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第3部 あの恋の続きを始める
1-5 ※
しおりを挟む恐らく、十六年も先を歩く最賀は気が付いていただろう。大人はそうやって、崖下に落ちるのを回避しているのだから。
「……会いたかった、一目で良いから、忠さんを目に映したかった」
「本当……か?」
「嘘吐いたら……針千本です」
「ふ、針じゃなくて、キス千回とかの方が良いな」
「千回でも一万回でも……忠さんと、します」
やっと張り詰めていた最賀の顔が綻んだ気がして、陽菜は胸の内で安堵した。
雨で濡れた肌は冷えているはずなのに、何処か熱かった。きつく抱き締められて、怒りをぶつけられたらと浅ましい考えを払拭させられる。
五年の月日は二人を孤独にしたのかもしれない。
だが、再開して直ぐに体を求めたのは、誰から見ても安直で、滑稽で、疾しいだろう。
それでも、この男が欲しかったのだ。
「痛くないか?」
再び、そう尋ねられて陽菜は首を小さく横に振る。痛かろうと何だろうと、避妊具越しからは熱量は半減される。
いっそのこと、ミリ単位の壁を取っ払って子宮の奥深くに放たれれば満たされるのかとすら思った。
だが、最賀はそんな軽率で浅はかな、陽菜の体を乱暴に扱うことは絶対にしない。陽菜はその優しさにすら溺れる。
最賀は己の快楽は二の次である。陽菜が痛く無いか、体勢は窮屈で無いかとか、そんなことばかり気遣ってくれる。陽菜を第一に考えるセックスは確かに体の負担は少なかった。
それでも、陽菜は最賀に快楽も、欲求も、汚い感情すら直接ぶつけて欲しかった。
乱暴に扱われても、きっと陽菜は最賀を受け入れると分かっているからか、幼稚で己の欲望を優先した行動は影に潜んでいるのだろう。
陽菜は最賀といつか肩を並べて、前を向き歩ける様に五年間もの間必死で足りないものを補い、培い歩いてきたのだ。
そうして、最賀が手を引くのではなく、一緒に歩みを進めたくて、今の陽菜がいる。
「……陽菜」
「忠さんで、埋めて欲しい……です、だめ、ですか?」
「駄目なわけ……無いだろう」
くぷくぷと粟立つ淫猥な水音が狭い部屋に響く。陽菜は骨盤が開かれて、最賀を受け止めようとする体へあっという間に作り替えられる。
「は、ぁ……っ、ただ、しさ……んっ、ぁあ、は、あ……っ」
最賀の背中にしがみ付いて、陽菜は無意識に爪を立てた。
それくらい、離れがたくて先行きが見えないからこそ一回一回が深くなる性行が、一部になっている。夢の中で一心不乱に互いの熱を利己的に、ぶつけ合っていたのとは相反した快楽だ。
掌が熱くなって、肌がじんわりと汗に滲んで、生身の最愛の男と情交している。陽菜は歓喜の涙が眦から落ちて、頬を濡らす。
「ん、あ…っ、きも、ち…ぃ……っです」
「うん、俺も…気持ち良いよ、陽菜」
「もっと……くださ、……ぁ、……っあぁ、ぃ、く……いき、ます……っ」
律動が腰に響いて、子宮が降りて来る。最賀の穿つ熱芯は温床の泥濘へ従順に蠢いている。激しく貫かれると陽菜は啜り泣く声で喘ぎ、最賀との隔たりを嘆くのだ。
せめて、このラテックスの薄さすら凌駕した、粘膜同士の干渉を許して欲しいとすら切望してしまう。
渇いた喉が潤されるように、水を注いでくれたら良いのに、なんて。
唇を互いので塞いで、隙間なくぴったりと重ねながら情交を深くする。早まる抽挿と、荒い吐息の中で雨脚も強く屋根を打ち付ける音。
陽菜は舌をじゅう、と吸われると背筋から尾骶骨にかけて電気が走った。目を一瞬見開いてから、腹奥が爆ぜる感じがして鼠蹊部がピクピクと小刻みに痙攣する。全身が快楽に飲み込まれて、陽菜はその波に喘いだ。
男も続いて、収斂した膣壁に合わせて波打つ。何度か小さく息を吐いて、吸ってと繰り返して最賀は吐精した余韻に浸っているのか、男の色香が漂う。
「陽菜、お願いだ、忘れないでくれ」
重たい男の体が陽菜に体重を預けて、耳元で気怠い艶めいた息がかかる。陽菜は滲んだ肌に薄らと彩る汗すら、何だか愛おしかった。
最賀を忘れる努力は、した。その方が痛みと向き合う必要も、人生の大半を男に占める理由を白紙に出来るからだ。
だが、陽菜にはやっぱり、最賀忠を忘却の彼方に放り投げるなんてことは難しかった。リボンを毎日身に付け、呼吸をするのを忘れることは無いのと同じで、山藤陽菜と言う人間の一部になっていたのだ。
「忘れたことなんて一度もありません、忠さん、お願い、消えないように刻んで」
貴方が居たから、額の傷も、醜い膝の傷すら赦せるようになった。忌まわしく、視界に入る度に嫌悪していっそのことタトゥーで上塗りでもしたかったのに。
母から憎まれた証として刻印を打たれた様な、額の傷痕すら隠して生きた自分すら受容出来るようになった。家の中で、前髪を上げるのも怖かったのに、五年が経過して陽菜は少しずつ最賀の痕跡を辿って生きて来た。
だから、掃除や草毟りの作業中にも前髪をピンで留め晒しても、自己嫌悪は払拭されたのだ。
時々傷は痛むが、偏屈になったり己を卑下したりはしない。それは、陽菜を変えてくれた友人や大切な人々がいたからだ。
最賀は陽菜の眉下の歪な傷に口付けを落とした。背中に無意識に爪を立てて、男の熱と同化したくて仕方がなくて。陽菜は最賀の名前を呼んで、心も体にも刻む。
「……夢みたい」
呼吸を整える為に、最賀が陽菜の背中を摩って労わる。腕枕なんて、商売道具だからと絶対にしないと豪語していたのに。逞しい腕を枕にして、腕の中にいることが夢みたいに思えた。
けれども、脱ぎ散らかした喪服の残骸が視界に入って、陽菜は堪らず謝罪した。
「ごめんなさい、私、不謹慎でした」
喪服を脱ぎ散らかして、一糸纏わぬ姿で最賀の腕の中で温もりを上塗りする。
「──五年」
長い月日だった。一時たりとも忘れたことは、無かった。
男はどう考えているか、定かでは無かったが、葬式にこうして姿を表すと言うことはそう言うことだろうと。言葉は信用ならない、行動で示すと過去に吐き捨てた男の言葉が陽菜の心をまだ支配していた。
男の吐く息が、甘いこと。期待する言葉は無い、あるのはただ純粋な真意。
その大きな背中が背負った痛みと命の重さ。誰かの死を悼み嘆く、優しさを陽菜は死んだ後ですら覚えているのだと知った。
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