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第2部 空白の五年間
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しおりを挟む「おい、俺の専属ナース呼んで来い」
「あの……その、桃原さん?」
「専属なの、俺の。分かったか?」
「はあ……。お呼びしますので、本当にこれだけお願いします。お忙しいとは思いますが、添削したら戻して頂けると……申し訳ないのですが今日までに……」
専属って、勝手に作れるものなのだろうか。
謎が深まるばかりである。
桃原に当たり散らしては、子供の様に嫌われたくない一心で付き纏ってみたり、小学五年生の苛めっ子と同じだ。
陽菜は心の中で深い息を漏らして、陽菜が診察室の扉に手を掛けると突然背後から早坂が思い出したかの様に尋ねた。
「──おい山藤、彼氏とかいないのか?」
初めて苗字で呼ばれたので、吃驚して陽菜は思わず振り返る。まず、苗字を覚えていたのかと意外過ぎて声が上ずってしまった。
「え………っ」
「セクハラじゃ無いからな、そう言うの誰かに言える奴は?」
「……私が駄目にしちゃって。だから、いません」
そう、あの人の手を離したのは私なのだ。
自嘲したいのに、何故だか涙が出てしまいそうだった。くしゃりと顔を歪めて笑顔を何とか作って、陽菜は早坂の返答を待たずに扉を閉める。心の壁を作っていたのは、陽菜であると突きつけられた気がした。
陽菜は凝り固まった肩を回して、職員用階段で看護師の桃原と昼食を摂っていた。彼女はいつ見ても髪を綺麗に後頭部で整えており、凛とした佇まいである。
早坂の呼び出しの後、桃原は普段通り接するが何か言われたのだろうか。気に掛けろ、だとかそんなことだろう。いつにも増して、桃原の気遣いはパワーアップしている。
「仕事、慣れました? もし何かあったら箕輪さんや私に相談して下さいね」
桃原の膝に置かれた弁当箱には、サンドウィッチが詰められている。陽菜が今朝作った物だ。ベーコンレタストマトの物と、コールスローサラダと茹で卵で作ったので二種類にした。
本当はアンチョビで何か作りたかったが、大蒜や香りが強い物は控えるべきと思ってやめた。何故ならば、桃原と弁当交換をする約束だったからだ。
陽菜は桃原お手製の鯖フレークと白胡麻が塗されたおにぎりを頬張る。鯖の塩っけと胡麻の風味が鼻腔に抜けて、あまりの美味しさに思わず唸った。
ロマネスコで作ったお手製ポタージュを桃原に保温ポッドから注いだカップを渡す。
「桃原さん、正社員さんかと思いました」
陽菜は試用期間を脱出したのは、問題児である医師の早坂と何とかコミュニケーションを図ることに初めての成功例になったからである。箕輪と桃原が一番に喜んでおり、今夜祝杯を上げてくれると言う。
同僚と祝杯、なんて響きは一生無縁であると思っていた。
陽菜は静かに、目立たず、生きるのが当たり前だった。暴力や怖いものを最大限回避するには、娯楽や嗜好は妨げになるくらい、抑圧された日常に縛られていたからだ。
笑ったり、楽しんだり、幸せになればいつか悪いことが起こると思っていた。そう、箒で叩かれた時に思い知らされたのだ。
それを打破し、自由に生きることを教えてくれた男も、もういない。
変わらなければならないのは、自分自身である。
陽菜は素直に、その誘いを喜んだ。前を向いて歩いて、教えを説いた男との約束を違えない為にも。
「最近保険の絡みで常勤扱いですが、正社員では無いんです。ギリ社保入れる勤務時間で」
社会保険に加入する条件は、一週間の所定時間や労働日数の四分の三がボーダーラインと言える。
正社員として勤務しない理由は何かあるのだろうが、折り入った内容は避けるべきだ。陽菜だって、様々な問題を抱えていたし、あまり聴かれたく無いからだ。
「……いつも頼りっぱなしになってしまって。負担になってないか」
「え?! 山藤さん仕事速いのに?!」
「ノロマとか言われたり前の職場では…。桃原さんだけですよ、看護師さんでも私のこと事務さんって呼ばない方」
桃原は陽菜を"事務"さんと呼ばない。前の職場では常に時間に追われ、早く会計処理しろ!二十分も待ってるんだけど!と怒号が飛び交う中にいた。
肘で小突かれることも屡々あったので、陽菜はそれに比べたら院内も綺麗な検査機関で、且つ医療ビルに駐在する守衛、優しい先輩達の存在は大きかった。
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