48 / 156
第2部 空白の五年間
4-2
しおりを挟む母の目には拓実しか映らない。搾取する為の、ただの血縁者だと改めて無情にも事実を突きつけられたのである。
──疫病神なのは、どっちよ!!
駄目だ、と制御したくとも医療従事者の陽菜は身内であればコントロールが不可能なのだと身に染みた。患者の前では冷静に、感情的にならず、私情を挟まず対応することをあれほど課せられていたのに。
「……大丈夫?」
陽菜が怒りに顔を歪めていると、男が穏やかな声音で陽菜に短く問い掛けた。ルイスは多様性を否定する母親から爪弾きされた二人目だ。
家族の形はいつだって、誰かに指を差される。それがどんなに悲しいことか、ルイスと陽菜は知っている。
「あ……ええと、IC(※インフォームド・コンセントの略式。説明と同意が使われることがある)があると思うので、終われば帰りますから」
医療団体によって様々だが、ムンテラ(医師が患者に治療方針などを説明すること。)を使う場面もあるが現場では時折耳にする。
病院や医療者によって使う場面もまちまちなので、聞き手は混乱してしまうだろう。
「違う、陽菜さん、大丈夫?」
びしゃびしゃの洋服のまま、病室の廊下に佇んでいれば誰もがそう尋ねるだろう。
看護助手なのかエプロンを着た高齢のスタッフから再度タオルを渡される。陽菜は何度も洗濯してへたったタオルを遠い目で見詰めた。
皺皺のタオルに涙が落ちるのは必然だった。堰き止めていた水は瞳から無数に流れて、タオルで顔を覆う。
「……大丈夫……じゃないかも、です」
「──うん。スペース、あるから何か飲もう」
「……ありがとう…ございます、ルイスさん」
片言の日本語で懸命に陽菜を気遣ってくれる。
それでも、重苦しく乗し掛かる重責に涙が途端に溢れ出して嗚咽を漏らした。
「……一人じゃ、ないです。僕たち、もいる。大丈夫、お義姉さん」
散々虐待した挙句搾取した報いだ、と一瞬でも頭を掠めて陽菜は自分を恥じた。他人の不幸を願うなんて、顔向けできないとすら思った。あの男ならばきっと、どんな犯罪者でも向き合うだろう。
それでも、陽菜に拳を振い続けた母へ優しい声掛けなんて出来るわけ無かった。
涙をぼろぼろと流して、家族が待機できるエントランスホールでテーブルを涙の湖に作ってしまう。弟のパートナーであるルイスが、ココアを黙って差し出してくれた。
背中を摩られるものの、何だか目の前は暗く閉ざされた気分だ。これから先行きの見えぬ闇に真っ逆さまに落とされた気分へ陽菜は蝕まれて行った。
暫くすると、別の部屋に通された。
きっとICで呼ばれたのだろうと、陽菜は機械的に流れを悟った。手順を基より知っている立場からすると、複雑な気分になる。
案内された、IC部屋は簡素でパイプ椅子に折り畳みテーブルが一つ隔てた場所だ。弟は顔を真っ青にして、涙で目元を腫らしている。
ただ、家族側になると悲しみは自分だけではなく周りにも波状の様に広がるものだと弟を前にして思うのだ。
「お母様には、手術が必要で……」
医者の声が遠く感じた。
泣き崩れて、母はどうなりますか?!と弟が叫んでいる。重苦しい空気の中切り出されたショッキングな出来事に、弟は過呼吸を起こしそうな息遣いだった。
全ての音が遠いのは、ショックを受けたからなのか、強いストレスを受けたからか分からない。
陽菜は担当医の顔が白っぽく映っており、何だか別次元にいる様な浮遊感に包まれていた。
「転倒したとは救急隊員から聞いておりますが、検査の結果お母様は大腿骨頚部骨折と診断された他に……」
「他って……何か検査で見付かった、と言うことでしょうか」
「詳しくは他の検査も兼ねてですね……」
救急外来で採血をした結果も踏まえると、手術後に化学療法を施す内容であった。
後に判明するが、横行結腸癌で転移検索の為造影CT等による検査でもあまり良い結果ではないことを知る。全身状態を知ることが先決であるのだ。
「術前は呼吸訓練のトリフローも入念に。術後の肺合併症の予防にも効果的なので」
「とり、ふろー……」
「呼吸訓練器のことで、オペ前の呼吸筋のトレーニングに役立つ……から」
「ああ……娘さんは医療従事者でしたか」
「仕事で忙しい弟の代わりに、着替えや洗濯等のサポートを……本人は望んでいませんが」
「いえ、此方としても大いに助かります」
