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第2部 空白の五年間
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しおりを挟む平等に朝日を迎えるのを、これ程までに憎んだことはない。
「山藤さん、顔色悪いですよ……大丈夫ですか?」
声が遠く感じる。鼓膜に反響して、真っ暗闇に立たされている気分に陥る。何度か呼び掛けられて、はっと我に返った。ざわざわと雑音に混じって、桃原が心配そうに陽菜の顔を覗き込んだ。
「すみません、急にこの間…蜻蛉返りしちゃって」
「こっちは平気ですから、その…御家の方優先して良いですからね。無理、しないで」
一般病棟から療養へ転院することが決まったのは、病状が芳しく無く、担当医から提案された。病院側も痛みのコントロールが上手く出来ず、予後不良で治療困難の患者を置いておく訳にもいかず。
それならば、余生をゆっくりと過ごせる穏やかな環境下を、とやんわり打診された。
何れにせよ、寝たきりの状態が長く続き、手術後のせん妄もあってか抑制帯をせざるを得なかった事態までに進んでいた。
春先の温かい風が吹き荒れ、心地良い季節がやって来たのに陽菜の心はまだ冬に置き去りにされたままだった。
冷え切った体で、何とか羽化を目指す蛹のまま死んでしまうのではないかとすら、そんな心情であったのだ。
桜の花弁が少しずつ散り、川沿いに漂う風物詩が過ぎ去る中で、陽菜は紙媒体の手続きと医療費の控除の申請に明け暮れていた。
手続きや荷物の準備等で追われ、陽菜は憔悴していったのである。
「おい、辛気臭い顔すんじゃねーよ山藤」
打刻しながら、早坂が陽菜に小言を漏らす。
最近、眠りが浅くて酒に頼って何とか床についている。チークを濃い目に載せた陽菜の顔に、早坂は目を細めた。
「おはよう御座います…早坂先生。本日は十時半に脳梗塞疑い、十三時にポート留置された近隣の紹介元の理事長の方の全身造影CT、十六時に九十歳認知症有り脳転移の車椅子の患者様同行者あり等予約を分散致しました」
全身造影CTとは、スクリーニングとしては何かしらの癌や深部静脈血栓疑いなど原発を特定する為にオーダーが出ることがある。
また、認知症のある患者へ抑制帯同意書無しの、ルートキープは至難の業だ。
「ええ……そんな暗い顔でやり口はえげつないな…」
久し振りに桃原と早坂がシフトをかぶった気がした。以前は早坂の専属ナースくらいの、誰しもが避けて通り押し付けるシフトの組み方だったのは一時的だったらしい。
NGが出された訳では無い様子だったが、二人がシフトを共にするのはそれくらい珍しいことだった。
陽菜は箕輪が産後の健診で遅刻をして出勤する旨をメールで確認したので、早く出勤した。
病院の鍵開け、レジ確認、院内の電気を点けて回り閑静な空気の中で黙々と朝の業務をこなしたのである。
まだ始業前なのに、もう疲れているのはコンディションが頗る悪いせいだ。
「ポート針、当院には無いですよ」
ポートは中心静脈から点滴を行う為に、皮下へ埋め込まれた機械のことだ。
専用の針が無い場合、留置した所では点滴は出来ないので、別の箇所から静脈路確保する必要がある。
「ルート何処で取れってんだよ!」
憤りを隠せず、早坂は事前にファックスのあった紹介状と問診票が挟まったカルテを机に叩き付けた。バシンッと乾いた音がするも、院内は静けさを増している。
桃原は物音に過敏だ。それはまだ日の浅い陽菜が感じ取った微かな違和感である。
一般的な人々が気にも留めない物音にも、怯む姿があったからだ。以前、PTSDを患ったと打ち明けてくれたが、彼女の中にもトラウマが存在するのだろう。
「何とかそこは……お願いします、早坂先生」
「……あ、大きな、おと……その」
その一部始終を見ていた桃原が打刻を終えた手が微かに震えたのを、歯切れが悪く言い掛けた早坂は察知したのか背格好の広さで何故か隠した。自分の行いが相手を怯えさせたのだと、直ぐに改めたのだろうか。
または、桃原の心情を察したのか。分かりやすいように見えて、捉えづらい男である。
「ビビって手震えてキープ出来なかったら、俺の顔潰れるなこれ」
「──早坂先生……足ではルート取るの何とか避けて下さいね……」
「いや、何処もかしこも無理なら強行突破するしかねーだろ」
早坂は桃原の打刻カードを優しく手に取って、壁に掛かる出勤簿へ戻す。
桃原へ淹れ立ての温かい珈琲を陽菜は渡すと、驚いただけだから……と肩を竦めるものだから心配になる。陽菜は大きな音を立てて威圧的な早坂に、勢い良く振り返った。眉間に皺を刻んで、下から見上げる。
「早坂先生は少し配慮すべきです、ミジンコクラークとして進言致します」
「はあ? なんだよ急に……」
「桃原さんに愛想尽かされたら困るのは先生です」
「な……は?」
ぽかんと口を開いて固まっている。追撃して、陽菜は早坂が謝罪するよう求めた。
「桃原さんにいつも言い過ぎると後出しするの、知ってるんですから。今謝罪するべきです」
「お前に関係ある? それ」
「大いにあります。桃原さんは、私の……」
「私の? あ? なんだよ、言えよ」
ちらりと桃原を横目で一瞥する。友人、と言えたら良いのにと燻る。友達の境界線が不明な場合はどう答えたら良いのかぐるぐる頭を悩ませる。
「莉亜……さんは、私の友達……」
桃原の名前を勝手に呼び捨てにしたのは拙かっただろうか。
怒られたり、不快に思ったらどうしようと唇を噛み締めると早坂は鼻で笑っている。
「友達ー? んな訳ねえだろ、馬鹿」
「早坂先生、陽菜ちゃんは私の友達でもあるんです。ご飯行く仲ですし」
「……はあ、馬鹿らしい。悪かった、ほら謝っただろ」
呆れた口調のまま早坂は舌打ちをして、渋々と桃原に謝罪をした。桃原の髪をぐしゃぐしゃと、撫で回している。
「陽菜ちゃんの歓迎会、招待されなかったの……もしかして、根に持って……え?」
「え、あれ? 早坂先生お忙しいのかと思って……失礼しました。今度箕輪さん達と一緒にどうでしょうか?」
「行かねえ、絶対、俺は行かない!」
「すみませんでした……仲間外れされたと思っていたら、本当に……」
「……ミジンコ、お前マジでレセ間に合わないようにしてやるぞ」
それは脅迫にも近い言葉だったが、本人は単なる太刀の悪い冗談で口にしているのだろう。そう信じたい。
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