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第2部 空白の五年間
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しおりを挟む「此処は特に医師の仕事や負担が多く、それらを軽減、職場環境の改善の為に導入されました」
医療事務とは仕事は類似しているものの、メディカルクラークの仕事は医師の事務作業を代行する職種である。
「早坂先生がどんなに嫌でも、時間をかけて少しずつ慣れて頂きたいのです」
早坂の身なりや物言いは大学病院や総合病院等、大規模の場所で勤務をしたことのある出立ちだ。
それならばクラークの有用性は理解しているだろう。
それでも、陽菜は半人前以下だ。
足手纏いなのは重々承知の上で、ただ"御免なさい半人前なので"と遜れば何も変わらない。
引け目を感じて、十歩も下がったままではクラークの存在意義は無いのである。
「三人目、お前で。この数字、分かるか?」
三人目、とは陽菜の前に二人いたことになる。
要らない、の烙印を押されたか、辞退をしたのか。陽菜にとっては知る由もないが、辞めた人間が二人はいたことは事実だ。
鼻で笑って、もう一人増えるがな。そう、早坂は付け加えた。陽菜のことを指したのである。
「指導者もいない、それで現場に放り出されて教えて下さい先生! って、医者の仕事を軽くするはずの人間が、重荷になるなんて、考えたらアホくさいって思わないか?」
椅子から徐に立ち上がった男は二人の前に立ちはだかる。悠に陽菜の頭二つ分くらいの身長である。壁みたいに聳え立っており、陽菜は呆然として早坂を見上げた。
熊とチワワくらいの体格と力の差を見せ付けられた気がしたのだ。
「早坂先生、お願いです。彼女は今仕事を覚えるのに順応している最中です。それを……見守ってあげてて下さい、何か不手際があれば……箕輪や私がいればサポートに入るので……」
「元医療事務さんは時給上がらないのに何でもやっちゃうんだなあ。それなら俺のメンタルサポートもして欲しいくらいだ」
嘲笑して早坂は桃原の首から垂れたブルーの紐の先の、胸元にクリップされた名札へ指差す。ネームプレートを深爪の指が弾いて見せる。
桃原が一歩後退りをした。歩み寄るのは、時として上手くいかないものだ。
「……山藤さん、私が代わりにカルテ庫、とか案内しますね。先生、失礼します」
深々と御辞儀をして、陽菜を連れ出した桃原は微かに瞳に水の膜を張って耐え忍んでいた。
診察室を退室して、中待合室スペースでぴたりと足を止めると、山藤は陽菜に振り返る。
「ごめん、ちょっとだけ席外しても…良いですか?」
長い睫毛が揺れて、今にも眦に留まっている雫が零れ落ちそうだった。陽菜は謝罪をしようと口を開いたが、直ぐに桃原が悲哀を滲ませた声音で吐露する。
「フォローだけ入れますので、その……はあ、駄目、私泣きそうなの、メイク落ちてないですか…?」
「……マスカラも落ちて、ません」
「御免なさい、嫌な気分にさせて。先生、ガウガウ期……なんです」
ガウガウ期と表現した、どんな人に対しても噛み付く時期であるから気にするなと言いたかったのだろう。
手傷を負ったのは桃原なのに、陽菜のことばかりを気に掛けている。優し過ぎる、と陽菜は思った。
獣同然の怒りっぷりは、暫く鎮静化するには時間がかかるだろう。業務に早く順応し、迅速に対応することが可能になれば、少しは状況は改善されると信じたい。
────もしかして、先生って更年期かも?
それならば、あの憤怒は辻褄が合う。男性の更年期は早坂の見た目年齢四十代から徐々に著名に現れる。加齢に伴うテストステロンという男性ホルモンの低下が原因だ。
あの眉間の皺の深さは累積されたストレスだと陽菜は思い始めた。
「あ、の」
「はい?」
「……早坂先生、更年期かも、しれません」
「こ、こうね、んき……っ、そ、そうだねっ、はは、私もそう思います」
予想外だったのか、桃原は噴き出して盛大に腹を抱えて笑った。陽菜は意外と真剣に考察した結果見出した答えだったが。
男性の更年期はメジャーではないものの、潜在的に多いらしい。本人達が認めない、知識がないだけで、実際の患者数は少なくはない。
「男性のホルモンバランスも女性と同じく年齢と共に低下し、男性の場合は終わりが見えません。主な症状は苛々するなど怒りっぽくなったり情緒不安定と言った精神的な物が多いと見ました」
何とか桃原を元気付けたくて。きっと、陽菜が謝り倒したら、困惑してしまうと思って陽菜は必死で桃原をフォローする。
「それに、性機能症状として不安感を募らせ家庭不和にも繋がり……ええと、家庭で上手くいかないストレスを誰かにぶつけるといった悪循環へ……」
「山藤さんフォロー上手いなあ、私根暗なんで直ぐ恫喝されると……はあ」
「……構ってちゃんにしか聞こえなくて」
「えっ」
幼少期から親に愛情を十分に注がれず成長すると、特に此方を見て欲しいが故に加減が出来ず、癇癪を起こすことがある。見て、見て!聞いて、聞いて!が繰り返されると自ずとヒートアップして火が付いたように言い分を聞き入れてくれるまで続ける。
陽菜も、最初は母に構ってもらいたくて必死で小さい体で猛アピールしたものだ。
怒ったり、地団駄踏んだり、その場から動かなくなったり。
けれども、彼女は決して陽菜に振り向くことは無かったし、暴力がエスカレートして我儘を言うのを止めた。
「駄々っ子……的な。私も昔ああやって、何パターンか試したことがあって。結局効かないんですけど……」
「あ、ああ……」
桃原が何か言いたげに、冷や汗を一筋かいている。陽菜は首を傾げて、桃原に花柄のハンカチを手渡して、心配要らないことを伝える。
「私、怒られるのに耐性あるので、大丈夫です」
「た、たい……せい……駄目ですよ、それじゃあ心が悲鳴を上げちゃいます」
「どうして?」
言葉を失って、口を閉ざした桃原は暫く考え込んでしまった。そうして、漸く陽菜へ言葉を選んでこう言うのだ。
「もし、困ったことがあったら……その、相談、して下さいね?」
「────そう、だん」
「業務のこと、とか!あと、色々……?」
「はい、桃原さんお気遣い……本当にありがとうございます」
まだ、陽菜は誰かに頼ることや辛抱強いが故に堪えてしまう癖があった。桃原は瞬時に悟ったのだろう。
少しずつ、五年の月日が陽菜の悪癖や思考、そして生き方を変えて行くのは道なりが長く、この時はまだ程遠かった。
陽菜にとって弱い部分を見せる行為はひどく、怖いものであったからだ。
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