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第2部 空白の五年間
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しおりを挟む多分、駆け落ち前の出来事であろう。最賀は陽菜を名前で呼ぶようになったのは、二人で行き先も分からぬグリーン車に飛び乗った頃であるからだ。
最近は最賀との情事や思い出が夢の中に出てくる様になった。
陽菜の体に蓄積された記憶が、忘れまいと躍起になっているのだろうか。何度も抱かれて刻まれた証に、今でも鮮明に最賀の痕跡が残存しているのだから。
──夢……だよね。夢の中だけでも会えるなんて、幸せじゃない。
陽菜は丈の合っていないカーテンの隙間から光が差し込んでいて、眩しくて目が覚めた。
幸せな夢を永久に見られたら良いのに。
そんな自分勝手な夢物語は叶うはずがない。陽菜は重い体を起こして、寝ぼけ眼を擦る。顔を洗って髪を梳かし、適当に括る。
キッチンは無く洗面所と台所がセットの水場とユニットバス、そして五畳のワンルームが離れである陽菜の屋代である。
ガス台は無いので、ガスコンロ一台を折り畳み式のテーブルに置いて、料理をする。小学生の頃からこの様に暮らしていたせいか、また元に戻った生活になっても全く不思議には思わない。この不便さに麻痺しているせいか、特段何も感じないのは名残なのだろう。
茗荷を刻んだ醤油漬けの瓶を取り出して、納豆と混ぜ合わせ、冷凍して小分けにした冷やご飯をレンジで解凍。その上に茗荷をかける。
麺つゆに漬けて蕎麦の上に薬味が代わりに今度やってみようと考える。浮腫防止で、夏にはもってこいの食材だ。
今日は見舞いの日である。
燦々日和で太陽が真上に上がれば照り付ける灼熱の風がアスファルトをゆっくり横断するだろう。
涼しいうちに洗濯物を朝早くから回して、母家の掃除を急いで行う。縁側は雑巾掛けをし、障子の張り替えをいつかせねばとバケツの上で雑巾を搾りながら考える。
弟達にお裾分けにと庭先で収穫したトマトと野菜達を編み込まれた専用の鞄に詰め込む。茗荷の醤油漬けも良い出来なので、用意する。
弟のパートナーはアメリカ出身なのに、和食をこよなく愛しているらしく日本食のお裾分けはいつも飛び上がって喜ぶのだ。決まって身長二メートル近い体躯に抱き締められると息が出来なくなる。
身支度を整えて、陽菜は出来るだけ素朴な服装を選ぶ。
今日は、母の見舞いの日だからだ。
陽菜はグレーのサイドがスリットの入ったコットンシャツにレギンスと言った控え目な服へ着替えた。汚れた寝衣やタオルを入れる袋や、新しい物と普段の歯ブラシの代わりに別の物を用意した。
スポンジが付いた、歯茎に優しく歯の表面や舌の汚れを取る口腔ケア用のスポンジ歯ブラシである。看護師から持って来るよう指示があったからだ。
介護カタログを見て相談してから、注文し購入した物がやっと届いたので忘れずに鞄へ入れた。
電車に揺られること二十五分、陽菜は母の見舞いへ思い足取りで向かった。
「私が弱っていくのを見て、さぞ心の中で嘲笑ってるんでしょう?」
「……そんなこと、ないです」
酸素吸入をマスク越しでしながら、痰が絡んだ声で母はぐったりしていた。
顔は死相が出ている程の血の気の無さで、医師からはもって数日だと余命宣告をされた。
森林浴をしましょうか、と気分転換にホスピスの看護師にリクライニング式の車椅子で広々とした庭先に連れ出された。
陽菜はパラソルの下にあったホワイトのプラスチックの椅子を持って母の隣に腰掛ける。太陽の光は燦々と木漏れ日の中降り注がれており、季節が何度も巡り合っては春先を四度、迎えた頃だった。
仕事は介護休暇として何日か貰い、この四年間は仕事を休んだり、働いたりした為に常勤としては勤務するのが困難でパートタイマーになったのだった。
産後復帰した箕輪は気にしないで、と話すが負担になっていたのは明白だ。
働けぬか定かでない職員は戦力外である。更新の年を迎える度に、首の皮が繋がっているか確かめるのはストレス以上の負荷であった。
一方で、桃原は担当医師から外れた早坂と結婚して婿入りしたと言う。親族だけで神前式を行った後の食事会に箕輪と陽菜は誘われたが、その時に桃原家に婿として入ると言う衝撃事実を知ったのである。雷に撃たれた気分になったのは陽菜だけではなかったが。
早坂家から脱出出来たと高らかに笑って、桃原を抱き上げて振り回していたのを思い出す度に、幸福を分けてもらう。
幸せを掴む人間がいる傍ら、搾取され泥水を啜るが如く地べたを這いつくばって涙を滲ませる不幸な人間も決して忘れてはならない。
「ふん、独りで精々年取って誰にも相手にされなければ良いわ、だから女の子なんか要らなかったのよ」
息絶え絶えに力無く言うが、言葉の棘は鋭い。
女性の賞味期限、と年齢を重ねる度に誰かが必ず口にする言葉だった。女が一人で生きるには世の中はあまりにも冷たく、辛辣だ。
「私のことずっと、要らない子にしていたのはお母さんだよ」
「アンタなんか……産まなきゃ、産まれてこなければ良かった……!」
面会時間を終えて、病室へ移動すると汚れた寝衣の回収と、必要なリネン類等をメモしてホスピスを後にした。
担当看護師に挨拶をして、次は来週に来ますが足りない物があれば都度届けるので連絡下さいと話して、エレベーターを閉める。
「でも、女としての役割を押し付ける」
産まなければ良かったと怒鳴るくせに、女がすべきだと風潮する介護を担わせる。だから、若年層の介護者"ヤングケアラー"が減らないのだ。
子供も女も、大人からしたら良い小間使い、道具として壊れるまで扱っても良いと心の奥底で何処か思っているのだろうか。
陽菜は福祉や医療サービスを利用する為の知識はある程度仕事で培えている。
けれども、実際は制度は周知されておらず、今日を過ごす人々もいるのも現状なのだ。
助けを求めて、手を差し伸べてくれる友人や同僚が今の陽菜にいたからこそ、他者のことを考える余力があるのだと悟った。
地元は閉鎖的だ。近隣住民同士助け合い精神で成立している。
隠れた要支援者が仮にいたとしたら、陽菜は迷わず今なら手を取るだろう。そんな人間でありたい、陽菜を最初に救ったのは老医師だったが、地域に貢献出来る術がもしあるとしたら。
いつか、は意外にも直ぐやって来る。
長くベッド上で離床が中々進まず、幻覚が出現したり興奮状態になったりするせん妄がひどく、手足の拘束されていた。
夜間起き上がって、自宅に帰ると騒いだり、暴れる行動が見られたからだ。布状の医療者や患者の安全と双方を守る為にミトンが装着された母と話すのは、これが最後になった。
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