戀の再燃〜笑わぬ循環器内科医は幸薄ワンコを永久に手離さない

暁月蛍火

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第2部 空白の五年間

3-4

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「あー……私も医療事務の時もそうだったし、今もそうなんです。バイトさん、ナースさんって呼ばれるとモヤモヤして」

 陽菜は桃原が事務サイドの仕事を手伝ってくれることをとても感謝していた。
 少ない人数で初診カルテを百五十人以上作成するのは、猫の手も借りたいくらい現場は怱忙そうぼう(忙しくて落ち着かないこと)している。

 早坂が何かと桃原へ口出しをするのは、医療事務の仕事ばかり手伝い医師へのフォローを疎かにしていると思っているからだろう。
 だが、桃原は早坂へ逐一気を配っているし、珈琲のお代わりを作ると言う雑用まで押し付けられている。それなのに、不満ばかり御局並みの小言を並べるのはお門違いだ。

「山藤さん若いのに、此処多忙極まりないし問題児先生いるのに辞めずにいてくれて、本当に私は助かってます」

 桃原はどう思っているのだろうか。早坂にパワーハラスメントや、下手したらセクシャルハラスメントを受けているのでは? と考え込んでいたので、桃原との会話に気がそぞろだったせいか。本音が出てしまった。

「家にいたくなくて。それに、仕事してお金入れないと──」

 ──あ……馬鹿、私の馬鹿……。

「お金?」

「実家にお金入れてて」

 やってしまった、と陽菜は観念した。
 せっかく親しくなったのに、マイナス要素をぼろぼろと出したら顔を引き攣らせて逃げ腰になる。陽菜はおにぎりを持った手に力が入って覚悟する。
 金の無心をして陽菜から給料を巻き上げる母へ反論しないのは、弟が円滑に地元を出られる様にする為だ。
 あと少し、我慢すれば解放されると陽菜は憤怒を押し込んでいた。

「だって仕送りしてるってことでしょう? だって仕送りしてるってことでしょう? 若いのに偉いなあ…ああ、上から目線な言い方御免なさい」

 思ってもみない言葉に、陽菜は口の端についた米粒を取るのを忘れて固まる。
 桃原が、お米ついてますよ、とくすりと笑って優しい手付きで取ってくれる。母性溢れる、女神のような女性を前にして陽菜は凝視した。

「……桃原さんって人誑し?」

「え?! 私ですか?!」

「私、こんなにスタッフと話したの初めてで…すみません。距離感分からず、近過ぎたら」

「え、まだ遠いですよ、でも段々近くなっていくから。山藤さん笑った方が可愛い」

 最賀と別れてからは、すっかり陽菜は笑えなくなっていた。
 何をするにも楽しくはないし、感情の起伏がなくなった気がする。テレビや図書館から借りた本を読んでも、ただ時間だけが過ぎ去って行く。
 喜怒哀楽を表現出来ずにいると、面接も悉く落ちた。ポーカーフェイスなのかしら、と面接官に苦笑されて、心象が悪いと学んでからは鏡で作り笑いを練習したくらい酷かった。

 ──陽菜は笑顔が一番似合う。可愛いのを自覚してくれ。

 常日頃、最賀は陽菜の笑った顔が可愛いと笑みを浮かべていたのを思い出す。断片的な思い出とは違い、鮮明に昨日の事のように覚えている。

 白黒の世界の中で、感情を殺して息を潜めて生きていた陽菜は箕輪や桃原の様な真っ当な人間と出会ってから着実に変化をしていたらしい。

 見合い話を破断にした時も、母に畳へ頭を押し付けられようと、階段から突き飛ばされた時の浮遊感や痛みさえも。
 心は確かに傷付いていたはずなのに、何処か他人事として処理していた。それは一種の防衛本能なのだと、陽菜は会話の中から段々と諭される。

「笑ってました?私」

 きょとんと陽菜が目を丸くすると、吹き抜け部分にある階段から風が強く靡く。髪を押さえようとしたが、遅かった。

「あ……わっ、風、強い! ビル風…っ!」

 ぶわりと吹き上がるビル風が職員用階段に抜けて行く。

「──あっ」

 一瞬、目が見開いたのを陽菜は悟った。汚いと言われてしまう、と感情の波が押し寄せる。ぼろぼろと涙が溢れて、否定されるのが怖いと思った。
 傷を晒したことは最賀以外、殆どない。
 傷の処置の為に地元のかかりつけ医くらいだ。雨の日は時折ずきずきと痛むし、何なら今は途轍もなく疼痛が響く。勲章だとか、気の利いたことを軽く言えたら良かったが、陽菜は拒絶されると萎縮した。

「山藤さん?大丈夫…?」

 涙が止まらなくて、陽菜はついに泣いてしまった泣く。陽菜が泣き出すと、ぎょっとして桃原は慌ててハンカチを取り出した。

「ごめ、なさい……気持ち悪いの、見せて…ご飯食べてる時に…こんな…っ」

 食欲失せる、と幼少期に言われたのがトラウマで陽菜は前髪で隠すようになった。視界が狭まり、視力が悪くなろうと他人に不快感を与えるよりはマシだとすら思ったからだ。

 すると、俯いた陽菜へ桃原は優しく声を掛けた。

「今は、……痛くない? 雨の日、とか」

 びくりと陽菜は体が強張ったが、恐る恐る顔を上げると眉を下げて陽菜を心配そうに見詰める桃原がいた。

「……少しだけ」

「──そう。あの、気持ち悪いと思わないです、絶対」

「え……?」

 ハンカチを震えながらも何とか受け取ったが、涙を拭う手が止まった。

「私もね、実は昔首絞められたことあって…その、詰襟の物とか短いネックレス…駄目で」

「あ……だ、から……」

 桃原は出勤服も、白衣も襟ぐりが広目の作りで基本的には首元は緩い服装が多かった。名札の紐が長いなと感じたのは、早坂がいちゃもんをつけた時に違和感を感じたからだ。
 首を絞められた、なんて一生級のトラウマだ。
 下手したら、PTSD(心的外傷後ストレス障害)を抱えるだろう。
 人間は死や強いストレスに直面した後で、本人の意思関係無くフラッシュバックを起こし、不安や緊張感が高まると悪夢や身体的に何らかの影響が出ることがある。手の震え、不眠、冷や汗等症状は様々だ。

「襟が広目の白衣だし、名札の紐も長目にして誤魔化してるんです。引くでしょ?」

「ひ、引かないです…っ、だって、桃原さんが悪いことなんて、桃原さんの所為じゃないです……」

「そう。だから、山藤さんが悪いことなんて一つも無い」

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