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第2部 空白の五年間
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しおりを挟む「冬はホッカイロと温かい肌着、オールシーズンは磁気で凝りを和らげるシール、白髪隠しの粉パウダー、湿布。機械壊れたり飛んでったり火傷したり、なんでこうも禁止物を皆んな身に付けてくるんだろうか……」
天を仰いで遠い目をする桃原の苦難が垣間見える。
「点滴棒とか飛んでっちゃうのよ?! 吸い込まれるみたいに!」
磁力で満ちた部屋であるMR室に、あっという間に点滴棒が機械ヘ引っ張られるらしい。
患者がもし目の前にいたら、大惨事である。考えただけでも恐ろしい。
だからこそ、入室前の執拗な注意喚起が命を守る大切な手順なのだ。
「騒いでる人いたら、遠慮せず呼んでね。事務の時、こうやって連れてってくれる恩師にいつも感謝してたなあ」
遠い過去の記憶を思い出す仕草は、何だか置いて行った物を拾い上げる儀式にも似ている。美しく仕事の出来る女性社会に生きる女の姿は、陽菜を一層独りにする。
まだ、自分の力で立って歩くには教養も能力も経済力も足りていないから。
時折、桃原や箕輪が眩しく感じて、直視出来なくて。
それが心底恥ずかしくなる。
****
「早坂先生、もう先に打刻したのか…明日引き継ぎするか……はあ……て言うか、絶対催促されるから逃げたんだな……」
陽菜は独り言を呟いて、返ってこぬ返事が静寂を貫く院内で打刻をする。
締め作業を行なってから、私服に着替えて玄関の鍵を閉めて最後の一人となった。
ふらふらな状態でコンビニエンスストアへ迷い込んだ。真っ直ぐ飲み物コーナーへ行き、アルコールが並ぶ棚を眺める。
「酒、酒、缶焼酎……いいや、この良く分からない新作で。何飲みたいか分からない…でも飲みたい」
パッションフルーツ味で良いや、とその隣にある味違いの物や白ワインカクテル風の酒を六本購入してレジへと向かう。袋を断って、オンライン決済をして鞄にカードケースを捩じ込む。
鞄の中は乱雑に散らかっている。
ペンケースは開けっぱなし、必要な書類の記入がまだなのでファイルに入っており、くしゃくしゃになったパンフレットの読み込みもまだだ。
電車の中で開こうにも、生憎の満員電車で下車する横須賀中央駅まで座席は空かない。
だから未だに開けていないので、今夜は絶対に目を通すと眠い眼を摩る。
酒でも買って飲んで一段落してから帰らないと、精神的にもボロボロだった。喫煙所の近くにある公園で缶焼酎を一気に飲み干す。
こんな時ですら、エコバッグを持ち歩いているのは最早貧乏性なのだろうか。エコ重視しているくせに、何ら変わらぬ未来へ一歩止まると愕然とするのだ。
ベンチにどかっとスカートの皺を伸ばさず腰掛ける。シフォンブラウスのタイリボンにボックス型チェックスカートと言う服装でいるのに、エレガントさの欠片すら無い座り方だ。
「飲んでないと、やってられない……」
六本目をプシュッとプルタブ缶を開けて、喉に注ぐ。
アルコールは体の隅々まで沁み渡る。はあ、と息を吐くと甘ったるい呼気が陽菜を纏わりつく。
アルコールは決して、強くはない。
最賀と飲みに行っても、日本酒やワインは数杯で酔っ払ってしまうから家飲み以外は控えるようにと強く言われたなと思い出した。
それでも、酒は嫌なことを一時的にでも消してくれる最高のアイテムだ。安くて手軽に、手に入るせいで陽菜は母が入院した頃から着実に飲酒する機会は増えていった。
歩き飲みをして帰宅しようとしたところ、ぎょっと目を見開いた桃原に声を掛けられた。
「お見苦しいところ…、あ、良ければお酒…」
陽菜の声を遮って、桃原は神妙な面持ちで尋ねてきた。
袋に空のプルタブ缶が無造作に敷き詰められているからか、桃原の声音は何だか不安げだ。
「こんなに沢山……お家は何処?」
「えへへ……美沢方面です」
美沢はワカメやアカモクが拾え、良く地元の住民達は朝方拾いにやって来る。天然の雌株はとても美味しいのだ。陽菜も幼少期は良く通っていたものだ。
昔からある風貌は徐々に移り変わり、店も後継者がおらず閉店し、若年層は外部に出ることで過疎化が進んでしまっているのが現状だ。
陽菜はその街で育ち、一度は地元から逃げたのに、また帰ってきたのである。
「美沢……えーと、ああ、羽島かな?」
「皆んな羽島って言うのに…もしや、地元ですか?」
「父が羽島出身なの」
「ふふ、イントネーションが地元だから、そうかなって」
はしま、のイントネーションはアクセントが地元と地元以外の人間では異なる。
美沢に隣接する様に羽島は海沿いからを分布する一つの街になっている。イントネーションが地元民とそれ以外の人々とは違う為、直ぐに観光客や部外者であると話すだけでも分かってしまう。それくらい、地元意識の強い港町だ。
そんな桃原はリブニットのタイトワンピースにはスリットが入っており、ミントカラーで可愛い。
すらりと伸びた足にはデザインヒールが美しく街頭に照らされている。働く女性の鎧なのだ、服装は人を映すのである。
「あ、ピアス……可愛い」
「ふふ、これ……大切な人から貰って。お互いの誕生石」
街頭の薄暗い照明でもキラキラと光っている。
ダイアモンドと良く見たら紫色のカラーだ。美しい輝きを放つピアスが、早坂のネックレスが不意に頭を過ぎる。
──あれ? 先生も……大切な人から……って、あれ?
駄目だ、頭が上手く回らない。思考回路がぐにゃりとひん曲がっている。
アルコールで鈍い思考は纏まりが無くて、陽菜は小さく唸った。
「顔赤いですし、もうお酒……、やめた方が……」
「──なんか飲んでないとやってられなくて……」
ざくざく。
公園の砂利が足音で踏みしめた音と重なる。
大きなゆらりと揺れる影法師は、まるであの人にも見えた。
背丈の高く、短い髪にジャケット姿のシルエットは一年前に別れた男を思わせる。
──先生?
「え……先生?」
嘘だ、こんな所に居るはずが、でも。
迎えに来てくれたのでは?と錯覚を起こす。
微かな期待と可能性が陽菜を支配する。
陽菜は持っていた缶焼酎が手から滑り落ちても、気に留めなかった。
カランと空になった缶が地面に転がる。恐る恐る立ち上がって、目の前の影を凝視した。
「陽菜、アンタは人一倍の努力家だ。ほら、リボン解けてる」
「んー……不器用なのは承知の上、だろう?俺が器用に女性の髪を手解き出来たら、それはそれで…嫌、じゃないか?」
「似合ってる、陽菜。カメリアの髪留め、綺麗だ」
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