担当医の説明を一通り二人で聞いていたが、弟は殆ど何も発さなくなった。
心は何処かに飛んでいった様な、そんな空白を描いた表情だった。
陽菜と弟の間には静寂さに包まれていた。
管だらけだった。
嗅ぎ慣れた消毒液と、鼻に残る排泄物の独特の臭気が陽菜をぐるぐると囲う。血管に留置され伸びた管が時間で管理され、ベッド柵に尿が蓄積されるバッグが無造作に引っ掛かている。
そうして、唾を飛ばしながら叫ぶ、患者となった母の声が遠く感じた。
「血の繋がりがあっても、結局最後まで赤の他人なんだよ、私は……。だから、拓実は母さんの味方でいて」
「……姉ちゃんは、本当は…いや、…うん。分かった」
少ない言葉の中には点在する怒りと悲しみの感情が散らばる。
その欠片を拾って、抱き締める余裕など今の陽菜にはない。術後のケア、そして今後の治療方針や環境と考えることは山程積み上がっては、崩れそうだ。
陽菜は二人が帰宅した後、漸く気道に堰き止めていた深い息が吐き出された。
「憎まれっ子世に憚る、じゃないの……」
病院の外にあるベンチに座って項垂れてしまった。
母の交友関係は知らない。人には良い顔をして、世渡り上手な女性であることくらいだ。
そして、弟の拓実には愛情をめいいっぱい注いできた一人の母親であることも。異性関係にはだらしない印象でもあってが、恋多き女性だろうと恋愛は自由だ。
恐らく拓実は情熱的な母だと印象がガラリと変わった内容で母を見ているはずだった。
こんな時、誰かに相談出来たら良いのに、と頭に過ぎる。
助けて欲しい、とSOSを出せたら陽菜はきっとこの問題を打開出来る。けれどもそのカードを持っていない。
きっと、弟はルイスに泣き付いて、この悲観的な状況を共有しているだろう。悲しくて、辛くて、どうしようもなくてどうして身内がと嘆いて吐露するはずだ。
だが、陽菜には誰もいない。相談する相手がいない。桃原にメールをしたら良いのだろうか、と手が震えて文字が打てなくて、断念した。
それに、唯のクラークがナースに"母が危篤でどうしたら……"なんて文面を打ったら、どう思われるのか。
陽菜は誰かに不安を明かしたことは最賀しか、したことがない。ましてや現役の看護師へ仕事以外に相談をするなど、烏滸がましいと感じた。一円にもならず、知識を伝授してもらうなんて。
嗚咽を漏らしながら、涙を眦に落として帰路に着く。
そんな時は絶対、雨が降って折り畳み傘も持っていなかった。運は陽菜を敵に捉えているのだと恨んだ。
ずぶ濡れになるのがお似合いなんだよ、と涙を隠すかの様に無惨にも雨雲は陽菜を容赦無くバケツをひっくり返すのである。
0
お気に入りに追加
55
あなたにおすすめの小説
イケメン彼氏は年上消防士!鍛え上げられた体は、夜の体力まで別物!?
すずなり。
恋愛
私が働く食堂にやってくる消防士さんたち。
翔馬「俺、チャーハン。」
宏斗「俺もー。」
航平「俺、から揚げつけてー。」
優弥「俺はスープ付き。」
みんなガタイがよく、男前。
ひなた「はーいっ。ちょっと待ってくださいねーっ。」
慌ただしい昼時を過ぎると、私の仕事は終わる。
終わった後、私は行かなきゃいけないところがある。
ひなた「すみませーん、子供のお迎えにきましたー。」
保育園に迎えに行かなきゃいけない子、『太陽』。
私は子供と一緒に・・・暮らしてる。
ーーーーーーーーーーーーーーーー
翔馬「おいおい嘘だろ?」
宏斗「子供・・・いたんだ・・。」
航平「いくつん時の子だよ・・・・。」
優弥「マジか・・・。」
消防署で開かれたお祭りに連れて行った太陽。
太陽の存在を知った一人の消防士さんが・・・私に言った。
「俺は太陽がいてもいい。・・・太陽の『パパ』になる。」
「俺はひなたが好きだ。・・・絶対振り向かせるから覚悟しとけよ?」
※お話に出てくる内容は、全て想像の世界です。現実世界とは何ら関係ありません。
※感想やコメントは受け付けることができません。
メンタルが薄氷なもので・・・すみません。
言葉も足りませんが読んでいただけたら幸いです。
楽しんでいただけたら嬉しく思います。
小学生最後の夏休みに近所に住む2つ上のお姉さんとお風呂に入った話
矢木羽研
青春
「……もしよかったら先輩もご一緒に、どうですか?」
「あら、いいのかしら」
夕食を作りに来てくれた近所のお姉さんを冗談のつもりでお風呂に誘ったら……?
