アンタに会いたくて、もう……死んでしまいそうだった」
「わた、しだって……」
「──いや、不謹慎、だったな。疲れただろう、ゆっくり……お休み」
まだ、沢山会話がしたかったのに陽菜は強い眠気に襲われた。抗えぬ睡魔の中で、最賀は陽菜の汗ばんだ背中を摩ってより深い眠りを誘う。とんとんとリズム良く陽菜を呼吸を落ち着かせるせいで、陽菜は瞼が重くて仕方がない。
まるで、子供を寝かしつけるかのように、優しく、微睡に陽菜はうつらうつらと船を漕ぎ始める。
「せ、んせ……まだ、寝たく……ない」
「ーー大丈夫、安心して目を瞑ってごらん」
瞼に温もりを感じて、最賀の口付けだと感触だけが知る。眠くて仕方がなくて最賀の腕の中で眠れるこの瞬間が幸せで、もう少しだけ居させて欲しいと願った。
悪夢を見ることもなく、本物の愛しい男に触れ合えて徳の貯金を切り崩してでも起きていたかったのである。今まで散々、我慢を強いられて来た人生の中でほんの一瞬だけ、二時間独占したって罰が当たらないはずだ。
それならば、二十八年間積み上げて来た良い行いをした積み重ねである"徳"だって存在するのは不思議ではない。
一秒でも長く、同じ空間に居て、呼吸するだけで良いから。
──だから、まだ眠りに落ちないで。
****
目が覚めれば、やっぱり男はもういなかった。男のジャケットが掛けられて、夢を見ていたのだと涙した。男はただ、陽菜の体を衝動的に抱いたんだ、と。
「……でも、これで、良かったんだ」
陽菜を地上に引っ張り上げたのは紛れも無く最賀忠である。五年が経過しようが、それは変わらない。移り行く一秒の狭間ですら、事実は覆ったり塗装で変えられやしない。
ジャケットが陽菜を纏い、閉じ込めていた。微かな希望すら感じた。
それが、叶えたくても叶えてはならぬ禍々しい遺物に成り得ても決して目を逸らさないと決めたのに。直ぐにぶれてしまうのは、最賀と再会してしまったからだ。一時でも、一瞬でもこの両目に射止めたのは、陽菜を独りにはさせない。
けれども、テーブルに、乱雑に書かれた、見覚えのある個性的な流れる書き方をする男の字。紙には住所だけ、綴られている。冷たくなった、自身の体を掻き抱いて、不器用で子供じみた抵抗にも思えた。
「先生、私達がもしも祝福されなくても……私を、また……」
愛、だとか、好き、だとか簡単には口に出来ない年齢に陽菜はなっていた。
二十八歳、言葉を羅列して吐き出すには相応の決意を胸に秘めて相手の人生を背負う覚悟が容赦無く降り注ぐ。
だから、最賀忠へ愛している、が言えなかった。
どれだけ愛したって、行き着く場所は崖下であることなんて分かっている。
頭では、クリアな思考で理解しているのに、終着駅を目指そうと鈍い幻が決して諦めてくれないのだ。
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