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第2部 空白の五年間
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しおりを挟む「あとね、一応……早坂先生、独身……だから。家庭の件はその……多分よりヒートアップするから」
「そう……なのですか?てっきり……」
天然?と桃原がまた思い出し笑いをして、院内の待合室の隅で二人は小声で話す。
早坂は家庭が上手くいかずに年若い人間に医者で男性という、圧倒的な権力を振り翳す横暴な人間だと思っていた。
だが、見た目とは裏腹に、独身貴族で寂しさや憤りさに、早坂は桃原へやっかみを口にしたりするのだと陽菜は自己判断した。
意外とこれが複雑な関係性であることは後々に嫌と言うほどに知るが、入職六日目の陽菜にはこの時はまだ知る由もなかった。
「性欲低下絡みを山藤さんの口からやんわり出たから噴き出しちゃった。笑ったこと内緒ね、早坂先生には」
前途多難から、微かな兆しが木漏れ日の様に漏れる。
桃原は陽だまりの温かさがある、と陽菜は長い綺麗なセパレートの睫毛を見詰めてそう思ったのだった。
****
「なんでお前泣きそうになってんだよ……」
処置室にあるポッドの前で誰かに話し掛けている。
「最低です、鬼。早坂先生は私が何言われようと鉄の塊だとでも思ってらっしゃる…」
「悪かったって。機嫌直せって。お前に拗ねられると俺が困る」
「あれだけ癇癪起こして私に散々当たり散らしといて、暫くご機嫌取りして下さい」
「何すれば良いんだよ」
「私を風避けに使って、こうやって珈琲作るのに連れ出されてる理由をお考え下さい」
先ほどとは打って変わって、二人は親しみを含んだ様子であった。
昼下がりの真っ只中、キャンセルが飛び込んだことでゆとりのある時間帯が突如訪れた。電話でキャンセルを承って、最新の予約表を作成後印刷して配布しに早坂を探していると。
悪かったから、と早坂が困惑して桃原に付き纏っている。単に素直に話せない大人なのだろう。桃原もいつものことなのか、軽くあしらっている。
陽菜は処置室にいる早坂の背中に声を掛けようとカルテを持ち直すと、気配を感じ取ったのか振り向き様に大きな声を上げて肩を震わせた。
「────うわっ、背後霊みたいにいんなよ!」
「すみません、お話中だったので……」
「山藤さん? 蜂蜜ジンジャーとロイヤルミルクティー、ショコララテとコーヒーどれにします?」
沢山のティーバックと、粉茶の沢山のパッケージをテーブルに並べて桃原は都度説明してくれた。
これは酸味が強いが美味しい、とか紹介してくれるので陽菜は何かを選ぶことが苦手だったので、自然と迷ってしまう。
「……あ、ありがとうございます」
ロイヤルミルクティーを指差す。早坂は桃原の後ろに立って邪魔しているようにしか見えない。
また、陽菜同様に自分が飲む物を桃原に用意させているので、じっと視線を落とす。
「良いだろ、特権だからな」
ふん、と鼻を鳴らして早坂は陽菜が抱えた最新の予約表を奪い取った。特権、とは桃原にブレイクコーヒーを淹れてもらうことなのだろうか。
「先生、本当に山藤さんを虐めないで下さい。あ、箕輪さんにも持って行こうか」
「ノンカフェインにしろ、妊婦なんだからあいつ」
「はいはい、早坂先生の仰る通りに」
妊婦はカフェインの過剰摂取は良くない。
医師としては、スタッフに苦言を呈す割にはその点しっかりと健康被害については物申すらしい。
最新の予約表です、と桃原へ手渡すと彼女はじとりと早坂を一瞥して見せる。
「先生、私の機嫌取りでカルテ整理手伝って下さい。幸いにも健診一件キャンセル入ったので」
「俺の手を酷使しろと?!」
「早坂先生の暴挙をまともに食らったのですが?」
「……お代わりも淹れてくれるなら」
早坂を渋々承諾させるまでに転がす桃原は扱いが上手いのだろう。だから、看護師の担当に桃原が打診されるのか。
こぽこぽとお湯を注ぎ、マグカップを渡される。アップルジンジャーティーの風味が漂う。ノンカフェインの物が豊富なのは、きっと箕輪や他のスタッフへの配慮なのだろう。
受付で椅子に深く寄り掛かって、会計処理の入力をしている箕輪へ陽菜は持って行った。
可愛いファンタジーの小人のマグカップに淹れてもらったジンジャーティーの馨しい香りがふわりと揺らぐ。
「ノンカフェインの物、淹れてもらいました」
「うわっ、ありがとう! 助かる!」
早坂に付き添う後任のクラークがいないのは、恐らく本人の人格なのだろう。正論を振り翳すのに、手元に置きたい人間を選別しているのか。
「もしかして、早坂先生の前任者って……」
「はい。あの通りなので続きませんっ!ごめん!先に言うべきだった!桃原ちゃんが三人目の犠牲者出す前にって盾になってくれたでしょ?」
箕輪が観念して白状した。
確かに、手綱を握って欲しいとスタッフ一同が叫ぶくらいの暴君医師である。陽菜で三人目、と言うことは過去に二人クラークが配属されたもののお手上げ状態だったらしい。
中堅規模の病院でクラークとして実務経験があった二人目ですら、早坂の人格に嫌気が差して転職をしてしまったのだと言う。
「桃原さん、いつもそうなのですか? なんか不憫で……その、早坂先生にフルボッコ状態でして」
「桃原ちゃん以外、ぶっちゃけ無理なんだよね……。私も余りにも他のナースと喧嘩しまくってたから、桃原ちゃんに逃げられたら後がないからお姫様扱いしてくれって喧嘩した」
「お姫様……」
陽菜が絶句する番だった。
事務だけで無く、院内全域で波乱を生んでいる男に。桃原へ全て丸投げすることで、円滑に物事が進むのなら先陣切って誰しもが擦りつける光景は異様だったからだ。
看護師とも喧嘩をする医師に、歯が立つわけが無いのを知っていて新人の陽菜を専任にしたのだろう。若く右も左も分からぬ新人には流石の早坂もカルテを投げたりはしない、と。
確かに、カルテは飛んでこない。
前職場はバインダーやその他諸々は風と共にやって来たので、陽菜は反射神経がいる現場に危険手当が無いことに驚いた。
ましてや、殴られたら此方が殴られ損なのだ。殴られた側が始末書ならぬインシデントレポートの提出、対応が悪いからと非難される。
怒鳴られても首を垂れて申し訳ございませんと謝罪するのが摂理であると体に染み込まされるのだ。
それに比べたら、早坂善次と言う外科医は怒り心頭で怒鳴り散らす割には論理的で、全てが正論なのである。
誠心誠意、円滑に物事が進むことを知ってもらい、本人が仕方がないなと折れれば肩を並べられなくは、ないのだ。
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