微笑ましくも甘酸っぱい、ひと夏の思い出。
※性的なシーンはありませんが裸体描写があるのでR15にしています。
※小説家になろうでも同内容で投稿しています。
※2022年8月の「第5回ほっこり・じんわり大賞」にエントリーしていました。
【R18】十六歳の誕生日、許嫁のハイスペお兄さんを私から解放します。
どん丸
恋愛
菖蒲(あやめ)にはイケメンで優しくて、将来を確約されている年上のかっこいい許嫁がいる。一方菖蒲は特別なことは何もないごく普通の高校生。許嫁に恋をしてしまった菖蒲は、許嫁の為に、十六歳の誕生日に彼を自分から解放することを決める。
婚約破棄ならぬ許嫁解消。
外面爽やか内面激重お兄さんのヤンデレっぷりを知らないヒロインが地雷原の上をタップダンスする話です。
※成人男性が未成年女性を無理矢理手込めにします。
R18はマーク付きのみ。
【R18完結】エリートビジネスマンの裏の顔
白波瀬 綾音
恋愛
御社のエース、危険人物すぎます───。
私、高瀬緋莉(27)は、思いを寄せていた業界最大手の同業他社勤務のエリート営業マン檜垣瑤太(30)に執着され、軟禁されてしまう。
同じチームの後輩、石橋蓮(25)が異変に気付くが……
この生活に果たして救いはあるのか。
※サムネにAI生成画像を使用しています
イケメンドクターは幼馴染み!夜の診察はベッドの上!?
すずなり。
恋愛
仕事帰りにケガをしてしまった私、かざね。
病院で診てくれた医師は幼馴染みだった!
「こんなにかわいくなって・・・。」
10年ぶりに再会した私たち。
お互いに気持ちを伝えられないまま・・・想いだけが加速していく。
かざね「どうしよう・・・私、ちーちゃんが好きだ。」
幼馴染『千秋』。
通称『ちーちゃん』。
きびしい一面もあるけど、優しい『ちーちゃん』。
千秋「かざねの側に・・・俺はいたい。」
自分の気持ちに気がついたあと、距離を詰めてくるのはかざねの仕事仲間の『ユウト』。
ユウト「今・・特定の『誰か』がいないなら・・・俺と付き合ってください。」
かざねは悩む。
かざね(ちーちゃんに振り向いてもらえないなら・・・・・・私がユウトさんを愛しさえすれば・・・・・忘れられる・・?)
※お話の中に出てくる病気や、治療法、職業内容などは全て架空のものです。
想像の中だけでお楽しみください。
※お話は全て想像の世界です。現実世界とはなんの関係もありません。
※コメントや感想は受け付けることができません。メンタルが薄氷なもので・・すみません。
ただただ楽しんでいただけたら嬉しいです。
すずなり。
ミックスド★バス~家のお風呂なら誰にも迷惑をかけずにイチャイチャ?~
taki
恋愛
【R18】恋人同士となった入浴剤開発者の温子と営業部の水川。
お互いの部屋のお風呂で、人目も気にせず……♥
えっちめシーンの話には♥マークを付けています。
ミックスド★バスの第5弾です。
寝室から喘ぎ声が聞こえてきて震える私・・・ベッドの上で激しく絡む浮気女に復讐したい
白崎アイド
大衆娯楽
カチャッ。
私は静かに玄関のドアを開けて、足音を立てずに夫が寝ている寝室に向かって入っていく。
「あの人、私が
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる