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第3部 あの恋の続きを始める
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しおりを挟む「ま、待って……下さい……っ!」
追い掛けて、足が縺れて転びそうになっても陽菜は遠くを歩く男を必死に呼び止めた。
五年前も、いつだって追い掛けて抱き締めてくれたのは彼であり、陽菜では無かった。
その腕の中に閉じ込められ、温もりを感じることで安心感を得ていた。
きっと、男は気付いていただろう。
陽菜は痛いくらい、強い愛情を飢餓していたので求めていたことを。
だから、今度は陽菜が追い掛ける番だ。
やっと追い付いて、陽菜は後ろから男を抱き締める。
雨の中、喪服が濡れる。大粒の涙を流して、行かないでと小さく嗚咽を漏らした。声を振り絞ったのに、出て来たのは蚊の鳴く声だ。
後頭部に結かれた黒の紙紐が切れて、不穏な兆候かとすら思った。
縁起の悪い行いを、これから男に強いるのを天は見ているのだろうか。
束になって栗色の髪は肩下へ落ちて、陽菜を咎めている。
母の死を弔う場なのに、目の前にいる男のことばかり考えて罰が当たろうと、もう構わなかった。
陽菜の全てを擲ってでも、一番に取らなければならないものがあるからだ。
「忠さん……わた、し……」
「──駄目だと分かっていても、ずっと忘れられなかったんだ」
大きな背中が、小さく見える。
陽菜の拒絶を怖がっているのだと、直ぐに分かった。陽菜はその広い背中に腕を回してきつく抱き締めた。
この世には二人だけならよかったのに。
誰も傷付けるものが無ければ、きっと、そんな道があったのではないかとすら錯覚を起こした。
陽菜は五年越しに、目の前にいる心を支配する男の温もりに涙した。
五年前の思い出を胸に生きていく決意をしたのに、最賀との再会でばらばらと崩れ落ちしてしまう。
どうして此処に、なんで知っているのと聞きたいことは山ほどあるのに、思考は既にぐちゃぐちゃに掻き混ざっていた。
強く生きて、屈しないと誓った心が壊れてしまいそうだ。
「今日だけで良いです、一夜の過ちを……私に」
どうか、と小さく懇願した言葉は雨足の強さに飲み込まれていった。
雨が全てを打ち消してくれさえすれば、この再会は隠蔽されるのに。
参列者に挨拶はあっさりと済んだ。
何より母の知り合いなんて所詮似たり寄ったりである。親戚も殆どおらず、二人の父すら姿は見えなかった。
弟は話があるんだろと、素っ気なくだが陽菜を後押ししてくれたお陰で一度帰宅することが出来た。
屋根下で濡れ鼠の男は、陽菜が来るのを静かに待っていた。呼吸すらやけに少なくて、押し殺しているのかすら感じる。
帰路に着く頃まで、お互いに会話は無かった。
繋がれた手は離れなかったが、双方歳を取ったのだなと陽菜は五年が二人を裂いたのすら悲観的に感じた。
長い時間は、人をより濃く引き離すのだ。考えも嗜好も、象った物は変わり行く。陽菜は最賀がこの五年をどう過ごしたのか、聞けずにいた。
いや、聞く立場にないのだ、とすら思った。
婚約者と結婚したのだろうか、総合病院に未だに籍を置いて多くの患者を助けているのか、とか。
まだあの部屋に住んでいるのか等口が裂けても尋ねることは出来なかった。
最賀も、陽菜が見合い話を受けてどう返事をしたか知らないだろう。五年の軌跡を互いに確認し合えずにいるのは、もうあの頃と同じではないからだ。
無邪気で、陳腐で、でも子供みたいに不器用に手探りで恋愛をしていた五年前とは、違う。
葬儀場から徒歩で二十分以上、雨の中一つの傘の下は、二人だけの異空間だった。お互いの息遣いと、雑踏の中で車のエンジン音と雨以外の音以外無かったからだ。
山藤、の古びた木造のプレートが見えてくると、母家の直ぐ傍にある埋め込まれた石段が続く離れへ向かう。
最賀は陽菜の手を握ったまま、黙って着いてきた。手から滴る水すら、心地良く感じる。
離れにぽつんと造られた、男児を欲しがった両親から充てがわれた監獄とも言える忌まわしい場所に男がいるなんて。
陽菜は男の熱い手が再び触れることにひどく心が掬われた気がした。
母が死ぬ間際、口にした言葉が陽菜をこの広い家に縛り付ける。母家から離れた屋代はいつだって、陽菜を孤独にするのだ。
鍵を開けて中に入ると、狭い陽菜の城がある。
母家には主人はこの世を去ったから入れるはずなのに、どうして物置小屋を改築した離れに案内したのか陽菜には分からなかった。この狭い陽菜の揺籠を見せたかったのだろうか。
最賀は陽菜に続いて靴を脱いだが、何度も手作業で張り替えて手入れした畳に足を踏み入れるのを躊躇っている様子だった。
濡れるから、と玄関先でジャケットを脱いで水を搾ってからタオルを受け取る。
髪をかき上げると、生え際の白髪が浮き彫りで歳月を悟らせてくれる。眼鏡をタオルで拭き、かけ直すと目尻は以前よりも深く皺が刻まれている気がする。
畳が濡れようが、もうどうだって良かった。
陽菜は最賀を引っ張って、抱き留める。おずおずと最賀は陽菜の濡れた体に腕を回して、それからか細い白い首に顔を埋めた。
肩が湿っている。雨か、涙か区別がつかぬほど、溶けているのだろう。
不意に、ずきずきと膝と眉下の傷が疼く。
雨はだから億劫で嫌いなのに、それすらも拭い去る力を目の前の男は持ち合わせている。
シャツがべったり肌に合わさって、明かされまいと密着される。陽菜は最賀が漸く顔を上げると、眉を下げて言葉をやっぱり忠実に待っていた。
「……古傷、痛むんだろう」
張り付いた前髪を、骨張る長い指が退ける。痛々しく残る傷痕をつけた人は棺桶にいる。
もう、傷つけられることは、無いと分かっていても陽菜の脳裏には時折顔を出す。
お前は幸せになんかなれない、と死に際でも叫んでいた。腕を振り上げる力が失っても、言葉で罵倒し陽菜を殺す勢いだった。
それでも、陽菜は頑なに見舞いを止めなかったのは、最早意地の張り合いだったのだろう。
最期まで、我儘で横柄な母親だったが、一人の人間でもある。
物置小屋が離れとして稼働出来たのは、配線完備や簡易的ではあるが人一人が最低限度生活する設備は整えてくれたお陰なのである。誰が造ったかは、今では知る由もない。
男の無骨な指が傷痕を辿る。
優しい手付きが、陽菜の痛みを軽くするのだ。なるべく柔らかく笑みを作ろうと努力して、綻ばせた。
「……もう、あの手に怯えることは、ないから」
「……そう、か」
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