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第2部 空白の五年間
4-1【見えない赤い糸と蛹】
しおりを挟む仕事に慣れて来た矢先だった。
職場に届いた一本の電話は、陽菜を劇的に変えた。
「わか、りました。取り敢えず、早退して向かいます」
箕輪と事務長へ事情を説明して早退をすることになった。
──倒れたって……。お母さんが?
市民病院から、看護師より簡潔に淡々と受話器越しに伝えられたのは母が倒れて入院が必要だと言うことだった。
入院手続きや入院に必要な物を持って来るのに何時頃到着しますか、と。以前救急外来にいた頃、陽菜が行っていたことを、鸚鵡返しの様に戻って来て声が震えた。
「山藤ちゃん、お大事にね……こっちのことは大丈夫だから」
「あ……早坂、先生にも早退の旨…」
「お前、早退するのか?」
箕輪へ申し送りをして、途中だった業務を引き継ぐ。早坂がカルテを持って受付へ来てくれたので、早退の理由を陽菜は平常心を装って何とか伝える。
「……すみません。母が出先で倒れて、その…」
「さっさと行け、一大事だろ。あとは箕輪に押し付けてとっとと帰る支度!」
簡単に業務を放棄するな、と言われるのかと思いきや、あっさりと早退を許してくれた。
陽菜は着替えを済ませて荷物をかき集め、打刻すると駅まで続く長い地下通路へ走って通過した。
いつもなら、十分程度の距離なのに、足が重苦しくて上手く走れない。息が、苦しくてし辛い。陽菜はぐるぐると頭の中が様々な最悪の事態や今後の不安感に乱される。
電車に飛び乗って、最寄駅に着いてから地元でも大きな市民病院へバスで向かう。
バス停が遠く感じ、走ったせいで息が荒い。乗り込んで、ICカードを翳して座席へ腰を下ろすが悪い思考が医療従事者の陽菜を咎める。
──ざまあみろって思わないの?二十四年間苦しめて来た肉親だよ?これ見よがしにDNRで、って言いなよ。
──お母さん大丈夫かな、これで私、改心されたら愛してくれる、かな。
天使と悪魔が交互に陽菜へ囁く。
DNR(do not resuscitate)とは心肺停止に陥っても心肺蘇生措置を施行しないことである。
重篤な状態や、終末期の患者に必要性の有無や望ましく無いことで身体的な負荷をかけぬ治療を回避する為である。
拒否では無く、あくまでも心肺蘇生を行わないので、他の延命治療法を適用する場合もあるので、患者の個別性や背景によっては方針が異なる。
だから、患者の家族側になるということは、陽菜は真逆の立場になることを意味していた。
バスの停留所で下車して、大きく聳え立つ市民病院へ辿り着く。
救急外来へ真っ直ぐ向かい、搬送された母の家族であることを伝えると病棟へ案内される。一般病棟なのか、と陽菜は内心安堵したが手持ちの入院セットがやけに重く感じた。
エレベーターが六階に到着すると、ナースステーションでは慌ただしく医療スタッフが業務を遂行していた。
ナースコールがけたたましく鳴り響いても、忙しさの余り中々取れず鳴りっぱなしだ。
「すみません、搬送された山藤の娘です。入院の手続き諸々の件で……」
「ああ、伺ってます。弟さんが既にお見えになって、病室に。603号室です、担当ナース呼びますね」
「お忙しい時に来て下さってありがとうございます。入院手続きも含めて、今後の治療計画を医師から説明がありますので」
603号室はナースステーションから窓際の病室と丁度間側にあるらしい。消毒液と、排泄物処理場にいる様な独特な香りが漂う病棟は、何だか久し振りだった。
現職場は空気が綺麗で、まるでホテルの様な外観や院内で清潔さが売りだと謳い文句がくっつく検査専門の医療機関である。
陽菜は医療の現場における、緊迫感と隣り合わせだと改めて肌で感じ取った。
病室の前で、背がすらりと高い体躯の良い外国人が立っていた。
汗を額に滲ませて、静かに佇んでいるのに気が付くと陽菜の顔を見た途端ぺこりと会釈した。米軍基地で働く弟のパートナーである、ルイス・クラークだ。
鼻筋が綺麗で彫りの深い顔立ちの男は、弟が室内にいると静かに目配せをした。
面会に顔を出せば、母は卒倒どころかサイドテーブルをひっくり返す勢いで喚き散らすだろう。弟を誑かした、普通じゃなくさせたと母が散々非難したのを仲裁したのは陽菜である。
また、陽菜も見合い話を破談にしたことで母からの当たりは一段と強まる一方であった。
「アンタは疫病神ね、孫も見せられない親不孝者! 顔も見たくない!」
陽菜の顔を見た途端に、母は顔を見る見るうちに般若の如く変貌し、激怒した。
「母さんやめろよ!」
ばしゃ、と紙コップに入った水をかけられて陽菜はずぶ濡れになった。弟の声など耳に届いていない。
近くを通りかかった看護師がぎょっと目を見開いてタオルを持って来てくれたが、陽菜は病室の床を黙って雑巾で拭く。同室の患者やスタッフが滑ったら最悪なシナリオになるからだ。
「──に、荷物、置いておくから。手続きは拓実がしてね」
聞く耳を持たぬ人間とは時間を空けなければ話は一方通行になる。陽菜は顔が真っ青な弟の拓実に荷物の内容を簡易的に説明して、病室を飛び出した。
滴る経口補水液は控え目な甘味料なのに、手に付着すれば水っ気とは別に微妙にベタつく。陽菜は服の裾で乱雑に拭って、乱れた髪を一度結い直した。
こんな時、最後に貰ったマゼンタカラーのリボンで髪を結いていたのを激しく後悔した。思い出が詰まった物はいつだって母に蹂躙されて壊される。また、嫌なことを思い出して自己嫌悪するのだ。
──親不孝者って、なに?!
陽菜は散々、虐げられてきた。時には殺意まで芽生えて、その行き場の無い怒りは活力に変えるまで相当の時間を要した。
──薄給で散々搾取してきたのに…!
仕送りを勝手にしている、と吐き捨てるように言われた時は流石にカチンと頭を銅鉄で殴られた気分になった。
怒りを抑えて、実家を出ることと弟へ無理矢理見合いを押し付けない条件として交換条件であったのが裏目に出たらしい。
あの生活を続けていれば陽菜は気が狂いそうだったし、暴力に走って簡易的に解決してしまいそうだったくらい追い詰められていたのである。
転職をしても尚、顔を合わせるのも嫌だった。
実家に出戻ったのも、拓実の生活が安定するまで母の干渉から引き離したかったからだ。引き出しがカード以外出来ぬ様に通帳だけ借りて、振り込み手数料がかからないように節制していたのももう馬鹿馬鹿しい。
やっぱり、部外者であるのだ。
陽菜は全く母親からの愛情を受けずに育ったから、病気に臥したら少しは良心が返ってくるのでは?と一瞬でも頭が過ぎったのすら叩き潰された気分だった。
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