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第2部 空白の五年間

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「うー……終わらないっ、終わるわけがない!!」

 栄養ドリンクを片手にパソコンと睨めっこをしながらキーボードを叩き、印刷された患者情報の記入ミスと漏れチェックや保険証番号の照らし合わせ、病名入力と頭の中をフル回転させる。

 陽菜のデスク周りは整理整頓が出来ないほどの忙しさによりペンや病院名入りの印鑑、日付印、朱肉、二号用紙等散乱していた。
 ゴミ箱には大量の眠気覚まし、緑茶、珈琲の缶にエナジードリンクと山の様に蓄積されている。

「……陽菜ちゃん、患者さんはあと二人検査待ちなので先週分のカルテ整理手伝うよ」

 血走った瞳だったのか、ひくりと桃原が顔が引き攣っていた。御免なさい、と反射的に謝罪するとエナジードリンクの残骸を一瞥される。
 髪はボサボサだ。リボンで軽く編み上げてぐるぐる巻にして後頭部で留めたものの、振り乱してレセプト処理に明け暮れたお陰で崩れている。

「……本当に、平気? 箕輪さんの分までレセ……抱えてるんでしょう?」

 箕輪は時短勤務に切り替わっており、実家に子供を預けて出勤している。
 夫は夜勤もあるシフト制で、家庭と仕事を両立するのは難しいと愚痴を溢していたのが印象的だった。

 だから、陽菜はせめて負担が軽くなるように働くことしか出来ない。
 時間ぴったりに帰れるようにアシストをするのも、独身であり恋人すら皆無の陽菜が出来る唯一の補助であった。
 例え、膨大な量が己に降り掛かっていたとしても、だ。

「あはは……キリが良いところまで片付けちゃいます。それに、退社する子の皺寄せ……いえ、大丈夫です」

 寿退社が女の幸せルートだ、と言われる程に未だに男女の賃金格差や社会的差別のある社会でゴールは結婚である。それくらい、まだ差は埋められていない。

 山藤さん、行き遅れたら貰い手無くなりますよと笑顔振り撒いて言われて、苦笑するくらいに独身女と幸せ絶頂期にいる女との落差は激しいのである。

 ──いや、私…貴女の穴埋めをこれからするのに、そんな失礼なこと言うの?

 嫌な女になりつつあり、陽菜は考えることを放棄した。

 陽菜が顔を顰めて、溜息を漏らしたからか。仕事の合間に桃原は疲労回復のチョコレートやビタミンゼリー、そしてノンカフェインのミルクティーと差し入れをしてくれた。
 いつも桃原の優しさに甘えてしまっている気がして、申し訳ない気持ちで心がいっぱいになる。
 一人で捌ける数は限りがあるのに、制限なく増えていく仕事のお陰で何とか椅子に座るのを保てていた。

 この正社員というポジションがずっと欲しかったはずなのに、今は息苦しくて仕方がない。

 女の職場は入れ替わりが激しい。妊娠出産、育児に子供のイベントと環境が目まぐるしく変わるごとに肩書きも増えていく。
 彼女、妻、母親、と何枚もの仮面を持って必要時付け替える。子供の親になれば尚更、PTAや町内会に出席する機会も増えていく。
 そんな既婚者や子供のいる女性は、臨機応変に取捨選択をして、それこそ生き方すらも自在にカメレオンの様に変貌するのだ。

 独身で、恋人のいない女が生きるには、現場はいつだって厳しく息が詰まる場所にある。酸素マスクになる肩書きが欲しくなる気持ちは、痛い程に分かる。

 ──あの救外で産休に入った人も、同じ気持ちだったのかしら。

 寿退社や産休まで貫いた女性を讃え、勝者として崇める風潮も世の中の普通も陽菜にとっては見えない差別だと思った。
 それが、当たり前の様に蔓延る社会が人々を生きにくくするのに。

 会計処理とカルテ作成の合間に、レセプトと忙しい日は全て嫌な出来事が重なる傾向がある。そう感じるのは、今に始まったことではない。
 受付は何でも屋だ。些細な疑問や全ての質問を、此方が答えられないことだと本人が分かっていても。全部投げ掛けられる、フリースペースだと思われている節がある。

 高齢の女性が杖歩行でよろよろと注意喚起が記載されたパンフレットを持って、陽菜の元へやって来た。重々しい空気からして、かなり長引きそうな話であると陽菜は察する。

「ねえ、湿布って剥がさないとMRI撮れないの本当?」

「──はい、火傷の恐れがありますので。医師や看護師から検査前詳しい説明がありますが……」

「だってさっき貼ったのに、どうすれば良いのよ!」

 MR室へ入室する前に湿布や貼り薬を剥がさなければならないのは、低温火傷の危険性がある。その為、患者には着替えの際と入室前のダブルチェックは必須だった。
 うっかり剥がすのを忘れた場合でも、撮影者や説明者の職務怠慢、危険を晒した行為に成りかねないからだ。

「沢山貼っちゃったから嫌よ私。勿体無いじゃない」

 ──いや、知らないけど?! 撮るの分かっててなんで新しいの貼ったの?!

 回らない頭で、思わずツッコミを入れたくなる衝動を抑え込み、陽菜は丁重に説得を試みる。

「いえ、ですが……」

 湿布を剥がしたくない、と駄々を受付で捏ねる高齢の患者は実はかなり多い。
 家族や付き添いがいる場合は一緒に説得へ加担してくれるものの、中々検査くらいでは同行者はいないものだ。
 陽菜が頭を悩ませて、患者の背後には長蛇の列が並んでいるのを見て、途方に暮れているとネイビーのスクラブが視界の端で動いた。

「クリアファイル三枚くらい貰いますね」

 さっとクリアファイルを手に取った女性が、患者を待合室の席へ誘導した。
 その間に陽菜は全自動マシーンの様に待ち草臥れた患者を捌いていく。

「検査終わるまで、ファイルに貼っておきましょう。そしたらまた貼れるし」

「あら、そうね。沢山貼ったんだけど、ちょっと見てくれる?娘が背中も貼ったから」

「じゃあ処置室で、ついでに検査着へ着替えてお手伝いしますよ」

 そんな会話が聴こえて、陽菜は看護師の偉大さを身に沁みる。受付事務の声よりも、看護師や医師の存在は遥かに大きいのだ。
 暫くすると、介助を終えた桃原がスロープを降りて来たので陽菜は駆け寄った。

「莉亜さん、ありがとうございました。本当に助かりました……」

「いいえー! ねえ、あの患者さん、十枚湿布貼ってて全身凄かったんだけど……あれは服脱がして正解だった」

「じゅ、十枚……」

 小声で十枚、と聴いて陽菜は思わず絶句をした。貼る場所がそんなにあるのだろうか。
 いや、全身がもしかしたら痛いのかもしれない。
 そもそも、そんなに沢山貼って良い代物なのだろうか?と疑問が脳内で行き交う。


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